第12話:狗狼の勧め

「あの、草鞋わらじがなくて。貸してもらえる?」


 行こうと雲にも誘われ、縁の端に立った。が、困る。寝ていたところを運ばれたのだから、履き物がない。


「ふむ。用意はすぐに出来るが、今はこれで良かろう」

「えっ、なに」


 土間の出口辺りへ居た狗狼が振り返り、つかつかと寄ってくる。それからどうするとも言わず、菫の背へ腕が回された。


「わっ」


 膝の裏からも掬い上げられ、ふっと自身の重みがなくなる。気付けば狗狼の胸へ、横抱きにされていた。


「ど、どうするの」

「どうもこうも、お前を運んでやるのだ」

「ちょっと、これ」


 ――赤子みたいじゃない。

 乳飲み子が親の腕で、すやすやと眠っている。そんな姿に似ていると思った。十六の身には、恥ずかしさが過ぎる。

 なにより男の胸板に、これほど近い経験がない。女と違うかねのごとき硬さが、頬に痛くも頼もしかった。


 顔が熱く火照る。ただそれも、視線の向きを変えるまでだ。見上げればそこに、狗狼の顔がある。理由は分からずとも、ほっと菫の心を安らげる狼の顔が。


「まあまあ、楽でいいじゃないか。雪も積もってるし、山道はまだ危ないからね」

「う、うん」


 痛みが薄いので、うっかりしていた。菫はひどい怪我をしている。それで雪道を歩くなど、自殺行為だ。


「雲がそう言うなら」

「いい子だ」

「ふん、行くぞ」


 板張りの格子戸を、雲が開く。晴れた空から、陽が降り注ぐ。随分と久方ぶりに思えて、額に手を翳した。

 快晴とはいかない。冬の厚い雲がちらほらとしている。優しい彼女でなく、空の話だ。


「雲も来る?」

「来てほしいんだろ?」

「意地悪ね」


 灰の色の袿をからげた、草履姿。その下には白い単衣も覗いている。小袖と小袴で泥だらけになっていた菫とは、女っぷりが勝負にならない。


 ――なろうと思ったら、わたしもこんなひとになれるのかな。

 知らず、そんなことも考えてしまう。それほどだから、山神の付き添いをも勤まるのだろう。どだい菫には届かぬ世界と分かっている。


 段差を付けた踏み石を下ると、真っ白な平面が僅かな土地の起伏に従って広がる。獣や鳥の、足跡ひとつない。

 狗狼は黒い革のくつで、真新しい窪みを拵えていく。もちろんすぐ後に、雲の足跡も。


 黒い鳥居をくぐる。するとそこが境界と弁えるように、下草が姿を見せ始めた。進むにつれ、やがて低木から高木に変わっていく。

 そうして着いたのは、菫も知る場所だった。遠吠岩だ。


「うむ。今日は霧がない」

「本当ね。都の向こうまで見える」


 山々の途切れた先へは、まだ雪がないらしい。枯れた田畑の先に、飛鳥京の朱柱まで見える気がした。


「おや、あれはなんのお祭りだろうね」


 しばらく眺めていると、雲が言った。見下ろす格好だったので、菫も倣う。

 見ればたしかに、街道へ人が多く出ている。一人ずつ誰かまで分からぬが、身なりは公家の護衛と思えた。


「大納言家の道中だ。しばらく逗留していたが、都へ戻るようだな」

「大納言……」


 行列の中へ、黒い輿が二つ見える。どちらかが大納言で、もう一方はその奥方でも乗っているのか。どちらも騎馬の護衛が、厳重に前後を挟む。進む脇へ立ち並ぶのは、南の町の住人だろう。


 ――椿彦も帰るのね。

 この場所で少しばかり話した美丈夫は、大納言に連れられた身と言っていた。騎馬のどれかがそうかもと、目を凝らすが見えるはずもない。


「興味があるのか」

「えっ、いや。うん、ちょっと」


 がっかりしたところへ、狗狼の声。身を強張らせ、僅かにびくりとしてしまった。


 ――ううん、がっかりなんて。椿彦は狩り遊びに来ただけ。なにも縁なんてないもの。

 あの男はなにやら案じていたようだが、菫には難しかった。

 戦にならなければ良い、と唯一分かった部分にだけ共感する。椿彦が怪我をするのは、かわいそうだと。


「あの行列に、東宮とうぐうが居る」

「それ、なに?」

「帝の子だ。次の帝になる予定の皇子みこだ」

「そうなんだ」


 帝に子が居るとは知らなかった。いやもちろん世継ぎが必要なのは分かるし、ならば居て当たり前だろう。

 菫にはどこか遠い場所の話で、有り体に言えば興味がない。


「お前が望めばだが、東宮の妻にならんか」

「へえ、東宮の妻に」


 妻。結婚という言葉も、同様に遠い。

 同年代の女から、自分はどんないい男と添い遂げ、子を作るだろう。そんな妄想を聞き、叶えばいいねと言ったことはある。


 けれども共感は出来なかった。菫は山中で獣を追い、持ち帰って食う。その暮らしだけで十分に楽しかったから。

 ましてや今、東谷の男どもをその対象に見るのは不可能だ。


「って。ええ? もしかして、わたしに言ってるの」

「当たり前だ。だからお前も返事をしたのだろうが」


 とぼけたわけでなく、ようやく意味を呑み込んだ。

 どこかの誰かが、東宮とかいう別世界の人間と結婚をする。そういう話に聞こえていた。

 しかしどうやら、菫がその誰からしい。


「ええっと、おかしいよ。わたしが帝の家に嫁ぐとか、あるはずないし」

「お前が望むのなら、出来る。当然に振る舞いなどは、雲に習わねばならんがな」

「いや、あの。雲、どうしよう」


 狗狼の言葉は冗談でないらしい。とにかくそうしろと押し付けるでないが、菫とすれば突飛にもほどがある。


「うん? 悪い話じゃないとは思うけどね」

「そんな、雲まで」


 頼みの彼女も、結婚を否定はしない。裏切られた思いだが、たしかに悪い話ではなかろう。なにせいずれは、飛鳥の頂点に立つ男というのだ。

 問題は会ったこともなく、恋だの愛だのに菫の興味が向かないこと。


「でも狗狼。いったい、どうしたってのさ。身の振り方を勧めるなんて、今まで一度もないじゃないか」

「どうもせん。菫があまりに、先を考えるのを難儀げにしていたからだ」


 訝しく、「へえ?」と雲の声。狗狼はまた首が痒いのか、肩から首を変に動かす。


「またのお越しを、東谷の一同、お待ち申し上げまする」


 遠く麓から、張り上げた声が届く。さほど大きくは聞こえなかった。この場の誰かが口を利いていれば、きっと気付かない。

 だが、聞こえてしまった。

 声の主は、東谷の纏め役。菫に怪我を負わせ、生け贄として打ち棄てた者たちの代表。


「うっ、うえ……」

「おい、どうした」

「菫、大丈夫かい?」


 吐き気がこみ上げる。堪えようと考えるのも間に合わない。


「うえぇぇ」


 菫は昨日から食った物を、残らず戻した。それは自身のみならず、抱える狗狼の腕や脚も汚す。

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