第三章

「約束が違うじゃないか!」

 平成二年六月、霞が関にある東京地裁の一室で、男は外務官僚を呼びつけて誰も入室できないようにした密室の中で怒鳴った。

「まあまあ、落ち着いてくださいよ。全てが計画通りに行かなかった点はお詫びします。ご愁傷さまです。しかしあの方まで亡くなったのは、全くの不可抗力ですよ。決して狙ってできるものではありません。それはお判りいただけますね」

 外務官僚は柔らかい椅子に座ってタバコの煙をくゆらせ、笑みを浮かべながら判事を宥めた。

「ふざけんな! 何の為にこの計画に乗ったと思っているんだ!」

 まだ興奮が収まらない判事は席を立ちあがり、真っ赤な顔で官僚に迫った。それを聞いた男は、手に持っていたタバコを灰皿に強く押し付け揉み消し、笑顔を消した鋭い目で判事を睨んだ。

「何の為に? 勘違いしないでもらいたい。この計画であなたを含めて一家惨殺にしても良かったのですよ、犯人の男の家の様に。それをあなたの要望通り、奥様とお子さんをこの世から消した。偶然にも娘さんは生き残ったようですが、そんなものは後で何とでもなる。まだ小さいから病死に見せかけて殺すことなど簡単です。この後どうやって生きるかは、あなたが決めることだ。それとおかしな真似は考えない方がいい。あなたもこの計画では、共犯者だと言う事を忘れないで欲しい」

 恐ろしく冷たい目で厳しく言い返された判事は言葉に詰まり、ゆっくりと椅子に座りなおした。

「あなたは今後、私達との関わりを絶って無事生き残った娘さんと一緒に暮らせばいいじゃないですか。そうするのが一番いい。そうしないとあなたもせっかく生き残った大事な娘さんも大変なことになりますよ」

 その言葉に判事は今度こそ完全に黙るしかなかった。あの娘だけは死なせてはいけない。そう思った時、男の運命は決まった。

 

 

 城ケ咲譲二の店「レ・ジュ・ドゥ・ラーンジュ(天使のほっぺ)」に雄一が訪れたのは、店が廃業に追い込まれ食品偽装騒ぎが落ち着いた二ヶ月後のことであった。

「譲二さん、お、お久しぶりです」

 オドオドとした態度の雄一は頬がげっそりと痩せ細り、足元もおぼつかない様子だ。

 彼と十年振りに会った譲二はその姿に驚いた。

「大丈夫だったか? 店が廃業になったニュースを聞いて心配していたんだが」

「あ、ありがとうございます。すっかりご無沙汰していてこんなことがあったのに、譲二さんからは有難いお言葉をいただきました。本当にありがとうございます」

 譲二と雄一はフランスでの修行中、半年ほど同じ店で働いたことがあった。譲二が別の店に移ってからは全く連絡を取り合ったことはなかったが、雄一は彼が後に日本でフランスレストランを開き大成功していることは知っていた。

 譲二のことを自分より腕のいいシェフであり経営者としても優秀な人である、と圭が言っていたことがある。確か年も同じくらいだったはずだ。圭とも別の店で一緒に働いたことがあったと聞いている。

 店が潰れてからずっと、絶望のどん底で呆然として過ごしていた雄一は、それでも再びフランス料理の世界で生きたい、十五年のキャリアを無駄にしたくないと考えていた。

 お客様に感動を与える一品を作り続けたい、という強い気持ちを再び抱き、藁をもつかむ思いで譲二にすがった。

 なんとか自分を雇ってもらえないか。店をつぶした料理人、しかも食品偽造という汚名を着せられて潰れた店の経営者である自分だが、皿洗いからでも何でもします。もう一度この世界で生きるチャンスをいただけないか。そう譲二に伝えた。

「何を水臭い。一時期、同じ釜の飯を食った仲間じゃないか。困った時はお互いさまだ。食品偽装だって告発されたのは圭の店で、お前の店はそのあおりを受けて廃業しただけだろ? お前は無実じゃないか。幸い俺の店は繁盛していてここの他に三つ店がある。一つはフランス料理店だ。お前が店をやっていた頃のようないい給料は出せないが、腕のいいお前をそれなりの条件で雇うくらいの余裕はある。どうだ、明日からでもそっちで働いてみないか」

 譲二はあっさりと全く嫌味のない言い方で雄一を受け入れ、がっしりと抱きしめるような力強い言葉をかけてくれたのである。圭とは違った、優しさと逞しさを感じた。

「ありがとうございます!」

 目から涙が溢れ出た。この人なら信頼できる。そして自分の人生をやり直すことができる。それだけではない。雄一のもう一つの大きな悩みと苦しみを打ち明けてもいい。そう確信した。

 しっかりと深く息を吸い、吐き出した。一呼吸してから雄一は思い切って切り出した。

「譲二さん。もうひとつ、相談したいことがあるのですが」

 

 

「警察になんて冗談じゃない!」

 菅原ひとみは、クリニックから出て最寄り駅まで歩く帰り道、吐き出すように舌打ちをしながらそう呟いていた。

 「飯尾クリニック」の担当医である恵子に、ひとみは自分の悩みを思わず口に出してしまったことを後悔した。

 診察で、恵子の放つ柔らかく優しい口調から話されるいくつかの問いに答えていくうちに気を許してしまい、話すつもりがなかったことまでベラベラと喋ってしまったのだ。

 途中でマズイ、と気づいた時には遅かった。慌てていろいろ取り繕ったが、恵子は警察に相談した方がいい、親身になってくれる人も知っているしクリニックのすぐ下の弁護士事務所の先生とも知り合いだからどちらでも相談に乗ってもらえるよう紹介もできるわ、などとほざいた。

「あの女、何様のつもりよ! ムカツク!」

 ひとみは治まらない怒りを覚えた。あの女、どうしてやろうかしら、そろそろ何か手を打たないと、そんなことを歩きながら考えていた。

 そうしているうちにまた憂鬱な気分になった。そうだ、あんな女のことなんて相手にしている場合ではない。今月もまた成績が芳しくない。キャンペーンは来月の四月だ。今月の成績は二の次だけど、来月のための「タマ」を用意しなければならない。だけど刈り取れそうな実がなかなかそろわなかった。他の外務員もなかなか大きな成果に結びつくような状況ではなさそうだ。

 彼女の勤める生命保険会社では、毎年の四月、七月、十一月にキャンペーンが設定される。毎月のノルマをコンスタントにこなしながら、さらにこのキャンペーン月に合わせて保険契約を取るための「タネ」を撒く。

 といってももちろんワイロなどをばらまくのでなく、保険契約をもらえそうな人の目星をいくつかつけておくのだ。そして何度も何度もその目を付けたお客様の所に通う。

 「タネ」が育つように畑を「耕す」ようにお客様のもとに何度も足を運び、時には「肥料」をまくこともある。保険会社から支給される、キャラクターのついたノベルティグッズや自腹でちょっとした小物を買ってお客に配ったりするのだ。

 そうして育てた「タネ」をキャンペーンの月に実らせ、うまく刈り取る、つまり保険契約を成約させるのだ。

 もちろん、お客様の都合、タイミングにより成約する月がずれることはままある。そのために日頃からの「タネ」撒きの数と「耕す」質が大切なのだ。そうすれば立派な「実」が育ち、そして収穫ができるのだ。

 ただ、一九九六年に始まった金融ビッグバン以降、保険業界も相互参入などで競争が激しくなり、また度重なる金融危機で破綻する会社も多かったことで、生命保険への風当たりも厳しくなった。何かあれば保険の「見直し」が必要、という風潮から「見直し」をして毎月支払っている保険料を削減する時代がここ二十年以上続いている。ひとみが生命保険の外交員になった頃は、すでにそういう逆風の時代であった。

 そんな時代でもめげなかったひとみは、地道な行動ではあるがコツコツと真面目にお客様を訪問し、その誠実さが評価され、今では副支部長という肩書を持つまでになった。自分の働きが現在の所属する支部を支えている、といっても過言ではないと自負している。

 しかしさすがに三十名からの部下を持つようになり、自らの営業ノルマは減ることなくかえって増える一方だ。

 ひとみの肩には部下の指導、教育までのしかかり、その部下の成績がまた全て自分の評価に関わってくるプレッシャーに日々ストレスを感じ、疲れが蓄積していくのが自分でも判ってはいた。

 それでも歯を食いしばり、なんとかやってきたのだが、会社全体が厳しい環境にある中、上司である支部長やその上の支社長、支店長までが上からものすごい圧力をかけてくる。

 さらに自分より一回り以上年上の部下や、一回り以上年下の部下とのコミュニケーションもうまくいかず、ひとみは人間関係にも疲れていた。

 それが一年ほど前から体の症状に表れてきた。日々の疲れを感じるだけでなく、ひどい肩こりや頭痛、そして夜になかなか眠れなくなってしまったのだ。

 当初はどこか体を壊したのかと思い、内科に行って色々検査したが全く異常がないという。でも頭は痛い、体はだるい、眠れない、というので頭痛を和らげる薬などをいただいたが、ほとんど効かなかった。体調の悪さが仕事上にも影響し、それがまたストレスとして自分に跳ね返ってくる。

 休みなどでストレス発散するとか、日頃から深刻にならずに明るくポジティブに考えようなどとよく言われるが、ひとみにはそんなことすら考える余裕がなかった。

 原因不明な体調不良と次々と押し寄せる仕事上のストレスが悪循環となり、心と体を蝕んでいった。そして最初に病院に行ってから三ヶ月後、内科の担当医から心療内科を受診することまで勧められたのだ。

 当初、心療内科に通うということに抵抗はあった。けれども原因不明と言われる状況を打破するため、とりあえず受診してみてはっきりさせた方がいいとの思いが強くなり、受診することを決めたのである。そこで「うつ病」と診断されたのだ。

 ただ「うつ病」と言ってもいろんな症状があり、ひとみの場合は体がつらい状況の中なんとか仕事を続けられており、寝込むこともなく、重度な状況ではないことから、抗うつ剤を服用して定期的に通院することでよい、とのことだった。

 ひどい状況であれば仕事を休養することも勧められたが、病名がはっきりしたことと、抗うつ剤が効いたようで、症状も少しずつ軽くなったことから仕事を続けて通院することにした。

 性格的にはまじめで責任感が強いと人から言われるからだろうか、ひとみはなんとか仕事は続けたいと思っていた。やはりこの仕事が好きなのだ。

 そしてなるべく嫌なことは考えないようにしよう、そうイライラしない、気楽に、頑張りすぎず、ポジティブに考えよう、自分で嫌なことを考えても辛くなるのは結局自分自身なのだ。そう言い聞かせて、ひとみは恵子のことを考えることを止めた。

  

 

 最高裁の一室で、判事は父親が大物政治家であった二世議員との密談を行っていた。

「判事、もうあの男の時代は終わっているんですよ。表舞台からは退いたのに昔の遺産でまだしぶとく生き残ってはいますが、そろそろ引導を渡す時期なんだ。あなたもあいつには昔、弱みを握られて痛い目に合っているでしょう」

「ああ。あいつには必ず死んでもらわなければいけない」

「ただ死んでもらっただけじゃ終わりませんよ。あの男の握っている裏の情報を奪わないと、いつ私達もあなたの身も破滅するか判りませんから」

「君はそうやって得た情報を自分の私腹を肥やすために使うんじゃないだろうね」

「何を言っているんです。あいつに握られた情報などをこの世から消すためですよ。まあ偶然に得た他の情報も消してしまうかどうかは、中身を見てから考えればいいことです」

 二世議員は意味深な笑みを浮かべてそう答えた。

「判った。今、こちらの仲間としてもあいつの隠し資産や影の情報を手に入れるように動いている。しかし今のやり方じゃ相当な時間がかかる。そこで君からあいつにこの情報を上手く伝えてもらいたい。二人の男の居場所だ。そしてこの二人は薬の情報を掴んでいる、と伝えて欲しい。そうするだけで事態は動くはずだ」

「判りました。如月きさらぎさんあたりを通じて情報を流しましょう。私はまだあいつらの仲間に見せかけていますから。その仲間もいずれあいつ同様、この世界から消えてもらいたいと思っているんですよ」

 議員は判事から貰ったメモ書きを手に取って席を立ち、部屋を出て行った。これでいい。ゆっくりとした歯車の動きが一気に速まるだろう。そう判事は確信していた。

 

  

 紺碧の青空の下、コバルトブルーの地中海を断崖の上から見渡すこの絶景は、圭がフランスで最も愛するものの一つであった。南フランスの、ニースとモナコの間にある“断崖の街”と呼ばれる小さな街エズのホテルに、日本から逃れて隠れ住んでいた。

 “あの人”の助言通りしばらくは治安の良い、安全なモナコにいた。だが九十日以上滞在するにはビザが必要なため、パスポートチエックの厳しいモナコから圭は比較的チェックの甘いフランスに移り住んだ。

 と言っても、モナコ公国からエズまでは車で二〜三十分の距離である。その間には道路、電車も通っていて国境という概念はほとんど感じられず、ほんの隣町といって良い。

 そんな近くにある二つの都市だが、治安においてフランス側にあるエズとモナコでは雲泥の差だ。世界のセレブが集う観光立国、カジノ立国であるモナコ公国は、日本の皇居のおよそ半分しかない小さな国土の安全を約五百人の警官が守っており、フランスとの国境には常時警官がいて、何かあればすぐ閉鎖できるようになっている。

 交差点や街の重要な場所などあらゆる場所にカメラが設置され、百メートル歩く間に一人は警官を見かけるほどのモナコでは、身を守るという意味ではとても安全だ。言葉はフランス語が公用語であるため、フランスにいた圭にとっても生活で困ることは全くなかった。

 対して、フランスに入ればニースなどは観光客のトラブルなども多く、治安が悪いと言われている。事実いろんな犯罪も多い。そのためフランス側でもモナコに近く、街としても小さく警戒しやすいエズに移った。何かあればモナコへ逃げられるからだ。

 日本の神戸の街よりもずっと山と海との距離が近く、小高い山の斜面を迷路のように入り組んだ石畳の道が通り、街全体が統一されていて石造りのお城のようなエズは、小さなお店がたくさんある。イタリアが近いこともあり、プロヴァンス風とイタリア風が合わさったこの地域の料理は、パリやレンヌ、ナントといったフランスの北部や中部を中心に学んだ圭の料理人としての興味をそそった。

 都会の喧騒を離れドス黒い汚れた騒動から解放された圭は、青い空から優しい太陽の光が差す、のんびりとした街でそれこそ命の洗濯をしていた。闇の世界を見せつけられたが、“あの人”の助言でようやく抜け出すことができてここに隠れ住んでいる。しかし心残りの一つは、フランスから自分を慕って日本についてきてくれた雄一のことだった。最後まで本当のことを言うべきか迷ったが、彼の身にまで危険が及んではいけないと考え、苦渋の選択の上で、“あの人”に任せることにしたのだ。

 そして日本を離れる時に最も後ろ髪をひかれる思いだったのが、彼女とそのお腹の子のことだった。彼女達のことは一部の人しか知らない。身内にさえ隠している。彼女達こそ危険な目に合わすわけにはいかない。水平線を遠く見つめ彼女達の身を案じながらも、何もできない自分の身をもどかしく思っていた。

 ほとぼりが冷めるまで、あとどれくらいの時間が必要だろう。もっと長くなるようであればフランスから移動し、次はスイスかイタリア北部に移る予定だ。フランスで働いていたため、就労ビザを取ることは比較的簡単である。ただそうした手続きをすると、自分の居所がある経由からばれてしまう恐れがあった。だからそれはなるべく避けたい道だ。

 幸いお金に関しては、今まで使う暇もなく働いて貯蓄してきたものがある。店は潰れたと言っても、一流と呼ばれるフランス料理店のオーナーだったのだ。

 世界のセレブがしているように長期間の休みをもらって旅行をしていると思えばいいのよ、と彼女も言ってくれた。そうだ。今自分には何もできない。ただこうして美しい空と海を眺めているしかないのだ。夜も七時になると言うのにまだ昼間の様に明るいエズの海。この時期の日没は十時近い。

 腕時計をみてそろそろ部屋に戻ろうとして振り向いた圭は、人相の悪い三人の男に囲まれていることに気づいた。明らかに日本のヤクザと思われる奴らだ。

「何だ! お前らは!」

 そう怒鳴りながら、逃げ道を探そうと周りを見渡した時、ヤクザ達の他にもう一人見知った顔がいることに驚いた。

「お、お前……」

「探したよ。厄介なことしてくれたな。オヤジもカンカンだよ」

 キツネ目のその男は、そう言って他の三人に目配せした。三人が一気に圭ににじり寄り、崖の先へと追い込んだ。

「お、おれの口を封じるつもりか」

「ああ、オヤジの指示だ」

 その言葉に青冷めた圭は、必死に男達の間を走り抜けて逃げようとした。しかしガタイのいいオールバックの男が行く手をふさぎ、両腕ごと抱きかかえられ体を持ち上げられた。必死にもがいても上半身はビクともしない。宙に浮いた両足をばたつかせながらオールバックの男の足を蹴りなんとか逃れようとしたが、一気に崖の端まで追いつめられた。 

 もう足元には地面は無く、見下ろす先は断崖絶壁に打ち上げる白い波が見える。これ以上下手に暴れると、抱きかかえている男とともに海の中に吸い込まれてしまいそうになった圭は抵抗を止めた。

「そうそう。無駄な抵抗は止めた方がいいよ。何か言い残すことはないかい?」

 キツネ目の男がそう聞いたが、圭は答えず、黙って目を瞑っていた。

「覚悟したって事か。判った。じゃあな」

 キツネ目の男がそう言うと、オールバックの男は一度崖の際から一歩下がり、圭を抱きかかえていた腕を離し足が地面につくかつかないか、という瞬間海に突き飛ばした。圭の体は真っ直ぐ海へ吸い寄せられるように遠ざかり、あっという間に小さくなった。海面がしぶきを上げながら圭の体を飲み込んだことを確かめたキツネ目の男は、

「チッ、余計な手間をかけさせやがって」

 と海に向ってつばを吐き、三人の男達とその場を去っていった。

 

 都心から横浜に向かって走る平日夜七時頃の電車は、会社帰りのサラリーマンやOL達が多いのだろうか、朝の通勤ラッシュに負けないほどの混雑であった。

「今日もやたら混んでいるな」

 グレーのスーツに薄い青のストライプの入ったシャツ、そして赤い派手な柄のネクタイをしたキツネ目の男は、いつも使っているアタッシュケースを右手に持って左手で吊皮を握り、満員電車の車両の中で前後に揺れる人の流れに身を任せながらぼやいた。

 梅雨の時期に入ったこの季節での満員電車はストレスが溜まる。しかも仕事上で予定外のトラブルがあったため、フランスから帰ったばかりのキツネ目の男にとっては余計に神経が苛立っていた。

 電車が駅に止まって、周りの客がどっとホームに降り始めたと思ったらまたその駅から降りた乗客と同じ程度の人数が乗ってくる。

「なんだよ、なんでこんな所でこんなに乗ってくるんだ」

 普段なら都心から離れるにつれて乗客が徐々に減って車内が空いてくるはずだ。なのに最近途中から乗ってくる客が多く、なかなか満員の状態から解放されない。キツネ目の男はそれでぼやいているのだ。

 周りの乗客が新しく入れ替わっても、相変わらず混雑した人波に揺られていると、男の目の前に奇麗な女性が立っていることに気付いた。先ほどまでむさくるしい中年サラリーマンに囲まれ、その男達から放たれる油臭い匂いの整髪料に苦しんでいた状況から、一転して清々しい男心をくすぐる良い匂いがする。

 男はその匂いに誘われて吊皮を握っていた左手を離し、スーツケースを持ち替えて自由になった右手で女の体に触れた。女はびくっとして体をよじって男の手から逃れる。

 深追いはしない。男は別の女に狙いを定めて混みあう車両の中、人の間を掻きわけて場所を移動した。

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