第2話:快男児

「あらためて、案内をお願いするよ」


 沢から距離を取り、若い男は言った。連れの男どももそれで了解したらしく、うんうんと頷く。

 ともかく助かった。案内の意図やら歩みの早さやらは、どうとでもなる。しかし菫が女という事実だけは、逆立ちをしても変えられない。


「わ、分かりました」

「まあまあ、落ち着いて。大納言どのは、なにか虫の居所が悪かったのだろう。連れられている私が言うことではないけれどね」

「いえそんな」


 言われて気付く、たしかに落ち着かない。ただし大納言とやらのせいでなく、目の前の若い男のせいだ。


「あの、あなたもお公家さまですか」

「いや私は違うよ」

「では、なんとお呼びすれば?」


 案内をお願いする・・・・・などと、初めて言われた。村の男たちは女に物を頼むのに、「しろ」「やれ」としか言わない。街へ行けば横柄とされるのは知っていたが、村では普通のことだ。

 今さら師匠たちや進ノ助が「見張りをお願いするよ」とでも言おうものなら、菫は身体中を痒くして悶え死ぬかもしれない。


「私の名など――」


 若い男は、言葉に詰まる。なにを迷う必要があるのか分からないが、思慮に空を見上げる目が凛々しい。

 顔貌もすっきりと細く、背丈は菫よりも頭一つ高い。うらはらに、腕や脚は筋肉が隆々とした。きっと武芸で鍛えたものだろう。


「すまないが、この場で言えるような名ではなくてね。良ければ、呼びいいのを考えてもらえないか」

「わたしが、ですか」

「ああ。それに言葉も、菫の普段の話し方が嬉しい」


 妙なことを言う。大罪でも犯して、名乗れないのか。と考えたが、まさか公家がそんな人間を連れるはずがない。


「普段の話し方って、こんな風になるけどいいの?」


 試しに口を利くと、連れの男どもが「失敬な」と声を上げかけた。けれども若い男が制し、収まる。どうやら本気で言っているようだ。


「構わない。私の周りは方便だらけでね、生のままの人に触れたいのだよ」

「方便?」

「真実でない、取り繕った言葉ということさ」


 おべっかを使う者に囲まれている。だから素のまま喋る相手になれ。

 どうやら、そういう言い分らしい。つまり公家でないと言ったのも方便となるが、気持ちは分かる気がした。


「分かった。それで、名前ね」

「ああ良かった。先の彼にも同じことを頼んだが、断られてね」


 進ノ助は同い年のくせに、兄貴ぶる癖がある。自分は菫よりも分別があると、いつも言う。

 この若い男は公家の当人でなくとも、身分の高い者の子息だろう。だからそんな失礼は出来ないと、空気を読んだのだ。


 それはさておき。急に名付けろと言われて、意外と思い浮かばない。なにかとっかかりはないか、目に映る物に答えを求める。

 すると若い男の立つ上へ、椿の葉が見えた。艶々として、碧が濃い。はっきりとした輪郭に、通ずるものを感じた。


椿彦つばきひこ

「おお、それは良い名だ。偉そうでなく、響きもいい。しかし美しすぎて、私にはもったいない気もするが」

「似合うと思ったんだけど……」


 思いつきに違いないが、美丈夫に相応と感じたのは本当だ。名を言った途端に手を叩き、目を見張って褒めてくれたのも、大ぶりな椿の花を思わせた。


「そう言ってくれるなら、ありがたく受け取ろう。嬉しいよ」


 きりりとした表情が、笑うと融ける。見た目よりも大人びた印象が、その瞬間だけ少年ぽさを零す。

 なぜだか一つ、心臓が高鳴る。怖ろしいものを見たわけでもないのに、びくりと身体が慄いた。


「い、いえ。いいの」

「それで菫の案内を頼るには、なにか注意することがあるかな」

「注意すること?」


 それはもちろん、いくつもあった。しかしこの組には、進ノ助が告げているはずだ。大納言のように最初のひと言くらいで「もういい」と勝手に進み始めてはいまい。


 ――でも、これだけは。

 繰り返しになっても、必ず守ってもらわねばならない。思い直し、山頂の方向へ身体を向ける。


「あそこに、山神さまの祠があるの」


 山が高さを増し、樹木が姿を消す辺りを指さした。枝葉に遮られて見えないが、宮司も誰も居ない祠が、菫の脳裏にはっきりと浮かぶ。


「うん、狗神だったかな」

「そう。狼の姿をした、四方の村を守ってくれる神さま。だからわたしたちは、どんなことがあっても狼を傷つけない。仲間が食い殺されてもね」


 事実は逆で、畑を荒らす猪などを駆逐する狼を神と呼び始めたのだ。だがこれも、猿と同じ。これまで皆がそう信じて、ご利益もあっただろう。だから倣う。

 そうでなくとも、菫は狼を傷つけてほしくない。あの優しい獣が、進んで人を食うことはないと知っているから。


「村の纏め役が言っていたし、進ノ助も必ずと言っていた。菫の村にとって、本当に大切なのだね。分かった、きっと従おう」

「ありがとう」


 微笑みながらも真面目な声で、椿彦は誓ってくれる。

 この男が言うなら安心だ。なにも知らぬ相手なのに、不思議と信じられた。


「椿彦は、なにを狩りたいの? 鹿や猪、それとも兎?」


 連れも若く、機敏そうな者ばかり。これなら多少は分け入っても問題なかろう。とっておきの狩り場も含め、菫は要望通りの場所へ連れていくと決めた。けれども椿彦は、首を横に振る。


「眺めのいい場所へ案内してもらえないか。出来れば南西の開けたほうがいい。進ノ助にも頼んだが、景色のことは知らないと言われてしまった」


 冗談めかして、皮肉げな表情を作る。おそらく「景色なんか腹が膨れない」とでも言われたのだ。

 とはあくまで菫の想像だが、進ノ助なら言いそうだと笑ってしまう。


「やっと笑った」

「え?」

「まだ菫の笑みを見ていなかった。今日いちばんの獲物だ」


 言いつつ椿彦は、自分こそ声を上げて笑う。湿り気のない、清々しい笑声だ。


「な、なにを言ってるの。眺めのいいところ、行かないの?」

「いや行こう。道中、獣が居れば教えてくれ。弓の腕も磨かねばならないからね」


 慌てて山刀を抜き、菫は茂みに分け入る。まだ数歩というのに、奇妙な息苦しさを覚えながら。

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