第16話 ジェンダーアイデンティティー

遠くに消えていくマイクロバスは、ガタンゴトンと揺れながら小さくなって行く。

童話の中に出てくるような光景―木々の緑や枯葉の赤や黄色、真っ青な青い空の向こうは桃色の空。

まだ白みがかったぼんやりとしたお月様と霞んでいくお日さま。

小鳥たちが哀しく泣いて、波の音は優しい。

砂利道の茶色と白と黒。

そこを突き抜ける、カラフルなマイクロバス―あたしは…あたしはどこにいるのだろう。

なぜこの世界に迷い込んでしまったのだろう。

そう考えている自分の心の声が辛かった。

ジュディーさんは、夕食の支度があるからとホテルに戻り、絵描きさんとダンサーさんはいつの間にかいなくなっていた。

残ったあたしたちは、しばらくこの場所から動けなかった。


何故だろう。


とにかく、ただ立ち尽くしていた。

枯れて疲れた大木みたいに。


「ho…」


花屋さんのため息が聞こえた。

表情はフードに隠れてわからなかったけれど、きっと寂しくて不安で仕方がないのだろ。

あたしは、花屋さんの頭をポンポンと軽く叩いて言った。


「ho…だね…」


と。

こんな時こそ、おしゃべり男の出番のはずなのに、さっきから一言も喋らないでいる。


横目で彼を見てあたしは驚いた。

瞳が潤んでいて今にも泣きだしてしまいそうだ。

あたしは、暗い気持ちになるのがこれ以上たまらなく嫌だったから、わざと大袈裟な話を始めた。


「あの親子ってなんだか素敵。あ~あ、あたしがもし結婚できるならあんな親子に憧れるなぁ…あ、でもそれにはカッコいい旦那さん見つけなきゃだし、なかなかいい男って見つからないよね。あこちゃんって可愛いし、そういえば彼氏とかっているのかなあ? 誰か知らない? 聞いたことない?」


我ながらに驚いてしまった。言葉が次々と溢れ出た。これって、まるであたしがおしゃべり男みたいじゃない…。


作家さんが呟き始めたけれど、前半はあまり聞き取れなかった。

でも、ある言葉にあたしの頭は真っ白になりかけた。


「あこちゃんは戻らない」

「あこちゃんは死ぬ」

「これがお別れ」


あたしは怒りのあまりに作家さんを睨み付けた。

そして言った。


「馬鹿じゃないの!」


作家さんはそれでも何かを延々と呟いていた。

あたしは殴ってやろうかと、震える身体を抑えるのがやっとで、今にも気を失いそうになっていた。

そこへおしゃべり男が割って入った。


「まあまあ、そんなに縁起悪いこと言っちゃあさ、ああっ!だけどみんなには秘密にしてたんだけど言っちゃおうかなあ、どうしようかなあ。やっぱ言っちゃう。言っちゃうよ、覚悟は良い? 実は誰にも言ったことないんだけど、命を蘇らせる言葉を知ってるんだなあ」


あたしはますます気が遠くなっていった。

こいつは何を言ってるんだと。

だけど花屋さんはぴょんぴょん飛び跳ねて興奮している。


「ほほほほほほほほ、本当ですか! ほほほ、ほんとですか?」


「嘘なんて言わないよ。その力がバレそうになって、色んなとこから取材が来ちゃって嫌になったから逃げて来たんだよ。だってプライベートも何にもありゃしない。参ったよ」


おしゃべり男は大笑いして、花屋さんは飛び跳ねていた。

作家さんは話を乗っ取られたのが気に障ったのか、とぼとぼとホテルへ引き返して行った。いい気味だ。


「ho~」


花屋さんは、飛行機みたいに両手を広げてあたしたちの周りを走り回っている。

おしゃべり男は「なんだ、どうした」と言いながらあたしを見た。

あたしは、おしゃべり男の話は好きにはなれなかったけど、場を繕ってくれた事に変わりはないのだから「ありがとう」と言いたかったけれど…やめた。


お返しにあたしも「ho~」と言いながら花屋さんのあとを追っかけた。

おしゃべり男は初めのうちは困惑していたけれど、いつしか「ho~」と恥ずかしそうに言いながらあたしのあとを追っかけ始めた。

三つの出来損ないの飛行機。

飛行機雲は作れないけれど、わずかな強さは作れるみたいで、そう考えていたら途端にお腹が空いてきた。

今日の晩御飯は何かしら?


ベートーヴェンはあんまり好きではないけれど、それは幼い頃にピアノ教室に行くのが嫌で、それがトラウマになっているだけの話だ。

だって、みんなとゲームしたりお買い物に行きたかったんだもん。

そんなことを思い出しながら、あたしは外れ劇場―この呼び名はあたしだけしか知らなくて、もちろん紳士やあこちゃんも知らない。

ABARAYAのはずれにあるから命名したのだけど「外れ」が「ハズレ」みたいに感じ取られちゃったら嫌だから、正直には誰にも言えないだけの事なのだ―そこのステージで踊るダンサーさんを見つめていた。


初めてここに足を踏み入れた時は、うるさいおしゃべり男の声だけが響いていた感じだったけど今は違う。

ベートーヴェンの「月光」の、幻想的であたしにとっては悲哀に満ちたピアノの旋律が心に響いているし、ダンサーさんの艶やかで、躍動的な身体の動き、そのひとつひとつのシルエットがあたしの脳裏に焼き付いていった。

ダンサーさんの黒いユニタードはうっすらと汗で透き通っているから、引き締まった上半身の筋肉や骨格が自然と目に入ってくる。

その美しくて気品さえ感じる姿からも目が離せないでいた。

顔は女性なのに身体は男性。しなやかさで逞しく、世間の認識では不自然と思われがちだけど、今のあたしにとっては、純粋で清らかな存在にしか思えなかった。

ダンサーさんを観ている限りでは…。


ピアノの旋律は続いている。

ダンサーさんの足元のコンポから流れてくる世界観が、あたしには心地良かった。

作家さんの言葉がどうしても頭から離れないでいた。

「死」というものや、そのもの自体を考えたくはないし口にもしたくないまま育ったあたしは、作家さんが発した、異端語をどうしても受け入れられなかった。

それに、あこちゃんが不治の病とか、死んでしまう病気という証拠はないし、何よりも不謹慎で不快な気持ちが残っていたからたまらずこの外れ劇場に駆け込んでしまったのだ。

もちろん、ダンサーさんがいてくれるはずだという期待を込めながら。


「月光」は延々と流れている。


たぶんCDをエンドレズモードにしているのだろう。

このままずっとこの世界に浸っていたい気持ちで、あたしの空腹のお腹の虫たちはどこかに隠れてしまっていた。


「まだ出てこなくて良いからね」


と心の中で呟いて、ガラス細工のような繊細な世界観に身をゆだねている。

それはまるで難破船に取り残されたあたしが、大海原を風と波の思いのままに身体を預けているのと似たような感覚。それと同じなのだろう。

上空には透明なお月様。

うさぎはいないけど、おおきくてまんまるな可愛い表情は、こんなあたしでさえも受け入れてくれる。道案内もしてくれる。やさしく包み込んでもくれている。

強めの風が吹き抜けて、お邪魔虫な千切れ雲を追い払ってくれる夜空と。心地の良い揺りかごみたいなさざ波に感謝した。


「難破船に乗せてくれてありがとう」


と。


どれくらいの時間が過ぎたのだろう。無機質な音、それはCDが停止する「キュルキュル―」っていう音が聞こえてあたしは我に返った。

ダンサーさんはステージ上でストレッチを始めている。

音のない空間がとても恐ろしくなったあたしは、思い切って話しかけてみた。


「あの…すごいですね…」


ダンサーさんは黙ったまま、目も合わせないまま黙々とストレッチを続けている。

あたしはひるまずに話し続けた。


「あの、なんて言ったらいいかどうかですけど、すごいです。あたし、小さい頃にバレエを…」


そこまで言いかけてやめたのは、習っていたのは事実だけどダンサーさんの前では自分の過去がちっぽけに思えたから。探求心や熱心に物事に取り組む人生をあたしはまだ経験していない事に、今更ながらに気が付いたからだった。


「ごめんなさい」


そう言ってあたしは立ち上がって、出口の方へとぼとぼと歩き始めた。また同じ心境の繰り返し。元気をもらえた途端に自分が惨めになっていく。でもどうする事もできないでいる。涙が溢れそうになった時、背後から「パン!」と音がした。手を叩く音だ。

とても力強くて逞しい音。

振り返るとダンサーさんが手を振ってくれている。

声は発していないけど、ゆっくりと動く唇があたしにこう語りかけている。


「ふ・ぁ・い・と」


あたしはにっこり微笑んで頭を下げた。

すると、空腹のお腹の虫たちが騒ぎ始めて劇場内に木霊した。

真っ赤になったあたしの顔を見て、ダンサーさんがにこやかや表情を浮かべてくれていた。



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