第10話 心がまとまりきれない

乗客達の大半は、大島で下船していた。

フェリーがまほろば島の美波港へ着く頃には、船内はがらんとしていて、昨日までの喧騒は嘘のように、辺りは静まり返っていた。

船は、このまま島をぐるりと回って北埠頭へ向かう。

私はあえて人もまばらな ―といっても、下船する乗客はどうやら私一人だけのようで、それはそれで好都合だった。なにせ、逃亡犯なのだからー この港を目的地に選んだのだ。

精神的にも肉体的にもくたくただったから、一日の長さにもうんざりしていて。


「どうせなら、人生の終焉まで時間が過ぎてくれたら良かったのに」


それが私の本音だった。

だって、死ぬ勇気なんてないから。

朝日は心地よくて、寝ぼけた頭を目覚めさせてくれた。

私の初日の出は、サウナでととえた感覚と似ていた。

真冬だというのにそこまでの冷気はなくて、秋空にも似た空気が鼻をくすぐる。

美波港では、ぼっちにされたけど爽快だった。

誰もいない。

誰も見ていない。

誰からも干渉されない。

自由になれた気がした。

私は、偽善者みたいな蒼い空を見上げた。

フードで視界が邪魔されていたけど、眩い世界は私の脳裏に、そして、心にしっかりと焼き付いた。

絵画のような景色を、私は今見ている。

これまでの出来事は夢であってほしいけど、神様はきっと、そんなことを望んでなんかいない。


神様なんていないよ。


私の中で、別の誰かがそう囁いた。

ここ最近、知らない誰かが私の心根を肯定している気がする。

時には穏やかな男性の声で、時には荒々しい女性の声で。

私は、始終知らない誰かと葛藤しているし、傷つけられていたのだ。

波の音を背に、私は港を後にした。

海鳥たちを見つけることすら、私には出来なかった。


海沿いの道をしばらく歩いていると、潮風でぼろぼろに錆びたバス停があって。雨よけの廂も、昔は真っ白だったであろうベンチも、今にも崩れてしまいそうに佇んでいた。

それはまるで、よそ者を受け入れない表情に見えた。

無意味な時刻表の過去の埃を、私は何度も手で拭って、丹念に行き先を確かめた。


「ホテル ABARAYA」


なんとか読み取れた文字も、そして、その存在も不確かだけど、私はやっと目的地を見つけた気がした。

だけど、きっとバスは来ない。

だって、誰ともすれ違っていないし、車も見てはいない。

利用価値のないバス停の時刻表なんて、誰からも必要とされない私と同じだ。

それでも私は、まほろば島のホテルを目指して歩き始めていた。

フード付きのコートは脱いだ。

身体が汗ばんでいたし、意味がないと思ったからだ。

そういえば、シャワーもろくに浴びてないな。

ホテルが見つかったら、とりあえず熱いお湯で身体を洗おう。

そして、横になって何も考えない時間を作ろう。

何処にもたどり着けなかったら…死んでしまおうか。

死ねるかしら?

いや、死ねないかも。

死にたいのかしら?

いや、いなくなりたいだけ。


身体に傷が現れ始めたあの日から、孤独感と虚無感が私を追い詰める。

この島で死ねるのかな? 

私の恐怖心が、心を押し潰そうと企んでいる。

こんなにも晴れているというのに、私の心には、厚ぼったい雲が覆い被さっていて、それは劇的な何か ―それこそ天変地異でも起こらない限り、消えてなくなることはないのだろう。

細かな砂埃が宙に舞っている。

海風が、私の視界と将来を邪魔する。

目を細めながら歩き続けていると、右側の小高い丘へ通じる道が視界に入ってきた。

緩やかな斜面の両側はかつての商店街だろうか、居酒屋や理髪店、お土産屋さんや果物屋さん、それに、ちいさな郵便局等が軒を連ねてはいるものの、その外観はひどく荒れていて、まるで映画のワンシーンに登場する、世紀末のゴーストタウンそのものだった。

ひしゃげたガードレール。

光を失った信号機。

粉々に砕けた窓ガラス。

吹き飛ばされて、街路灯に倒れ掛かる網戸。

枯れ果てた喫茶店の花壇の花々。

どこからか飛んで来た屋根瓦。

一軒家のドアが、風に揺さぶられて音を立てながら泣いている。

この家に、かつて存在していた温もりはいったい何処へ行ってしまったのだろう…。

私は自分の家族を考えていた。

胸に熱いものが込み上げてきたけれど、私はもう泣きくなかった。

疲れちゃうし、涙なんて残ってやしないもの。

そう思うと、何故だろう。

味のしない涙が流れ出て、ひとつの轍を頬に刻む。

私の足音なんて、どこにも届いてはいない。

この島だって、私を歓迎してくれないから、首筋に細くて長い傷が出来ても、痛みなんて全く感じなかった。

それはそれで有り難い―。


いったいどれくらい歩いたのだろう。

私は気になって、今来た道を振り返ってぎょっとした。

すぐ後ろに、真っ黒なパーカーを身に纏って、顔の半分をフードで隠した人間

が立っていたのだ。

私の悲鳴にも驚いた様子はなく、その人はまるでお化けのよう。

男か女か、年齢も確認できないその人は、何やらぶつぶつ言いながら私を追い越して行った。

パーカーのポケットが、異様なくらいに膨らんでいるのが見てとれた。

この島で初めて出会った人間―。

私は、かなりの距離を置いて、しばらくその人の後をついていくことにした。

一本道は、まだまだ先が長いように感じた。

側溝のコンクリートの重たい蓋が所々欠けていて、その隙間から弱弱しい花のつぼみが顔を覗かせている。

逞しくも見えたけど、無意味にも感じた。


私は、どうかしちゃったのかな?


その人の歩幅はすごく狭くて、まるでニワトリが歩いているみたい。

忙しなくて、歩くスピードは速すぎるから、気を抜くと見失ってしまう。

事実、どんどん離されているし、私の息もあがっていた。

その人は、時折立ち止まってはまた歩き出すけど、それが何を意味しているのかは解らない。

でも、その瞬間が距離を縮める絶好のチャンスに思えたから、私の歩幅はぐんぐん大きくなっていった。

気付かれようがいまいが、どうでも良くなっていた。

追いかけっこはしばらく続いたけど、その人はぴたりと立ち止まって、ゆっくりと振り返り、今度は私に近付いてきた。

私は、恐怖のあまり動けなくなっていた。

だって、真っ黒なフードで顔は見えないし、この世のモノとは思えない速さだったから。

例えるのなら、ちびっ子の足の速い死神―。


「わ、わ、わわわわわたしにに、なな、なにか、ごごご、ご用ですか?」


その人は、私の目の前まで来てそう言った。

声は意外にもかん高くて、でも性別はまだ判らない。

私は息をのんで答えた。


「あ、あの、この辺で宿を探しています」


「や、やや、宿を、さ、さ、さ、探してるのですね?」


「はい」


「ほ、ほ、ほんとうですか?」


その人の質問の意味が理解できなかったけど、私は素直に。


「ほんとうです」


と、言って、引きつりながらも笑ってあげた。

笑顔は久しぶりだったから、なんとなく嬉しかった。




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