愛に目覚めし者よ!

天ノ川夢人

第1話

 一九九八年、二十八歳の冬、俺はニュー・ジャージーの或港町にアパートメントを借りて住んでいた。この町には酒と女と音楽が好きな奴らが集まるバーが一軒ある以外、持て余した一夜を紛らわす場所は他になかった。

 夜の八時に、俺はいつものようにジャックズ・バーに行く。今夜は黒人と白人の混ざったブルーズ・バンドが演奏している。ブルーズの日は金曜日だ。俺は普段着ではなく、珍しく白のスーツなどを着ている。最近、ブルーズには飽きてきた。そのため壁の方を向いた奥のカウンター・テーブルの固定席に腰かける。

 俺はタコスを食べながら、黙々とウィスキーを飲んでいる。視界の左端に人の動きを捉える。気配からして女であろう。振り向いて性別を確認する気が起きない。珍しく審美眼で容姿を見定める必要性も感じない。その人物が俺の左隣を指差し、「すみません!ここに座っても良いかしら?」と俺に尋ねる。俺はもうかなり酔いが回っている。面倒臭い事をいちいち訊く女だと思い、振り向き様に、「良いともよ。出来る事なら椅子を引いて差し上げたいが、どうにもこれは・・・・・」と故意に低い声でふざける。そう言った直後に、俺は女の美しさに目を瞠る。二〇代前半くらいで、ブロンドの髪をボブにした青い眼の女だ。因みに俺の眼もブルーだ。その女の眼はバーの照明が薄暗いせいか、幾分深いブルーに見える。日本人の言うブラック・アイズといったポエティカルな印象表現がぴったりと合う。

「いえいえ、そんな事は結構よ」と女が申し訳なさそうに言う。

 女はミンクのショート・ファー・コートに茶の革のミニ・スカートを着ている。狼狽した女の顔はやけに色っぽく、俺は一変してその女が気に入る。女は着ているショート・ファー・コートを脱ぎ、俺の左隣の席に腰かける。

「君はこの辺の人じゃないね」と俺は女の方に体ごと向きを変えて話しかける。

「違うわ。ハイウェイを車で走ってて、ふとした思いつきでこの町に寄ったの」

 女の口調ははっきりとしていて、とても大人っぽい声だ。それでいて話している時には輝かんばかりの素敵な笑顔を見せる。

「そんなとこだろうな。この町では君みたいに垢抜けた子は先ず見かけないからね」と俺は女の眼に吸い込まれそうな程魅入られ、心臓を掴まれそうな程胸ときめかせて話す。

「私、父に車買ってもらったの!その車でドライヴィングしてる最中にこの町に寄ったの」と女はこの俺をすっかり良い男だと勘違いさせるくらいの上機嫌さで明るく話す。俺が女の美しさに見蕩れて、うっかり黙っていたら、女は俺の目を見つめている事に気まずさを感じたのか、一瞬視線を右に逸らす。話している会話の内容は特別面白い話ではない。挨拶の延長上にあるような平凡な話ながら、話続けている限り、彼女の美貌を鑑賞していられる。俺はとにかく、彼女のような美人と一緒にいられる事が嬉しいのだ。

「あなた、この町好き?」と女が俺に率直な質問を投げかける。

「ああ、好きだよ。この町に越してきて、もう四年になる。ニュー・ジャージーに来る前はボストンに住んでたんだ。でも、この町がとても気に入ってね」と俺は答え、女の大きくふっくらとした形の良い赤い唇にロマンティカルなキッスをしたい欲求を募らせる。

「この町に引っ越してきた動機は何?」と女は媚びるような笑顔で小首を傾げて訊く。俺は女の仕種や顔の表情に激しく魅入られている。頭がくらくらする程熱い。

「ううん、何て言うかな、色々あって、ボストンの仲間の許を離れたかったんだよ。判るだろ?何もかも新しい環境が欲しかったんだ。ところで君、名前は?」と体中を火照らせた俺はグラスに口を近づけ、質問に答えては質問を返す。

「エイセックス。エイセックス・ラッセルよ。あなたは?」と女が女の子のように飾り気なく答えると、スポーツのような軽快さで質問を返す。

「ギルバート・ライト。こんなところで出会ったのも何かの縁だ。どうだい、今夜は一緒に飲もうじゃないか!」と俺は素朴な男で結構とばかりに飾り気のない口調で彼女との時を楽しむ。

「良いわねえ!私、お酒注文してくるわ!私、ほんと、長あく、退屈してたのよ」とエイセックスが砕けた口調に合わせて、大きく顔の表情を変えて言う。その彼女の変な顔をしてみせたつもりの顔がまた実に魅力的で可愛いのだ!

「判るよ(笑)。人に飢えてるんだろ?俺で良ければ相手になる」と俺は自分なりに男らしさを意識して言う。

 はっきり言って、あっと言う間に酔いは醒めた。俺は心臓をドキドキさせながら、すっかり飲み直すつもりで彼女が席に戻ってくるのを待つ。

 エイセックスと俺は個性を競うように語り合い、酒の方も飲みに飲む。酔いに酔って気軽にエイセックスを家に誘うと、彼女は気軽に誘いに乗る。話していて判ったのは、彼女が無趣味な生活を送っている事と、神の実在については祈る者のためだけに忙しく働く人のように思っている事だ。


 早朝一時にエイセックスとバーを出る。道すがら千鳥足になった彼女の柔らかく細い肩を抱く。気温の寒さに較べ、下半身が抑え難い程熱い思いに反応している。壁のペイントの剥げかかった三階建ての四角いグレイのアパートメントの前に来ると、エイセックスの薄い唇に取っておきの熱い口づけをする。力なく立っている体とはまるで別の生き物のように、彼女の唇が俺の唇に吸いついてくる。俺は貪るように甘いキッスの味を味わう。俺はエイセックスの心を自分の愛で満たし、我が身同然に支配したい欲求に駆られる。

 俺はエイセックスを両腕に抱き抱え、古新聞などが散らかった、灯りの点滅した階段を上っていく。

 半開きになった一番手前のドアーを足で開け、エイセックスの脚を抱えた右手で何とか部屋の灯りを点ける。エイセックスをリヴィング・ルームの右奥のベッドルームの寝台に下ろす。俺はタイとジャケットを脱ぐ。エイセックスはコートを脱ぎ、潤んだ瞳で、「ギルバート!急いで!」と少し抑制した命令口調で俺を急かす。俺だって同じ目的のために急いでるさ。

 俺達はベッドの上で何度も愛し合い、愛の真髄を獲得しようと努力する。

 エイセックスを愛する事に気が遠くなる程疲れ果てる。まだ欲しけりゃお前の望むままに奪い取っていきやがれ!俺はベッドの上で仰向けになり、捧げ尽くせなかった愛の残りを体任せにする。

 朝日が出るまで力の限り正常位を貫く俺の愛し方に満足し、騎乗位を楽しまない女なんて初めて抱いた。俺の息は上がり、鼓動は激しく打ち続けている。俺は朝日とエイセックスに背を向け、すっかり黙り込んで横たわっている。エイセックスは俺の背後で何も言わず、気管支の可愛い声のような息の音を立てて、じっと横たわっている。何とか成し遂げ、彼女の欲求に応え続けた俺もなかなかのものだ。俺はベッドから出て服を着るなり、「エイセックス、君、車は何処に停めたの?」とエイセックスに尋ねる。毛布を顎下まで被ったベッドの中のエイセックスが、「バーの近くよ」と答える。俺は頭の後ろに両手を回し、「車のキー渡してくれよ。急いで取りに行って、アパートメントの前に回しとくよ」とベッドの上のエイセックスを見下ろして言う。エイセックスは毛布で隠した胸の上に左手を当て、体を捻ってベッドの脇の椅子の上にあるコートに右手を伸ばし、ポケットの中のキーを探す。

「キーね。はい!」とエイセックスが俺に車のキーを手渡す。エイセックスは力一杯目を瞑り、胸の前で祈るように手を組むと、「父に連絡取っても良いかしら?父の事だから、きっと心配してると思うの」と俺にお願い事をする。

「良いとも!」と俺は答え、ベッドの下から電話機を取り出す。俺はエイセックスにその白いコード付きの電話機を手渡すと、車種を訊いて、急いで車を取りにいく。


 車を取って帰ってくると、エイセックスは俺の電話番号を尋ね、「それじゃ、また!」と言って、慌しく去っていく。

 この後は仕事どころではなく、予定を取り止めてベッドに横になる。俺は頭の下に手を敷いた恰好でベッドの上に寝転がり、冷めやらぬ興奮のせいで、ずっと天井を見つめている。一年中休みなく働く職業柄、たまにはこんな風にベッドに寝転がって、何もしない一日を過ごすのも良い。


 俺は毎日仕事をしながら、何となくエイセックスからの電話を待ち続ける。エイセックスからの電話は一向にかかってこない。

 そんな或日の事、俺が暗室でフォトフィルムを現像していると、誰かから電話がかかってきた。

「ギルバート?」と受話器の向こうから親しげな女の声が訊く。

「そうだけど、君、誰?」と俺は女に訊く。

「エイセックスよ!私の事憶えてくれてるかしら?」とエイセックスが明るい口調で滑らかな話の流れを作る。

「ハイ!エイセックス!元気かい?一ヶ月も君は連絡してこなかったんだぞ!」と俺は電話の相手がエイセックスだと判ると、途端に嬉しさが込み上げ、思わず自分に寂しさを経験させた事まで責める。

「私なら何とか元気!私もあなたに会えなくて寂しかったのよ」とエイセックスが電話越しの距離感をなくし、落ち着いた親しみある声で言う。

「俺は君からの連絡を童貞のような純粋さで待ってたんだぞ!俺の少年期の様子が目に浮かぶようだろ?」と俺はユーモアで返す。

「童・・・・、本当に!私をそんなに待っててくれてたの!何だか嬉しいわ(笑)」とエイセックスが明るい声で喜ぶ。

「何だよ、そうだろ!」と俺は打ち解けた気持ちではしゃぐ。

「驚きよ!今度また会える?明日の午後なんてどう?」とエイセックスが飾り気のないはしゃぎっぷりで言う。

「良いよ。何時にする?」と俺は少し年上の男である事を意識して、落ち着いた口調で言う。

「じゃあ、明日の正午にハイウェイのジャージー・シティーの出口付近にある駐車場で待ち合わせしましょ」とエイセックスがすっかり安心した口調で待ち合わせの時間と場所を決める。

「正午にハイウェイのジャージー・シティーの出口付近にある駐車場ね。判った」と俺は気軽に合意する。

「それじゃあ、またね!」とエイセックスは明るい声で言って、電話を切る。


 翌日、俺は中古で買った古いブルーのフォードでジャージー・シティに向かう。

 最近、流行音楽に対して、一〇代や二〇代の初め頃のような、アルバムを繰り返し聴き込むような情熱がすっかり失われている。自分でもこれは良くないと思いながら、馴染みのない新しい感性に対してどんどん無関心になっていく。レイディオから流れる音ではっとする事もない。これからのアーティストと一緒に成長しようという親しみも湧かない。時代の流れに対してすっかり白けてしまっている。一〇代や二〇代の初め頃は古き時代の音楽から衝撃を受けながら、同時に新しい音楽にも夢中になれた。最近は若い人にとっての新しさが全く新しいと感じなくなった。ロックやポップスを一定量聴いてきた者の音楽離れなのか。自分達の世代が本当に新しいと感じる音楽が出てくるまで、五年、一〇年と音楽から離れていたい。若い頃から馴染みのある中堅のアーティスト達の進化がすっかり止まってしまった。八〇年代のニュー・ウェイヴは最早オールド・ウェイヴだ。ロックの寿命が近づいているのか、時代の音の変化が小さくなってきている。新旧の世代が同調し始めている。この時代への退屈間は年のせいなのか。ジーザスは俺に人生の節目を伝えようとしているのか。アルマゲドンを前にした我々は最早冷静に九〇年代の文化を纏め上げる事が出来ない。前へ進む事を止めようとしているのだ。人類は本当に最終戦争への行進を止められないのか。

 エイセックスは待ち合わせ場所に時刻通りに徒歩で現われる。エイセックスはスリムなブルーのデニムのパンツに、襟元に中国風の赤いポピーの刺繍がある白いブラウスを着て、赤いサンダルスを履いている。よく見るとマニキュアとお揃いの黄色いぺディキュアを付けている。此間もエイセックスの顔の化粧はファウンデイシャン・メイクアップと薄いルージだけのほぼ自然な状態だった。俺はもう少し化粧をしても良いように思っている。エイセックスが化粧に凝り出したら、ゴージャスを超えて、恐れ多くて近づき難い印象を与えるのかもしれない。その点ではエイセックスはよく自分の事を知っているのだろう。

 俺はエイセックスを自分の車に乗せ、充てもなく車を走らせる。

「ビーチに行かないか?近くに好きなシー・フード・レストランがあるんだ。寿司も食べられる」と俺は顔だけ前に向け、左の助手席のエイセックスの横顔をちらちらと横目で見ながら運転し、話しかけている。

「港の近くにキャビン・クルーザーがあるの。誰かその父のキャビン・クルーザーを動かせる人が見つかると思うの。この道を真っ直ぐ行くと父の経営してるホテルがあるんだけど、どうかしら?」とエイセックスが車の進行方向を真っ直ぐ見つめながら言う。

「すげえや!そりゃあ良いね!」と俺はエイセックスの提案にすっかりはしゃいで賛成する。

「ギルバート、私、あなたの仕事に物凄く興味があるの。あなたの部屋にたっくさん写真が飾られてるのを見たからなの」とエイセックスが俺の方に顔を向け、落ち着いた口調で話しかける。

「仕事はあの通りの写真家だよ」と俺は進行方向を向いて運転しながら、自分の職業を打ち明ける。

「最近はどんな事に興味を以て写真を撮ってるの?写真集は出してるの?」とエイセックスが俺の顔を下から覗き込むようにして、畳みかけるように質問する。俺はとても得意な気持ちになり、口許がだらしなく弛む。

「ずっと種々な労働者の働いている姿を撮ってるんだ。写真集は自費出版での出版が始まりで、今のところ二冊出してる。今後の事は作品次第で出版が決まるようにまでなったんだ。売れ行きはまあまあだよ」と俺は得意気な気持ちを抑えながら、冷静に答える。

「何故働いてる人の姿を撮りたいの?他に撮りたい事はないの?」とエイセックスが質問する。エイセックスは余程写真家としての俺に興味があるようだ。

「ううん、そうだな、地上の神聖域を撮り尽くす事もやってみたい。けど、自我の目覚めを迎えた社会人の一人一人が働く様を今まで通り撮り続けていきたいね。人間を職業抜きにして語るのはとても詰まらない事だからね。働く者にとって、世界そのものが一つの巨大な生命として生きているのだと感じる事はとても重要な事だろ?俺は写真を通して神を見ようとしてるんだよ」と俺は自分にとって大切な領域の話を慎重に言葉を選んで話す。

「よく判らないけど、それは私が労働をした事がないせいね」とエイセックスがしょんぼりとした悲しげな口調で言う。

「本当かい?君、本当に働いた事ないの?いやっ、でも、君が俺にとって特別な人である事には変わりないよ。人間を職業抜きにして語るのは詰まらない事だなんて言った事も、君に辛い思いをさせたのなら謝るよ。俺は大学にも行かなかったし、職業を訊かれる年齢になっても、数年、職を転々と替えてさ迷ってね。自我の目覚めが遅かったのさ」と俺はエイセックスへの愛を必死に誓い通そうと、彼女と同じ年齢時期の視点に戻り、自分の中にもまだ彼女を理解出来る心が残っている事を証明しようとする。

「本当かしら・・・・、男が好いた女一人のために、そんなに簡単に信念を変えてしまっても良いものなのかしら」

 エイセックスは言って目を閉じ、口許に笑みを浮かべる。

「そんな意地の悪い言い方はよしてくれ!そうそう、君のお父さんのホテルを案内してくれよ」と俺は話せば話すだけ問題が拗れるような気がして話題を変える。

「この道を真っ直ぐよ。ゆっくりと近づくように見えてくるから」とエイセックスは機嫌を取り直し、一転して明るい口調で道案内をする。エイセックスは本当に気立ての良い明朗な性格の子なんだな。この子の心だけは絶対にその場の感情的な発言などでは傷付けたくない。俺は必ずこの子と結婚し、死ぬまでこの子を護り続けてみせる。

「君のお父さんのホテルって、一体どんなホテルなんだろうなあ」と俺は余り期待し過ぎずに、有りの儘の現実を軽く受け止めるような気持ちで言う。

 陽気な黒人青年達が乗った所々塗装の剥げた白いトヨタが俺達の車を風のように追い抜いていく。トヨタは猛スピードで俺達の車の先を行き、あっと言う間に見えなくなる。

「ファック・オフ!黒人さんよ!そんなに急いで、俺達の行く先々にジャップの車でお出迎えかい!」と俺はエイセックスといる嬉しさからはしゃぎたいような気持ちで自分らしくない事を言う。エイセックスはそこで、「そう言う言葉をあなたのような人が使うべきじゃないわ」と窘める。俺は今少し素直になれず、意地を張って黙り込む。沈黙は続く。その内、何か話さなければと気詰まりを感じ始める。

「エイセックス、君は美しいよ。それにとてもキュートだ。俺は君を誰よりも愛してる」と俺は自分の中の気詰まりを愛で振り払う。

「何だかコリアンか日本人のポップ・ミュージッックの歌詞みたいね」とエイセックスが機嫌を取り直したように明るい口調で言う。

「ヘイ!エイセックス!二度とそんな風に人をからかえないように、その口をキッスで塞いでやろうか!」と俺はここぞとばかりにご機嫌な口調で言葉を返す。「それにコリアンのポップ・ミュージックはまだ一度も聞いた事がない」と付け加える。良いかい、エイセックス?大人らしく歩み寄ったのは俺の方なんだぜ。君はねえ、俺の敢えて口には出さない男らしさにこそ気づかなければいけないんだ。女だって、あんまり心が狭いのは褒められた事ではないんだぞ!

「ありがとう」とエイセックス。

「何?ああ、君を愛してるのは本当だよ。これからもずっと君と一緒にいたいと思ってる」

「私もそうよ」とエイセックスは言って、俺の右頬にぶつかるような勢いでキッスをする。

「あれが父のホテルよ!見えるでしょ?」とエイセックス。

「驚きだね!まさかとは思ってたけど、あれは確かに有名なホテルだよ。君のお父さんって凄い人だなあ!君はゴールデン・キャピタル・ホテルの社長令嬢って訳か!」

俺はゴールデン・キャピタル・ホテルの前にフォードを止める。ポンパドールにした黒い髪に白いタキシードを着て赤いタイをした、長身で口髭を生やした茶色い眼の男が出てきて、車の窓に顔を近づける。エイセックスが車の窓を開けると、「ようこそおいで戴きました、お嬢様!」とその男はご機嫌な態度で出迎える。

「エディー、父のキャビン・クルーザーにこの方と一緒に乗りたいの」とエイセックス。

「それは素晴らしいですね!では、直ぐにでもナヴィゲイターを港へ向かわせます」とエディー。

「急いでお願いね!」とエイセックス。

「畏まりました!あなた様の特別な一日を心からお祝い致します」とエディー。

「水着も用意して頂戴ね!ギルバートのもね!」とエイセックス。

「御心配には及びません。全てお任せください。必要な物は全て揃えて持って参ります」とエディー。


 港からかなり沖に出たキャビン・クルーザーの上には、俺とエイセックスと船長と先程のエディーと二人の世話人がいる。その世話人達はじっとデックの上に立ち、エイセックスの言いつけを待っている。用意してもらった水着を着た俺とエイセックスは彼らから少し離れたデック・シートに座ってシャンペインを飲んでいる。最高の肉体を包んだエイセックスの赤い水着姿が眩しいくらいに輝いて見える。

「エイセックス、こんな爽快な晴天の下で最高の贅沢を経験させてもらえた事を心から感謝するよ。それにこのシャンペイン!こいつも最高だ!大西洋の上で美女と二人で舟遊びだなんて素晴らしい思い出になるよ!」と俺。

 強い陽射しに照りつけられたエイセックスは目を瞑ったまま微笑し、「ついでにその美女も食べちゃえば?人魚達が焼き餅焼いて、海面から顔を出すかもしれないわよ」とふざける。

「何だって!本気かい?人が見てるよ?そんな事ここでしたら、海底から俺達に嫉妬したアトランティス大陸が再浮上して、この船ごと粉々にするかもしれないぞ!俺はこの大自然や宇宙を神として崇拝してるんだ。神はこの世界の様子をきっと誰よりも厳しい目で見守っている事だろう。天国を望む者は必要以上に快楽を貪ったり、自制心を失うようではいけないのさ。油断は禁物。与えられた幸せに感謝し、その幸せを深く記憶に刻み、思い出から生きていく力と智慧が得られるように、慎重に日々を生きる事が重要なんだ」と俺。

 二人は満ち足りた気持ちで互いの存在を忘れ、しばらく快い沈黙の時を味わう。その沈黙を先に破ったのはエイセックスだ。

「もしも、あなたがこんな富に生まれながらに恵まれていたなら、あなたの人生は変わっていたかしら?」

「君が期待するようなコンプレックスは持ち合わせていないよ。俺はやりたいようにしたいように生きてきたんだからね。それは俺なりに生のリアリティーを得ようと試みた事さ。人間として生まれ、人間として生きていくのに必要なだけの自信を得るためにね。俺はいつも正しき者の味方で在りたいと思って生きてきた。死を前にしても、人間に必要なのは気高さだと思う。俺は金持ちに引けを取らないエチケットだって知っている。それにこのままずっと同じような生活が続くとも限らない」と俺。

「あなたは自分の貪欲さを知る必要があるの。あなたの子供染みた夢の価値感を私に理解させるのは難しい事なのよ。私はお金持ちになる人の顔とお金持ちになれない人の顔を瞬時に見分ける事が出来るの。私はこれまでに、お金を持てば、失うまで振り回され、お金のために心の安らぎまでも失ってしまうような人達を沢山見てきたの」とエイセックス。

「エイセックス、君は俺をただの詰まらない貧乏人の息子のように思っているのかもしれないが、君がそう思うなら、俺は既に君の一生分にも勝るリアリティーを以て生きている事を君に言っておきたいね。俺は自分の芸術的才能によって自分の本質を知ろうとしているんだ。今知った事が後々どんな真実へと繋がり、展開するのかにも興味がある」と俺。

 エイセックスの世話人の一人であるハンティング・ハットもスーツも靴も白づくめの男が俺達の話に割り込んでくる。

「あなたの全てを受け入れよう、ミスター・ライト。しかし、君はほんの少しの人生のリアリティーを自分の人生の断片として捉えたに過ぎない事をそんなに尤もらしく語るべきではないな。ところで、最近のあなたの誕生日を何人の友が祝いに訪れたかね?」と白づくめの世話人。

「誰も来なかったと記憶している。しかし、誕生日を人に祝われたいどころか、俺は寧ろ新しい環境を求めて、たった一人で今住んでいる町に引っ越してきたんだ。この四年間、その町で新しい友達が一人も出来なかった事は正直に認めるがね」と俺。

「上流社会の人間はね、君のように常に友の数を数えながら生きている訳じゃないのだよ。自分の記念になる全ての出来事を多くの人々に一つずつ祝福されてみなさい。そういう生活を望み、手にする事が出来たなら、君は今までの人生が全て迷い事であった事に気づくだろう。君は人の才能を管理する権力が何であるのかを知るだけで良かったんだ。よく聞くが良い。上に立つ者はだね、皆、富を増やす才能で生きているのだよ。価値のない才能には一銭たりとも金を費やさない本物を見る目。これ程に富を得た者は自分を喜ばせる事が出来なくなった芸術家など必要としなくなるのだよ。芸術家が本物を見る目を持つ者に求められている事はただ一つ。それは必要なだけの喜びを作品に込め、買い手である鑑賞者に特別な愛を捧げる事。それだけなんだ。私は君達貧民のように路上に丸裸同然の姿で立って、民衆に向かって何かを訴えかけたり、高みまで必死で這い上がって、声高に自分の考えを主張する事もしない。我々には物の価値を見定める最高の目耳がある。その目耳を使って最高の芸術作品を作り出す事など訳もない事なのだ。君達芸術家の中には試行錯誤の末、何作かに一作は我々の目耳に適うような作品を生み出す。我々はそのような小さな才能に対して褒美を与え、尚且つ我々への捧げ者としての作品を寛容な心で受け取ってやるのだよ」

「俺達表現者の作品は、本来、お前らのような金持ちのクズにくれてやるような無価値な物ではないんだ。しかし、この世界には、そんなクズにも平等に芸術作品を自分の物とする権利が与えられている。だから、お前らのようなクズも多くの芸術作品に触れ、豊かな心を持つ事が出来るようになるんだよ」

「君は何か大きな勘違いをしているね。我々が貧民に芸術作品を作らせ、芸術家を育てるために分け与えている食べ物や飲み物は、そんな不服従な奴隷をのうのうと生き長らえさせるためにしている物ではないのだよ。我々の命令に従わないのであれば、我々が与えている餌は二度と口に出来ず、同じ空気を吸う事さえ慎まなければいけなくなるのだよ。私に与えられた権力と真の役割りとは、君達貧民に対する絶対的な命令を下す事なのだよ。富を得た者同士の付き合いとは、各々最高の贈り物を探し合い、その贈り物の価値を自分の才能の代用品として評価される生活を楽しむ事なんだよ。それが君達芸術家への恩恵として僅かな金が流れ込んでくるだけの事なんだ。君は家のようなホテルから何か仕事を依頼され、何か一つでも役に立った事はあるのかな?私は今、君のこれまでの人生には、そのような恵まれた機会は一度たりともなかった事を瞬間的に見抜いたのだよ。私のような眼を持つ者には、その不満を含んだような顔を一目見れば直ぐに判るのだ。私のために皺の一つも作ろうとしないその無関心さ。それだけで判るのだよ。良いかね、よく憶えておくと良い。全ての物の価値を決めているのは我々なのだよ。我々が価値のない物に大金を費やして手に入れたならば、その物の価値は一夜にして巨万の富にも匹敵する価値を持つのだよ。ゴッホなどの絵にあれ程までの価値を与えたのは、明らかに我々のような富を持つ者の悪戯だよ」

「嘘だ!」

「嘘だと思うかね?良い子だ良い子だ。そう!確かにそんな事は君ら芸術家の現実にはあってはならない事だよ。しかし、何だったら、君の作品が永遠にこの世界に残るような価値を私自らが与えてみせようか?」

「お前ら金持ちのブタにそんな特別な力などありゃしないさ。お前らは単に皆が欲しがる物に大金を積み、何が何でも我先に手に入れようとするだけの無能な人間に過ぎないんだ」

「ならば、君は世紀の大天才と称される芸術家として、歴史に名を残したいとは思わないかね?そんな細やかな夢を君に一つ叶えてあげる事ぐらい我々には訳もない事なのだよ」

「ブタ野郎!」

「ふふん(笑)。そうか。君は私の前に跪く事が出来ない訳だな。まあ、良いだろう。それはそれで我々にも楽しみが増すというものだ。我々は自分の欲望に忠実であろうとしている。何故なら、それが世のため人のために、より良い結果を齎すからだ」

「そんなのは単に欲望の奴隷になっているに過ぎないんじゃないか?」

「君が君の欲望に忠実であろうとしたなら、確かに欲望の奴隷と化すだけだろう。良いかな?私と君の間には、君が信じているような平等な権利などというものは存在しないのだ。君は私に意見する事すら許されていないのだ。私が君に命令をし、君がそれに従う。その図式以外私と君との間には存在しないのだよ。なあ、君、君にはもう芸術家の座からは降りてもらう事にする。エイセックスは今、犬が欲しいのだよ。その犬の名はギルバート。そうだろ、エイセックス?ミスター・ライト、君は彼女が好きだね?彼女のためなら何でもすると言って、自分の慕いを彼女に伝えたいんだよね?どうかな?カモオオン!君の名はギルバート!彼女の物になる犬の名と同じ名前なんだ!」と白づくめの男が興奮したような声の調子で言う。

「何言ってんだ、お前は!俺をからかって、一体、何の得がある?」と俺。

「私の演出により君の現実を少しでも刺激ある面白いものに変えてあげようとしているのではないか!」と白づくめの男。

「ハッ!おかしいんじゃねえか?エイセックス、君はこんな男の世話を受けながら、この日を楽しもうとしているのか?」と俺は不愉快の限度を超え、思わず声を荒げて言う。

「彼、私の兄なの」とエイセックス。

 エイセックスはやっと目を開け、遠くの水平線の方を見ながら言う。エイセックスの兄とやらがまた話し始める。

「よく聞きなさい!私の提案にどれだけ応えてくれるのかな、ミスター・ライト?あなたは生まれ変わりを信じているかな?うん?」とエイセックスの兄。

「生まれ変わりだと?すまないがね、お前の話している意味の半分も理解していないとしたら、どうする?」と俺は言って、苛立ちの余り、場合によっては殴ってやろうと思って立ち上がる。エイセックスの兄は彼より少し背の高い俺の顔を見上げる。俺の背は一九二センチメートル、その白づくめのエイセックスの兄の背は俺より五センチメートル程低い。近くで腰かけたままのエイセックスは、立ち上がれば一七八センチメートルぐらいだ。白づくめの男の目は俺の目より少し明るいブルーだ。エイセックスの濃いブルーとは、間に俺の目のブルーがゆったりと入る程似てやしない。念のためエイセックスの方に振り返り、彼女の目の色を確かめる。白づくめの男とエイセックスの目の色は同系のブルーの目だ!バーの中で出会った時の印象が強かったのだろう・・・・。

 エイセックスの兄がまた話し始める。俺は自分の目の狂いに少し動揺しながら、半分上の空で聞く。

「我々は快楽の奥深さに非常に興味があるのだよ。快楽は信じていた人生観をも変えてみせる。あなたは死と言う人生最後の快楽をどのように待ち望んでいるのかな?」とエイセックスの兄。

 こいつら、おかしいぞ!周りは海。海に飛び込んで逃げるには岸から遠過ぎる。

「俺はまだ死にたいとは思わない。死を軽々しく口にする奴とは話さない主義でね」

 俺の声は震えている。名も知らぬエイセックスの兄は言う。

「良いでしょう。しかし、あなたにはたった今から犬になってもらう」

緩やかな波がキャビン・クルーザーの腹に幼児の微笑のような優しい水音を立てる。その音が一瞬際立つ。エイセックスの兄は突然声を荒げ、「頭は狙うな!彼の手足を犬のように短くするだけだ!」と二人の世話人に命令する。エディーと呼ばれていた大柄の男が、「イエス・サー!」と斧を手に叫び返す。船長でもある小柄の方の男が手に斧を持ち、俺の右腕目掛けて勢いよく振り下ろす。俺はそれを素早く避ける。小柄の方の男はよろけながら、今度は俺の左腕目掛けて斧を振り下ろす。俺の意識は張り詰める。こいつら、本気だぞ!小柄の方の男が言い付け通りに、執拗に斧を振り上げては振り下ろす事を繰り返す。それを俺は何度もボクサーのように素早く避ける。俺は斧を振り下ろした小柄な方の男の顔面に右のパンチを喰らわす。エディーと呼ばれていた大柄の方の男の動きを見ながら、更に小柄な方の男のボディーに右の膝蹴りを入れる。小柄の方の男はその場にうずくまる。俺が小柄の方の男に気を取られている隙に、大柄の方の男が俺の背後に回り、俺の体を羽交い絞めにする。

「静かにじっとしていろ!お前の生まれ変わりの儀式を手伝ってやってるんだからな!」とエディーと呼ばれる大柄の方の男が俺の右耳の後ろから言う。俺がその言葉に動揺していると、小柄の方の男がふらふらとした動きで起き上がり、斧を俺の左手に振り下ろす。「ノー!」と俺はあらん限りの声で叫ぶ。俺の左肘から先がずっしりとした重みのある音を立てて足元に落ちる。血飛沫が泡立てたコークの栓を抜いた時のような音を立て、恐ろしい勢いで四方八方に飛び散る。俺は心の奥底から恐怖の悲鳴を上げる。自分に降りかかった惨劇がこんなにも簡単に展開され、その上、信じられない痛みが次なる現実を作り上げる。舌を噛み切りたくなるような痛みに目を見開き、地に落ちた腕をただ視界の焦点を合わせるためだけに凝視する。両膝の力が抜け、尿が流れ出る。冷汗が頭から胴体を中心に溢れ出る。いいや、腕や脚も既に汗でびしょ濡れになっている。立っているのが困難になり、意識が遠くなる。俺は気を失う事を自分に許せない。その間にこれ以上自分の体を傷付けられたくない。

「死ぬのは怖い!殺さないでくれ!謝るから許してください!」と俺は叫ぶ。

 死がこの時程絶望的な人生の結末として予定されているのを恐れた事はない。もう許してもらいたい!意識はますます覚醒する。何とか立っていられるのは大柄の男が背後から羽交い絞めにして支えているからだ。足元は血と体から溢れ出た水分で生温かく濡れている。一方、体温は急激に下がっていく。

「もう止めてください!止めろ!止めてくれ!判ったからもう!」と俺。おしっこまで漏れてるのに許してくれない!涙が出ない!涙が出ない!

「これだけじゃ許してもらえないのか!俺がお前達に何をしたって言うんだ!」と俺。

 気が遠くなりそうな程恐ろしい体験をしていながら、意識がこれ程にはっきりしているのが信じられない。自分の絶叫する声が無意味に自分の耳に響く。俺は無造作に切断される肢体への執着を激しく訴えている。小柄の方の男は休む事なく俺の右腕を切り落とす。例えようのない恐怖が体一杯に膨らむ。子供の頃に遊んだ、手足をもがれるのをただじっと黙って耐えていた人形の恐怖が底深い寂しさを表わすように眼前に思い浮かぶ。体罰を恐れる幼子が泣きじゃくりながら相手の良心に訴えかけるように、周囲に響き渡るような大声を上げて、必死に救いを求めて泣き叫ぶ。俺は左足を切断される寸前に、「主よ!私をこの危機から救い給え!アーメン!」と一心に神に救いを求める。その途端、視界が真っ白な白光で光以外何も見えなくなる。左足の膝から下、右足の膝から下と、次々に肢体が切り落とされる。不思議な事に右腕の切断から後の痛みは奇跡的にふっ飛んでしまっている。それでも俺は体への執着を理由に、ずっと獣のような声で、「ノー!ノー!」と絶叫している。


 気がつくと、気絶寸前までの記憶が思い出される。全く酷い悪夢だ!俺はカーペットの敷いてある部屋に俯せになっている。夜である。手を動かして起き上がる。体が動かない。四肢を切断された記憶がにじり寄る。この悪夢は当分俺の心の後遺症となって精神的にまいらせるだろう。額が冷汗に濡れて気持ち悪い。俺は汗を拭おうと手を動かす。肘から先が動かない。仰向けになり、月明りに右手を照らす。何度眼を疑っても肘から先が中途からない。左手もあげて、月明かりに照らす。やはり、肘から先がない。やられたと思うと同時に、俺は限度を超えた恐怖で、「ノー!」と叫ぶ。声も出ない。キャビン・クルーザーの上であれだけ叫んだのだから、一時的に声が潰れたのかもしれない。悔しさで涙が溢れ出る。脚を見ようと起き上がる。座る姿勢の最後の一踏ん張りが出来ず、どうにも起き上がれない。俺は眼を瞑って、声もなく泣く。何だか酷く疲れた。


 小鳥の囀りで目が覚めると、朝だった。俯せになり、もう一度両手を見る。やはり、両手共に肘から先が中途からない。切断部は綺麗に丸く縫い合わせてある。血は出ていない。頸だけ動かし、部屋を見回す。部屋には緑色のゴム鞠が一つ転がっているだけだ。赤いカーペットを敷き詰めた一〇平方メートル程の部屋だ。昨日、月明りが射していた小窓は左の壁の上の方にある。体に目をやると、何と真っ裸ではないか!頭上に見える閉ざされたドアーの方に顔を向ける。ドアーの手前に水の入った犬用の皿がある。体をくねらせ、肘と膝を使って二〇センチメートル程前にやっとこさ這っていく。俺は犬のように皿に顔を近づけて水を飲む。ふとエイセックスの兄が言っていた犬になってもらうの意味を思い知る。とても喉が渇いている。俺は残さず水を飲む。犬のように水を飲む事には大して抵抗がない。額に汗を掻いている。タオルも何もない。カーペットに汗の出た額を擦りつける。肘で起き上がる。痛くて肘が突けない。仕方なく手を万歳にし、じっとその場で身動きを止める。真紅のカーペットがエイセックスの赤い水着姿を連想させる。同時に遣る瀬なさで一杯になる。また涙が出てくる。涙に濡れた顔をまたカーペットに擦りつける。仰向けになって頭を上げ、上体を起こして脚を上げる。両足とも膝下が中途からない。鼻先が怒りのせいで熱くなる。また悲しみと悔しさで涙が溢れる。力の続く限り脚を眺める。自分の視覚を疑って疑って、疑りまくる。それでも膝下が中途からない。「くそ!」と俺は怒鳴る。声はやはり出ない。いつか仕返ししてやる!額や眉間や眼から念じるように怒りと憎しみをたぎらせる。ドアーの向こうの床が軋み、誰かの足音が近づいてくる。女と男の声が一人ずつ聞こえる。女の方はエイセックスの声である。

「彼、もう起きてるかね?ノー?彼には栄養が必要だ。我々は彼の命を救う事を諦めるべきではない。今、彼の生命は弱っていくばかりだ」と男。

 ドアーが開く。

「オー-ギルバート!起きてたのねえ」とエイセックスが猫撫で声で言う。

「何故俺を殺さなかった!」と俺はエイセックスに問い質す。声が出ない!仕方なくエイセックスの心を探るように睨み続ける。エイセックスはそんな俺の顔の表情から何一つ感情を読み取ろうとしない。エイセックスは俺の両頬に触れ、「ギルバート、ご機嫌如何?元気?よしよし」と言って、ぶつかるような勢いで俺の額にキッスをする。見知らぬ男が、「じゃあ、彼を早速診察しようか」と言って、聴診器を俺の丸裸の胸に当てる。俺は目の前の五〇歳ぐらいの男に助けを求めようと眼で訴える。男は診察室で予防注射を恐れて泣く子供の患者を見る医師のように、素知らぬ顔でじっと俺の両目に視線を合わせて聴診する。男は医師であるらしい。男は俺の眼に表われる心の動きを、まるで変容する液体でも観察するかのように、冷静に一つ一つ見定めている。自分という存在が肉体の感覚に象られ、自分からは声を出す事も、掌で自分の体に触れる事も出来ない。この自我は最早、他者への影響力を全く持たないのか。まるで体という箱部屋の中でただ目覚めている事だけを義務付けられた者のようだ。男は聴診を終えると、今度は俺の四肢の切断部を診始める。それが終わると、男は俺の喉元に手を置き、「よし、彼の回復は驚く程速く良くなってきている。手術は成功しましたよ」と微笑んで言う。医師らしき男はエイセックスの方を向き、「それでは、明日また診察に来ます。サラミか何かを食べさせるのも良いでしょう。彼は空腹だろうからね」と言って立ち上がる。待ってくれ!何の手術がどう成功したって!エイセックスは部屋を出ていく男の後を追い、「ありがとうございます、ドクター」と男に感謝する。ドアーは開いたままだ。ドアーまで五十センチメートルある。早く逃げないといけない。俺は精神力だけで強引に膝を立てて走ろうとする。思うように上手く立てない。俺は諦めずに手足の短い全裸の体をカーペットの上でくねらせる。何とかドアーのところまで来る。更に体をくねらせて廊下に出る。誰かが近づく足音が聞こえる。動きを止めて耳を澄ます。廊下はドアーを出て左に伸びている。ドアーの向かいにもう一つドアーがある。俺のいた部屋から出て、ずっと左の方にも廊下を隔てた両向かいに一つずつドアーがある。廊下の半分ぐらいのところの右側に曲がり角がある。恐らく階段だろう。廊下は十五メートルぐらいある。廊下の突き当たりに明り取りの窓が上の方にある。上を見ると、陽射しが眩しい。逆光で顔が見え難くなっている視界内に大柄の男が曲がり角からこちらに向かってくる。手には皿のような物を持っている。男の倒影が俯せになってじっとしている俺を蔽う。男はしゃがみ込み、「どうだい、元気になったかい、ギルバート?」と話しかける。眼を凝らして逆光になった大柄の男を見る。キャビン・クルーザーの上でエディーと呼ばれていた大柄の方の男である。俺の心に恐怖が蘇る。俺は震える体を抑えながら、憎しみの眼で男を睨む。男はサラミを一本、犬用の皿から大きく節くれ立った指で抓むと、「喰え」と言って、俺の閉じた口に押しつける。俺は顔を背ける。

「まあいい。さあ、部屋に戻るんだ」

 エディーは俺を軽々と抱き抱える。手足の短くなった俺はエディーの右肩に腹を当てて背負われる。エディーがゆっくりとした重い足取りで俺を部屋に運び込む。その四、五歩の振動が妙に懐かしい。幼い頃、よく父にこうして荷物のように担がれて、家の中を移動して遊んでもらったのだ。エディーは俺を部屋に戻すと、サラミの入った皿と水の入った犬用の皿をカーペットの上に置き、ドアーを閉めて出ていく。遠ざかる足音を確認し、俺は正に犬食いでサラミを食いまくる。腹が減っているのだ。サラミは人間用の高価な物だ。と言って、犬用のサラミを食べた事はない。空腹を満たすと、俺は仰向けになって目を瞑る。主よ!我々の身に大変な事が起きています!全ての運命を主の御意思に委ねます。こうなったら、私はもうお手上げです。少し気持ちが休まるまで私をお守りください。アーメン。


 相当に疲れているようだ。何時の間にか眠っていた。眠っている間は気が紛れる。エイセックスが俺が寝ている間に部屋に入ってきて、俺の腹を撫で回し、無理矢理俺を起こしたのだ。俺がくすぐったくて堪らず俯せになると、エイセックスは俺に話しかける。

「あのドクターたらね、いかにも私としたそうに私の体を甞めるように見るの。あの人がどれだけ私のプッシーを欲しがっても、私と彼が寝るなんて事は有り得ないのにね。おかしいでしょ?」

 エイセックスは柔らかく細い指で俺の喉を撫ぜる。俺は頸を竦めたり、避けたりしながら、何となく話を聞いている。

「私は一生懸命汗水流して働いて得た肉体労働者のお金にしか興味がないの。一夜のセックスに一〇〇〇ダラーも要求しちゃうのなんて、どう?私はそんな男に愛されては感じるだけ感じて熱くなるの」とエイセックス。

 俺はとても惨めな気持ちでエイセックスの話を聴いている。この女は完全に俺を犬だと思ってやがる!この女は気が振れているのか。俺はもう人間としては愛されていないのか。

「お風呂に入りましょうね、ギルバート」とエイセックスは言って、部屋を出ていく。

 またドアーが開いている。早く逃げないと!エイセックスが出ていき、俺は耳をそばだてる。俺はまた体をくねらせて廊下に出る。今度はそのまま止まらずに曲がり角のところまで這っていく。曲がり角はやはり、階段だった。上から階下に誰もいない事を確認し、階段を下りる事にする。仰向けになって足を下にし、滑るように下りれば良い。俺は早速仰向けになる。階下から話し声が近づいてくる。俺は急いで階下に滑り降りる。喧しい音を立ててしまい、エイセックス達の反応を気にして動揺する。体の節々が痛い。彼らに虐待される不安で一杯だ。彼らの怒りを買って袋叩きに遭いませんように!アーメン。

「オー・ノー!ギルバート!馬鹿ねえ。そんなに早く動いちゃダメなのよ」

 エイセックスは言って、近づいてくる。階下はだだっ広く、左に庭に出る窓がある。エイセックスと世話人の二人が右の方から近づいてくる。俺は俯せになり、体をくねらせて左の窓の方に全力で這っていく。窓は開いている。急いで逃げないと!

「ギルバート!何処に行くつもり!お部屋に戻りなさい!ほら!さあ!」と背後からエイセックスが俺を呼び止める。

 一メートルも進まない内にエイセックスが俺の肩に手をかけ、剥き出しの俺の尻を手で叩く。力なく湿ったような子供っぽい音が手伝ってか、俺は悲しくなって、また涙を流す。

「どうしたって言うのよ、坊や!あら、彼、泣いてるわ!見てよ!彼の涙!オー!私の愛する小さな恋人さん!言葉が通じないのが寂しいわ!」とエイセックスが優しさを演じるような甘い口調で言う。 

 エイセックスは俺の髪を撫ぜる。俺は顔を背ける。俺が剥き出しの尻を子供のように叩かれた事に悔し涙を流していると、エイセックスが俺の頭を撫ぜる。俺は頭を逸らし、その手を避ける。エイセックスはしつこく俺の体に触れようとする。俺はエイセックスの手を避け続ける。エイセックスは避け続ける俺の頭を更に追うように撫ぜ回す。俺は仕方なく諦めて、エイセックスに頭を撫ぜさせる。俺はカーペットに顔を押しつけて涙を拭う。イエス様、どうか私と一つでいてください!辛いです!アーメン。

「エディー!彼を二階に運んで!」とエイセックス。

 先の大柄の男がまた俺を軽々と肩に背負い、階段を上っていく。

「ギルバートをお風呂に入れて、体を洗ってあげたいの」とエイセックスがエディーに言う。

「畏まりました」とエディー。

 俺はエディーの右肩に背負われながら、後ろから着いてくるエイセックスを見下ろしている。どうやら、俺を風呂に入れたいようだ。エイセックスが俺の顔を見上げながら、赤ん坊の機嫌を取るように、両手の指の第一関節と第二関節を折り曲げ、何度も俺の顔を掴むような仕種をして、赤く長い舌を出し、笑顔を見せる。この女は馬鹿だ!くだらねえ!小便がしたい。部屋にはレストルームらしきものはない。まさか垂れ流しにさせるつもりなのか。

 俺はエイセックスに風呂に入れてもらい、バスタブの中で、濡れ序のどさくさで小便をする。今しなければ、何時小便をする機会がくるか知れないからだ。

「あら、おしっこしたかったのねえ。体を綺麗に洗ってあげるわねえ」と猫撫で声でエイセックス。

 エイセックスは俺の体をバスタブの底に横たわらせ、自分は服を着たままスポンジに石鹸水を付け、俺の体を洗う。こんな事してもらってて良いのだろうか。人に体を洗ってもらうのは気持ちが良い。ただ俺にも意地がある。俺は一人前の大人の人間なんだ、男なんだと険しい目付きで抵抗する。エイセックスは悪い事をしている訳ではない。かと言って、全く良い事だけをしているとも言えないだろう。エイセックスは俺の肢体の切断部を優しく丁寧に洗う。エイセックスは別に涙を流している訳ではない。俺は自分が愛されていると思う事に戸惑いを感じている。その途端、直ぐに彼らへの不信感から不安が生じる。それでいて何する抵抗も思い当たらず、緊張したままでいる。何とも複雑な気持ちだ。また涙が出てきた。どうも涙腺が緩んで仕方ない。主よ!これは生き地獄の始まりなんでしょうか?私はこの手足のない身で何を為せば良いのでしょうか?アーメン。

「オー・ギルバート!また泣いてるの?気持ちが良いのね」とエイセックス。

 エイセックスの解釈に感情が流されていく。素直に受け入れ続ければ、一種の催眠に掛かったように、少しずつ犬化していくだろう。気を付けなくてはいけない。声が出ないと言う事がどれだけ人間関係において自分を不利な状況に身を置く事になるか。声を持った者が声の出ない者に発言する言葉の影響力は大きい。今の俺には単なる思いと、声に出して言葉を話す事に明らかな責任の重みの違いが認められる。話す事と行為の違いはどうだろう。エイセックスに対して何か行為で示す事が出来るなら、それらの違いがもっと判り易い筈だ。美味しい食べ物を言葉で表現する事と、美味しい食べ物を実際に振舞うのとでは、行為の方が明らかに徳が高い。料理の知識を判り易く説明してから与えるのと、作った料理をただ振舞うのとでは・・・・。いや、余計な事をあれこれ考えるものではない。無駄な思考は気分転換にはなる。あああ!俺は激しく頭を振り、雑念を振り払う。

「エディー!彼をバスタブから出して!」とエイセックス。

 エディーは軽々と俺をバスタブから抱え出す。エイセックスは俯せになった俺の濡れた体を拭き始める。大便は何時何処ですれば良いのか。部屋などでしたら、尻を拭いてもらえるのか。部屋などでしたら、部屋の中が糞尿の臭いで一杯になるだろう。

「風邪を引かないように手早く拭いてあげるからねえ。寒い寒いわねえ」とエイセックスが猫撫で声で言う。

 大体、何で生きた人間を犬にしようなんて思ったんだ?こいつらは狂ってる!また涙が溢れ出す。主よ!私はここで何を学ぶんですか?私は彼らと何の関係があって、ここにいるんですか?アーメン。

「エディー!彼を部屋に運んで!」とエイセックス。

 エディーがまた俺を担いで部屋に連れていく。今度はきっちりとドアーを閉めていく。室内は全室冷暖房完備で、今は時節柄暖房が点いている。これなら体調を崩す心配はない。犬用の水桶にまた水が入っている。俺はその水を一滴残さず飲む。クッキーもある。俺は早速食べる。食べたり飲んだりしてるのが一番気が紛れる。バターと卵の味が品良く口の中に広がる。これも高級菓子だ。主よ!あなたの天国はこんなに難解な幸せを理解しなければ入る事が出来ないのですか?アーメン。

 早く歩けるようになりたい。切断部に体重を乗せると、痛くて直ぐにへたばってしまう。体重を減らしたい。体力をつける事も必要だろう。減量のために食べ物を制限するのは難しい。のべつ何かを口にしていたい。そうしてないと、とても遣り切れない。ゴム鞠がある!あれで遊ぼうか。そんな事をすれば、奴らの思う壺だろうか。犬なんかに絶対になるものか!人間だってゴム鞠で遊ぶのだ。俺はゴム鞠のところまで左にゴロゴロと転がっていく。やはり、与えられた玩具で遊ぶなんて軽率だろうか。止めよう。少なくとも今は。

 この部屋にはTVもない。近頃はTVを観る犬がいる。いやっ!そんな事はどうでもいい!頭の中から犬に関する事を追い払わないといけない。犬の事を忘れたら、犬化していく自分に気づかないだろうか。また犬化する事を考えてる。うんざりだ!考える事自体を忘れようか。しばらく、何も考えないでいよう。

 集中力が続かない。確かイエス様は父なる神にお祈りをしていた。祈りと瞑想はどう違うのだろう。犬化以外の事を考えようにも、なかなか思いつかない。判らない事を何とかして知ろうと知識欲旺盛になっても、今知りたい事を数日内に調べあげる事すら出来ない。これでは却って犬化する事への不安が強調される。『俺は人間だ!』と頭の中で言葉にして叫ぶ。どうしても犬の事を考えてしまう。初日からこれだ!この先、苦しまないためには自然体でいた方が良いだろう。自然体?犬として生かされている現状に甘んじるのか。犬のナイス・ガイとはどんな者か。適度に人懐っこく、品があり、大人しく、躾がよくついた飼い主思い、それから強いなんて事も入るな。生意気で、凶暴で、贅沢で、気ままで、反抗的なんてのは生かしてももらえないだろう。そんな犬は餌も与えられず、散歩にも連れていかれず、水も与えられず、夏も冬も野晒しで、その上、首輪を嵌められ、鎖に繋がれ、泥だらけで、腹が空き切った挙句に、自分の垂れ流した糞尿を飲み食いして生きる事になる。言葉の暴力で心を傷つけられるより、余程頭をぽかんと殴る暴力の方が罪が軽いと思っていた。これは比較している暴力の度が違う。人の心を傷つけるような言葉の暴力は話す事の内で最も重い罪だ。それに比するのは俺がこの身に受けたような暴力や、幼児虐待や、KKKが黒人に対して行った人間狩りのような暴力だ。逃げられるだろうか。逃げたりなんかしたら、捕まった後、また酷い仕打ちを受けるのでは・・・・。成功するかしないかよりも、このままでは一生犬の生活だ。そんな事俺には耐えられない。この体で生きるんだぞ。この生活を捨てて、俺は生きられるのか。いや、こんな単調な生活が良い訳ない。俺は人間の脳を持ってるんだ!俺は犬なんかと違って複雑な思考が出来るんだ!複雑なんだ!混乱しているだけではないだろうか。仮に複雑な思考が出来たとしても、本当に人間はそんな複雑な生き方をしているだろうか。考える事はそんなに有益な事なのか。何のために人間はそんな複雑な思考が出来るようになっているのか。人間は脳を持て余してやしないか。ああ、神様、どうしたら良いのですか!俺は神様の答えを待ち、体外に耳を澄ます。神様は何も答えてくれない。そもそも俺は神様を真に必要とし、真剣に神様の事を考えた事などあったか。常に神様を自分の味方につけていられるような敬虔な信仰に生きていたか。神様が生活の隅々にまで口を出すような事を不自由だと感じていなかったか。それを突然神を必要とし、たった一回の祈りで神様の返事を得られると思うのは都合が良過ぎるのではないか。神様を呼べば当然のごとく神様が即答すると思う者がいるとしたら、彼は恐らく俺と同じように、神への畏怖さえ持たない不信心な者だろう。俺は都合良く神の遍在を受け入れてきた。窓やドアーや天井程にも有り難がらず、罪を犯す自由を望み、罰に対する抗議や復讐を思った。神とは正しき教えのせいでどれだけ堕落した者から憎しみの念を向けられる事か。今の俺に神の実在を証明する事は出来ない。何時までも神の救いだけを求めている訳にもいかない。やはり、ここから逃げる事が先決なのだ。隙を見計らっては、その度に逃げてやる!それを繰り返すんだ。それしかない。飼い主の許から脱走を繰り返す犬だっているんだ。心配ない。

 何で声が出ないのだろう。俺は右手の切断部を喉元に当ててみる。手が短くて喉元まで届かない。鏡が見たい。今度エイセックスの部屋に行ったら、俺の部屋に運び込むまで姿見の前に居座ってやろう。もしも俺の願いを無視して、ただで俺を動かそうとしたなら、暴れて抵抗してやる。

 ここは何処だろう。先、階下で庭の方を見たら、その奥は森のようだった。ニュー・ジャージーではないだろう。森の中を這って逃げる想像をする。短い手足で這って逃げる事が如何に忍耐を必要とする事か。先、階下で数メーター全力で這ってみた時、かなりの疲労感が残った。不意に肢体を切断された事を体で感じ、それが悲しくて、また声もなく泣き叫ぶ。声のない叫びは手応えがない。全身がかったるさに満ちて、息苦しくなってくる。声の代わりに苦し紛れに荒い息を意識的に吐く。その音を聞いていると、不思議と不快感の闇から這い出る事に成功する。イエス様は十字架の上で何を考えていらしたんですか?酷い痛みだっでしょうね。ごめんなさい。毎日、誰かが祈りの中で語りかけ、あの受難を忘れる時間がないでしょうね。ごめんなさい。本当にごめんなさい。アーメン。

 エイセックスの話し声が聞えてくる。何を言っているのかは聞き取れない。犬として生かされているのに五感は人並みでしかない。エイセックスはドアーを開けて部屋に入ってくる。

「ギルバート、あなたはまた歩けるようになるために頑張らなければいけないのよ」

 エイセックスは言うと、俺の喉元を細い指で擦る。俺はそれが堪らなくくすぐったくて、頸を竦める。それでもエイセックスは止めない。俺は声もなく笑ってしまう。カーペットに額を着けて抵抗する。声を出して笑う筈の笑い声が出ない。その苦しみは腹の中に溜まり、想像以上に辛い。それでもまだエイセックスがしつこく悪戯をする。普通なら手で遮る筈の手も十分にはない。苛立ちが募り、エイセックスの手に噛みつく。それをエイセックスが素早く手を引っ込めてかわす。エイセックスは懲りもせず、今度は俺の頭を撫ぜる。

 会話のない静寂の中で無意味に体に触れられていると神経が疲れる。俺は次第に眠くなってくる。俺はエイセックスが傍にいる安心感に浸り、カーペットの上に右頬を下にして頭を下ろす。俺はゆっくりと目を閉じ、エイセックスへの警戒心を解いていく。何が歩けるようになるためにだ!謝れ!


 目覚めたら、夜になっている。喉が渇いているので犬用の皿に入った水を飲む。また新たにビスケットがある。俺はそれを食べ始める。部屋の中にはまだエイセックスの女らしい残り香がある。俺はその匂いを他にする事もなく暇潰しに嗅ぐ。今ある幸せを掻き集めて浸り込む。文句の付けようのない良い匂いだ。この期に及んで、猶俺は自分が悪夢を見ているのではないかと疑う。俺の経験している苦悩の生々しさが現実を否応なしに知らしめる。また涙が流れる。主よ、私を幸せに御導きください。朝起きたら、全てが元通りになっていますように!アーメン。俺はまた仰向けになって目を瞑る。これで俺のこの家での記憶上の二日目が終わる・・・・。


 俯せになって眠っていた俺を突然誰かが両脇に手を通して立ち上がらせる。

「しっかりしなさいよ、ギルバート!」とエイセックスが立ち上がった俺の目の前に立ち、寝起き様の俺に叱りつけるように言い放つ。大きな女だ。こんなに大きかったかな。夢かな。手足がちゃんとある!やはり、元通りになってる!

「俺は今、何処にいるんだ?」と俺。

「私の家族の家よ。ずっと眠ったままかと心配して、そのまま死んじゃうんじゃないかと思ったから起こしたのよ。あなた、お酒の飲み過ぎよ!」とエイセックス。

「飲み過ぎ?何だっけ、それ?何時の事?何処で?ああ、船の上でか!でも、待てよ、一寸二階に上がらせてくれよ」と俺。

「行かない方が良いわよ!」とエイセックスが強い眼差しを向けて言う。俺はどうしても二階を確認したい。俺はエイセックスの反対を押し切って階段を上り、廊下を左に曲がる。一番奥まで歩いて、閉じた左右のドアー間で止まる。思い切って右のドアーを開ける。ここに自分がいて、部屋の中にも自分がいるなんて事はないのに、何故だか俺はその部屋の中に自分がいる事を期待している。俺にはどうしてもキャビン・クルーザーでの出来事が夢だとは思えない。

 部屋には誰もいない。そこには俺の体も横たわっていない。誰も使っていないその広い一室には真紅のカーペットが敷き詰められている。エイセックスの赤いセクシーな水着姿を思い出させる真紅のカーペットだ。階段の方に引き返す。右にある階段の先まで廊下を進む。左にあるエイセックスの部屋と記憶している、入ると直ぐ左にバスルームがある部屋のドアーを開ける。薄暗い部屋の中には首を吊った三人の男達が宙ぶらりんになっている。眼を開けたまま口から涎を垂らし、尿をスラックスから垂れ流して死んでいる。俺はあまり恐ろしさに急いでそのドアーを閉める。振り返るとエイセックスが立っている。

「だから、行かない方が良いって言ったのに!今取り込んでるの。警察も呼ばなきゃならないしね」とエイセックス。

「一寸、何が何だか分からないんだ」と俺。俺は額に冷や汗を掻いている。先からずっと右手の甲で汗を拭っている。それがなかなか綺麗さっぱりとは拭い切れない。不快感が募る。先の部屋の真紅のカーペットに額を押しつけ、汗を拭いたい。

「良いの。あなたには判らなくても」とエイセックス。

「全てを話してくれ」

 俺は泣きながら、エイセックスに向かって真実を求める。スラックスのポケットに必ず入れておくハンカチーフを頻りに右手で探す。

「全てがおかしいのは、今、俺のこのスラックスの右のポケットにハンカチーフがないって事だけで説明がつくんだ!」と俺は苛立ちのあまり、エイセックスに向かって怒鳴りつける。

 小鳥の囀る朝、俺は泣きながら目覚める。妙な現実を経験したような混乱が少しずつ纏まっていく。その纏まりに合わせて頭も冴えてくる。夢だと気づき、現実が再び自分の目覚めに入り込む。その事に気づいた俺は慌てふためいて消えゆく夢の方を現実とし、それを逃すまいと焦る。再び同じ夢の中で眠る事は出来ず、俺は現実に戻っていく。意外と静かで平和な生活じゃないか。やっぱり、額に冷や汗が出ている。俺は真紅のカーペットに額を擦りつけて、念願の汗を拭い取る。手足は切断されたままだ。小便がしたい。俯せになって周囲を見回す。砂の入ったトレイが置いてある。寝ている間にエディーが置いていったのだろうか。犬化していく事に抵抗を感じながら、そのトレイで用を足す。直ぐに大便も催す。続けて大便もする。紙で尻を拭きたい。周囲を見回しても紙はない。仕方なく、気持ち悪くても我慢する事を受け入れる。その直後に尻を拭く紙を掴むための手がない事を思い出す。

 エディーがドアーを開けて入ってくる。水と食料を持ってきたようだ。生の牛肉だ。エディーは生肉の載った皿を黙ってカーペットの上に置くと、直ぐに出ていく。生肉なんて食べられるのだろうか。思い切って噛みついてみる。食べられなくはない。塩でも欲しいぐらいだ。美味いも不味いも単なる生肉だ。難なく平らげる。生肉を食うと、犬用の皿に入った水を飲む。腹ごしらえが出来たから、またゴム鞠を蹴って遊ぶか。突然エイセックスが入ってくる。その後ろにエイセックスの兄もいる。

「ケヴィン、彼は食欲旺盛なのよ」とエイセックスが明るい声で兄のケヴィンに話しかける。

「それは良い事だ」とケヴィンが固い口調で言う。ケヴィンがしゃがみ、俺の頭を撫ぜてくる。ケヴィンが演技がかったような大袈裟な口調で、「彼は俺達の自慢のペットだ。エイセックス、お前は最高の贈り物を手に入れたんだぞ」と言う。

「オー・ノー!彼は私達の家族よ。ペットなんかじゃないわ。獣とは大違いの大人しい子よ」とエイセックスが解釈の困難な生真面目さで反論する。エイセックスは本当にまともなのか。この環境をどうまともに対処しているのか。

「O・K!ギルバート、すまなかったな!俺はお前を誤解してたんだ」とケヴィンは言って、今度は俺の喉元を指で擦る。俺はくすぐったくて頸を竦める。ケヴィンは俺の頭の上に手を置く。鬱陶しい奴らだ!俺は憎悪と軽蔑の交じり合った眼差しをケヴィンに向ける。ケヴィンはそんな俺をただ優しげな眼で見つめる。彼らは俺の顔の表情など見えないかのような素振りをする。本当に俺をもう人間だとは思っていないのか。エディーが来て、「ドクターがいらっしゃいました」とエイセックスに告げる。医者はエイセックスとケヴィンに挨拶すると、「ほう、ギルバート、調子良さそうだな」と言って、先、俺が用を足したトレイを見にいく。

「うんちの方にも問題ない。彼が元気そうで安心した。もう心配は要らないよ、エイセックス」と医者。

「本当ですか!良かったあ」と嬉しそうにエイセックス。

「どうれ、脈拍を診てみようか」と医者。

 医者は俺の肘から先が中途からない右手を掴み、脈拍を診る。次に俺を仰向けに寝かせ、指先で軽く肋骨を叩きながら、聴診器を胸に当てる。更に俺の体を反転させ、俯せにした背中に聴診器を当てながら、指先で軽く背中を叩く。それが終わると、切断部を入念に調べる。医者は俺の喉元に手で触れ、「よし!歩けるようになるぞ!」と喜びの声を上げる。こいつらは俺の何の問題もなかった手足をわざわざ短く切断してまで、俺が四つん這いで歩けるようになるのを望んでいるのか!絶対に歩いてなんかやるものか!いいや、歩けるようになるための努力はここから脱出するための鍛錬でもある。何としても逃げなくてはいけない。そうだ、密かに歩く練習をしよう。庭の奥の森を抜ければ、誰か助けてくれる人のいるところに出られるかもしれない。

「エイセックス、今度は一週間後に彼の容体を診にきます」と医者。

「どうもありがとうございました、ドクター。下でコーヒーでも召し上がっていかれませんか?」とエイセックス。

「いいや、それは結構です。どうかお構いなく」と医者。

「あら、それは残念ですわ。それではお気をつけてお帰りください」とエイセックス。

 三人がまたドアーを開けっ放しで出ていく。早速、俺は這って部屋を出る。階段の先の左側にあるエイセックスの部屋のドアーが開いている。俺は中に入ってみる。姿見はベッドの右脇にある。俺はその前まで這っていく。姿見の前に来る。俺は自分の姿を繁々と鏡で見る。何とも信じられない姿だ。喉元に手術の痕がある。俺の声帯は弄くられたのだ!こんなにも強く自分を憐れんだ事はない。また涙が溢れる。鏡に映った自分の姿を見つめる。これが変わり果てた自分の姿なのか。何かもっと信じられる現実感の方に心のアンテナを合わせたなら、瞬時に元通りの姿に戻るような一時的な幻を見ているとしか思えない。受け入れられない現実を前にし、この耐え難い状況から心を解放したい。俺は姿見の前で顔の表情研究を始める。怒り、悲しみ、喜び、憎悪、軽蔑の眼差しなど、相手の心に何らかの感情が生じるような働きかけになる顔の表情を得たい。

「ギルバート?ギルバート?何処にいるの?何処に行ったのかしらねえ」とエイセックスの声が廊下の向こうから聞こえてくる。エイセックスが俺を捜しにきたようだ。

「オー・ギルバート!こんなところにいたのう。お風呂に入りましょうね」とエイセックスが猫撫で声で言う。俺はエイセックスを無視して、姿見に映った自分の姿に見入る。

「エディー!ギルバートならここにいたわよ!バスルームに彼を連れていって頂戴!」とエイセックス。

「オー・ボーイ!こんな所にいたのか。彼は一人で歩けるんですかねえ?」とエディー。

「多分、彼は這って移動出来るのよ」とエイセックス。

 俺は俺を抱き抱えようとするエディーに抵抗して暴れる。

「ギルバート!鏡なら後にしなさい!」とエイセックス。

 何だ、その命令口調は!許さないぞ!俺は姿見を見続ける。

「判ったわ。仕方のない子ねえ。それじゃあ、エディー!あなた、この鏡、彼の部屋に運んでくれる?」とエイセックス。

「かしこまりました」とエディー。

 俺は鏡を目で追う。この上また風呂にも入れてもらえるのか。俺はエイセックスとキャビン・クルーザーにいた小柄な方の男にバスルームに連れていかれる。エイセックスがまた前のように体を洗ってくれる。エイセックスが俺の体を洗ってくれている間に俺はシャワーの湯で神に心身を清めてもらう。作戦成功だ。切断部と喉を念入りに清めたい。

 風呂から出ると、部屋に置かれた姿見で顔の表情研究を始める。感情を顔で表現するのは、本当なら、そんなに難しい事ではない。彼らは俺を犬だと思い込み、大雑把な理解しか示さない。そんな奴らのために微妙な感情表現の研究なんて馬鹿げている。何としても同じ人間である事に気づかせなければいけない。少し大げさに表現すれば必ず伝わる。待てよ。犬として生きなければ、彼らは俺を殺すのか。彼らは俺をペットとして生かしているのだ。人間としてではない。そこのところをよく弁えておかなくてはいけない。賢く犬を演じなければ、生きていくための命すら奪われ兼ねない。

 またビスケットと水が置いてある。俺は食べ物のところまで這っていく。飢えを凌ぐために与えられた食べ物を食べる。先も見かけた小柄の方の世話人が俺のいる部屋を覗きにくる。男は何も言わず、繁々と俺の体を見ている。俺はビスケットを噛むのを止める。俺はその男を警戒して睨みつける。男は薄笑いを口許に浮かべ、ゆっくりとドアーを閉める。主よ、あの男は怪しいです。どうか私をこの家の邪悪な者らから御護りください。アーメン。

 体の支えとするだけの長さのない四肢でも壁に凭れて何とか坐る事が出来た。その成功で少し人間らしい気分が戻ってくる。エイセックス達に見られる危険性を踏まえた上で、時々こうしていようと思う。エイセックスが入ってきたら、急いでそのまま後ろに倒れれば良いだけだ。俺は四つん這いになる練習を始める。

 四つん這いになる事を実際に試したら、骨が当たって酷い痛みを感じる。肢体の膝から少し先のある脚二本、肘から少し先のある腕二本が、脚の方も腕の方も四つそれぞれ長さが違う。少し練習しては休む事を繰り返す。

 エイセックスが部屋に入ってくる。俺は慌てて後ろに倒れ、俯せになる。エイセックスは入ってくるなり、俺に近づいて抱き締めると、「ギルバート!んんん、ん!」と言って、俺の唇に吸いつくようにキッスをする。

「ギルバート?お手!」とエイセックスがふざける。俺はエイセックスの馬鹿げた命令を無視する。何がお手だ!

「ギルバート?これは重要な事よ。お手って言われたら、こう私の手の上にあなたの手を乗せるの」とエイセックスが厳しい目つきで真面目に言う。俺はそっぽを向く。

「ギルバート?お手!ギルバート!お手!」とエイセックスが命令を繰り返す。エイセックスは俺の切断されて縫い合わされた肘のある手を自分の掌の上に強引に掴んで乗せる。俺は一歩譲り、エイセックスがしたいように手を任せる。それだけではいけない。命令通りに言う事を聞かなければ殺されるかもしれないのだ。彼女が再び俺に、「お手!」と言う。俺は素直に彼女の掌の上に肘を乗せる。決め事を受け入れた途端、悲しみが募って、また涙が溢れる。酷くプライドを傷つけられたからだろう。人間性の最たる特徴は情けと平等観と謙虚さと自己犠牲の精神にある。起こっている事を真剣に受け止める事が人間性を保つ唯一の方法のように思える。事によっては、下手に抵抗するより、不本意と判っていながらも従わねばならないだろう。その時々に抱いた感情を何よりも大切にして生きていこう。もう何も失いたくない。俺は人間なんだ!エイセックスが満足して、黙って部屋を出ていく。俺は悔しさのあまり声もなく嗚咽する。


 祖父母の住むニュー・オリンズの家のポーチで夕焼けを見ている。涼風に当たりながら、缶の冷たいビアーを飲む。顔に当たる涼風もビアーも何故か生温い。どうも感覚が正常じゃない。家の中から母の話す声が微かに聴こえる。夕焼け空も何処か絵画的だ。なるほど。またあっちに目覚めるのか。

 俺はゆっくりと目を覚ます。部屋の中はもう薄暗い。部屋の外から足音が近づく。エディーがまた生の牛肉と水を持ってきて、赤いカーペットの上に置く。俺が体をくねらせて皿に近づくと、エディーは皿を取り上げ、「ギルバート!待て!」と言い、「お手!」と右手を出して命令する。俺は眼を細め、中腰のエディーを黙って見上げる。俺はエイセックスが昼に教え込んだ事の意味を考える。エディーはもう一度俺に、「お手!」と言う。俺はエディーの眼に微笑みかけ、エディーの右掌の上に左の肘を乗せる。エディーはにやりと笑い、「よく出来たな」と言うと、生肉の載った皿を真下に落とす。生肉は皿から転がり、皿がひっくり返る。

「お前が賢いのかどうかは判らねえ。しかしなあ」とエディーは言って、大きな右手で俺の左頬を力一杯平手打ちする。「ああ、これはいけねえこった。鼻血でも出されたら大変なこったぜ」とエディーは言って、皿の上に生肉を置き直し、何も言わずに部屋を出ていく。

 エイセックス、君に感謝するよ。君は今の出来事が起こるのを先読みしていたんだね。まさか君も俺が平手打ちを喰らわされるとまでは考えなかったろう。もう君を疑うのを止めるよ。俺の心の中からエイセックスへの疑いが完全に晴れた訳ではない。エイセックスとは俺がここから逃げるための抜け道であり、誰を信用したら上手くここを脱出出来るかの答えであり、脱出出来る可能性の目安なのだ。俺は神様をずっと意識の片隅で想っている。そんな俺が堪らず溜息を吐く。俺は生の牛肉を眺める。生肉にうんざりしても、何か食べなくてはいけない。俺は思い切って生肉に喰らいつく。ドッグ・フードよりは増しだ。味つけもされていない生の牛肉を映画『マッド・マックス2』でマックスがドッグ・フードを食べる場面を想って、吐き気を覚えながらも、よく噛んで食べる。

 俺の部屋には時計がない。そうだ!時計を強請ろう!

 夕飯を食べ終えると、俺はゴム鞠を蹴って憂さ晴らしをする。俺は段々と疲れて眠くなる。主よ、ここも神の御国の一部なのでしょうか?私はここにいて安全なのでしょうか?私はまだ死ぬ訳にはいきません。主は私の希望の印です。どうか私を御護りください。アーメン。


 俺の寝ているベッドに従兄弟のマークが子犬のように潜り込んでくる。俺の可愛い弟分だ。マークの顔は叔母そっくりの目鼻立ちで、男の子の顔には不釣合いな程、女性的な美しさが強調されている。一緒にベッドに横になって彼を見つめていると、好きな子に愛されているような満足感で一杯になる。機会を見計らって、彼の美しさを褒め称えるべく、マークの額にキッスをしよう。俺は高校一年生、マークは小学二年生だ。俺は横たわった自分の胸の上にマークを乗せ、「お前は美しいんだぞ」と言って、遂にその額にキッスをする。マークは転がるような可愛らしい声で照れ臭そうに小さく笑う。夢から醒めていくのが辛い。そう、あの夏の日の思い出の後、マークは同じ夏休み中に、母親以外の誰からも自分の美しさを褒め称えるべくキッスも受けずに、小学校のスウィミング・プールで心臓麻痺を起こして死んだのだ。夢の中に現われたマークの額にキッス出来た事が何とも嬉しい。記憶上の四日目の朝は夢の中にまで入ってきた小鳥の囀りで目覚める。

 この日もエディーが時刻通りに水と食料を運んでくる。食料は牛の生肉に限られてきた。

 またエイセックスに風呂に入れてもらう。バスルームから出ると、エディーに背負われる。俺は執拗にエイセックスの部屋の時計を見つめ、時計から遠ざけられるのに逆らって暴れる。それで俺用の時計を何とか部屋に置いてもらえるようになる。四つん這いになる練習は五分が精々で、その後二時間ぐらい休んでいるのが判った。短くても毎日三回は四つん這いになる練習をしよう。

 昨日も現れたあのキャビン・クルーザーにいた小柄の方の男がまた部屋の中を覗きにくる。男は薄笑いを顔に浮かべながら、繁々と俺の体を眺め回す。男はこれと言って何する訳でもなくドアーを閉めると、また黙って去っていく。見た事もないおぞましい眼差しだ。不安が募り、酷い動機がする。俺は逃げ出す計画を考える。母との再会を想うと、悲しみと苦しみのあまり、涙が溢れる。声が出ない事も諦めがつかず、駄目押しで「アー!」と叫んでみる。やはり、声は出ない。この体を抜け出たら、手足はどういう具合になっるのだろう。幽体離脱を意識的に行う人の本を以前に読んだ。幽体離脱の仕方までは書いていなかったように思う。確か幽体離脱に関する体験談だった。

 一〇代の初め頃、俺はインド人の老哲学者に印度哲学を習い始めた。その先生にも嘗ては師がいたらしい。先生は度々インディアに帰り、家を長く留守にした。その先生はヒンドゥー教徒や仏教徒ではなく、クリスチャンだった。知り合った当時、俺は中学一年生で、先生は七十二歳だった。先生の家を訪ねていくと、先生はよく国内の大学に奉仕活動として講演をしに出かけていた。夏に冷房なく、冬に暖房のない先生の家で、俺はしばしば先生の帰りを待つ事になった。俺は先生が帰ってくるまで鍵の閉まっていない家の中に入り、出入りを許可された応接間のソファーに座って待っているか、書庫の本を見て時間潰しをした。夏の蒸し暑い最中など、汗をだらだらと掻き、随分と長く待たされた。印度哲学を習っていた期間は二年弱だ。高校に入ってから卒業する前までの間は長く先生の家から遠ざかっていた。

 高校三年生の時に部屋で仲間とグラスをやっていると、何の前触れもなく先生が俺の家の部屋に入ってきた。先生は葉っぱの入った袋を俺の手から引ったくり、いきなり往復びんたを俺の頬に食らわせた。『お前は何をやってるんだ!』とあの全てを見通すような印象深い眼で俺を見つめて言うと、『こんな物で遊んでる場合ではないぞ!』と俺を叱りつけた。それで先生は俺の部屋を出ていき、家の玄関の戸を閉めて去っていった。それきり俺は手広く試していたドラッグを止めた。簡単に止められる物ではないのは知っていたから、先生には感謝の手紙を書いて送った。あの先生も幽体離脱の話なんかはしてくれなかった。体から出たって、またこの体に戻ってくるんだろう。とにかく、地道に脱出する準備をしよう。イエス様、私はこれからどんな人生を生きるのでしょう。私はまだ主の役に立てるでしょうか。アーメン。


 この家での記憶上の五日目、俺は我慢の限界を超え、堪らず仰向けになると、短くされた手足をバタつかせ、汗が出るまで暴れる。鼓動が速くなり、息が上がる。静止すると体が温もる。その温もりにささやかながら癒され、満足する。これからは気晴らしに一日一回は暴れよう。汗を掻いても、エイセックスに風呂で体を洗ってもらえる。歯磨きもエイセックスがしてくれる。自由の身になったら、声帯を治し、思う存分会話を楽しみ、沢山本を読んで、種々な事を勉強しよう。

 俺は毎夕壁に凭れて座る時に讃美歌を二十曲立て続けに心の中で歌い、心安らかに訓練を始める。その後、二時間ぐらいの安全な時間を確保し、無我の境地を目指して瞑想したい。

 あの薄気味悪い小柄の方の男がまたドアーを開けて俺の様子を見る。男は何する訳でもなく、再びドアーを閉めると、また黙って去っていく。主よ、私の災難続きを終わらせてください。恐ろしいです。アーメン。


 六日目の夕方、いつもは日中にドアーを少し開けて、その間から中を覗き見るだけだった小柄の方の男が灯の消えた部屋の暗がりを灯の点いた廊下から覗き見ている。暗がりで警戒している俺を見つけようとしているのだ。暗がりに俺を見つけた男は陰鬱な奇妙な目付きで俺を見ながら、ゆっくりと部屋に入ってくる。俺は男を警戒して睨みつけながら、肘のある両手を万歳にしてうつぶせになり、様子を窺っている。俺は緊張し、極限まで恐怖が募る。不意に男が俺の背中に飛び乗り、馬乗りになる。俺は咄嗟に心の中で、「それは嫌だ!そんな事をされるぐらいなら殺して欲しい!」と声もなく叫ぶ。俺は自分の肌に触れる男の肌感や体温に虫唾が走るような拒絶感を示して抵抗する。男は俺の背中に馬乗りになると、体を弾ませながら、「やあああああ!」とふざけるように叫び、俺の右の尻を何度も速く叩く。男は独り大笑いし、立ち上がって部屋を出ると、ドアーを閉めて去っていく。極度の動揺で俺の意識は張り詰めている。泣いてでも許してもらいたかった事はされなかった。短い手足に鳥肌が立っている。切断されてなくなった、ある筈のない手足の指先にも力が入っている。右の尻の肉にじんわりと痛みが残り、そこだけ熱い。

 高校時代に拳で殴っても殴っても倒れない軟体的な気持ちの悪い同級生がいた。別の友人から彼が同性愛者である事を聞かされていた。俺はそれを理由に彼を悪魔的な人間だと決めつける事はしなかった。同性愛者が性的な欲望を満たすための性交の仕方など考えてみた事もない人もいるだろう。この問題を素通りして、ゲイに対する曖昧な判断を放置し、警戒しない者がいるならば、同じ男として随分とのんきな男だと思う。彼らに対する同性間の警戒心を持ったって、全く非現実的な空想であるとは言えない。同性に性的な欲望を隠し持つゲイの接触行為に女性同様の行動心理を読むぐらいでは性を歪める事にはならない。ゲイによる強姦だってあるぐらいなのだ。

 俺はこの家に来てから、大の大人がこんなにも涙を流して大丈夫なのかと思う程泣いた。心の健康が心配になってくる。腹を空かした俺はエディーが持ってきた夕食の生の牛肉をぺろりと平らげる。気の遠くなる程長い一日の緊張感が募る。果たして残るは殺されるのみと判断するような最悪の時期が来るのか。俺は最早生きているだけで何の悪さもしていない。イエス様の御心を静かに想う。私は主を呪いかけ、主の底深い愛を思い出す。早く主の御意思に身を委ねたいです。これ以上辛い試練を乗り越える力は残っていません。本当に辛いです。アーメン。


 翌日の七日目の夕方、また小柄の方の男が俺の部屋を覗きにくる。男は暗がりをゆっくりと歩いて俺に近寄り、俺の意識を恐怖で張り詰めさせると、また俺の背中に馬乗りになる。男は俺の体を擽り続ける。もう許して欲しいと願い出す限度を遥かに超える。地獄の苦しみだ。声が出ず、あまりの苦しみに涙を流す。俺は必死の思いで神様に救いを求める。男はからかいたいだけからかって満足すると、黙って部屋を出ていく。俺は漸くほっとして、マークの事を思い出す。俺は独りしゃくり上げるように泣き始める。俺はマークに擽り地獄を経験させて泣かした事があったのだ。今の俺には泣いても声は出ない。俺は泣き疲れるように眠くなる。


 小柄の方の男が毎日のように現れては、俺をからかって遊ぶ。俺は悪戯坊主のクラスメイトに背を向け、隙を作らない少年のように、常に不安の内に生活し、遂には高熱を出して脱水状態に陥る。俺も少年時代は例に漏れず悪戯坊主で、周囲の環境を毎日のように乱し、散々と人々の平和を脅かした。小柄の方の男は俺がエイセックスの看病を受けている最中ですら、隙を見てはからかいに来る。やはり、少年時代に、俺は風邪を引いた病み上がりのクラスメイトが本当に苦しそうに咳をしている側で、怒り出すまで咳を真似てからかった。そのクラスメイトが苛立ちを俺にぶちまけると、俺はあべこべに力ずくで壁に押し遣り、咳き込む彼の頸を手で絞めて泣かした事があった。少年時代の悪さには、学校の授業の休み時間に静かに読書をしている優等生達の頭をボンゴでも叩くように理由もなく叩いて遊んだ事もあった。俺は根本的に自分に降りかかった問題の解決のためには何でもありの人間である。殺人の罪でさえ事よっては犯し兼ねない。使える手段を差し控えて我慢してやってるのに図に乗りやがってという人間に対する不平等な発想がある。こういう身にまでならないと、俺は非暴力だとか無抵抗主義といった思想の言わんとしている意味や趣旨を心から理解する事が出来ないのだ。暴力に関しては今でも完全に捨て去るべき否定的な手段としては捉えていない。俺の現状を見て、ざまあ見ろとほざく者が心に浮かんでは、こんな体になっても相変わらず暴力を振るう想像をする。そんな自分と対等に立ち向かってくる者達を片っ端らから悪人と見做し、心の中で懲らしめている。インド人の老哲学者の先生が当時からこんな事を言っていた。

「お前が一向に改めようとしない暴力という行為によって、お前はきっと身を滅ぼすような惨事を経験するだろう。私は出来得る限りの力を以て、お前に起こる惨事を遠ざけている。お前自身がその拳に頼らずに生きるならば、それで済む事なのにな。いいか、人の苦しみや痛みが判る人間になりなさい。人の苦しみや痛みを自分の苦しみ痛みとしなさい。お前のような者が立派な人間になる事がどれだけ未来の人々に良い影響を与えるか、私は既にお前の未来を見て知っているのだ。私は歯痒い思いをしているのだよ。私は結婚もせず、子もない身だから、お前をお前の実の両親以上に愛している。出来る事なら、お前が受ける業の報いを私が代わりに受けてあげたいくらいだ」 


 部屋の中は嘔吐物や糞尿の異臭で溢れ返っている。エイセックスは小柄の方の男のやっている事を知っているのだろうか。地獄の日々は当然の如く繰り返された。


 二ヶ月程経ち、大分肘の皮が硬くなった。四つん這い状態で長く胴体を浮かしていられるようになった。二、三歩なら歩く事も出来る。その様子を見て、エイセックスらが俺を日中、階下にいさせるようになる。この家にはドクター以外、来客という来客はない。この家にはエイセックスとケヴィンとエディーと小柄の方の世話人の他に、エイセックスとケヴィンの実の父親がいる。あのゴールデン・キャピタル・ホテルの社長だ。キャビン・クルーザーにいる時に目で見比べた限り、ケヴィンは元の俺より五センチメートル程背が低かった。俺が両足を切断される前の身長は一九二センチメートルあった。ケヴィンの父親がケヴィンより頭一つ程大きいところを見ると、二メートルを超える大男であるようだ。エイセックスの身長は一七八センチメートルぐらいだ。エイセックスの父親の髪の色は大分グレイが雑じっている。元はケヴィンやエイセックスと同じブロンドだったのではないか。俺の髪もブロンドである。エイセックスやケヴィンと同じく彼らの父親の眼はブルーで、体は筋肉質だ。ブルー・カラーの人間が高級なスーツで身を包んでいるような印象さえ与える。世界中に支店を持つホテル界の重鎮だけあって、髪の先から爪の先まで清潔感が行き届いている。さすがに足の爪までは見た事がない。本当に寡黙な男で、帰宅すると直ぐに二階に上がっていく。恐らく俺の部屋の向かいの部屋が彼の自室なのだろう。

 エイセックスの父親は上で何処かの清掃員が実際に着ているような黄色のツナギと赤いキャップと白いスニーカーズに着替え、階下に戻ってくる。家の者の前を通る時にエイセックスの父親は赤いキャップを脱ぎ、ケヴィンに向かって、「今日は、旦那様。今日はとても良い天気ですね」と屈託のない笑顔で恭しく挨拶をする。その声は年の割りに太く安定している。

「それでは私は失礼致します。仕事をしなければいけませんので」と言って、エイセックスの父親は直ぐに庭に出る。庭の芝刈りをするためにだ。ケヴィンは調子を合わせて、「ごくろうさん、スミス!」と背中越しに声をかけ、父親が離れていくと、大きな溜息を吐き、「あれでも父親か!恥知らずめ!」と愚痴を零す。スミスとは役名であろう。

 俺は来客が現れる事を心密かに期待している。この密室的な家に来客が現れる様子は一向にない。来客があったら、四つん這いで全力疾走し、何としても監禁されている自分の姿を外部の者の前に晒したい。新聞配達人でも押し売りでも良い。何としても俺の存在を知ってもらいたい。自分の姿を外部の者の前に晒す事は一人の人間に起こった惨劇を伝え、危機的状況から脱出するための・・・・、違うな。この家から脱出する希望を持ち続け・・・・、ううん、本当の事を言うと、俺はもう独りでは生きていく自信も能力もないと判断しているのだ。あの小柄の方の男を何とか自分から遠ざける方法はないものか。俺は何れ天国に行くんだ。神様の元に永くいて、苦しみが癒されるまで眠るような幸せと休息を頂くのだ。ああ、東洋人のように心から生まれ変わりを信じられるものなら、生まれ変わるまでの間、何としても天国にいたい。もう一回新たな人生を得られるなら、この人生を遣り直し、今度は納得のいく人生を精一杯生きたい。声も欲しい。両手も欲しい。そう、両足だって人並みに欲しい。信仰に生きようと努力する事は何て清潔感に満ちた幸せな生活だろう。もっと沢山自分の心の支えとなる真理が欲しい。こんな自分の苦しみや悲しみだけを問題にして生きるのは嫌だ。

 神様は何故私の祈りに答えてくださらないんですか?私には何時でも神様の御告げを受け入れる心の準備が出来ています。アーメン。

 日中、階下にいさせてもらえるようになると、瞑想の時間が確保出来ない。私は腹這いに寝そべり、瞼を閉じてハートに愛を満たすと、讃美歌を二十曲立て続けに歌い、その後、体を静止したまま心を無にする瞑想に入る。日中に長く仮眠を取れば、目覚めも早い。夜中に目を覚ませば、そのまま日の出までの時間を修行に費やせる。


 毎日毎日、あの小柄の方の男が飽きもせずに悪戯を繰り返す。不安や心配は勿論、恐怖すらも感じ続けている。幸い俺のケツの穴を汚いと感じる正常さがある。それで一番恐れる事はされていない。性器に関しても、あの小柄の方の男には他人の性器に触れる事を汚いと感じるような、同性間の正常さがある。靴の先で肛門を擦ってきたり、性器や睾丸を思い切り蹴り上げられたりする。そんな事が毎日続く。体毛を目立たぬように抜いて痛がらせたり、擽って苦しがるのを面白がっているかと思えば、死の恐怖を味合わせる程長く頸を絞める。乳首を抓って、切り離そうとするようなふりをして恐怖を味合わさせたり、爪を剥がすふりをして恐怖を味合わされたりする。怖くて怖くて仕方のない大嫌いな嫌がらせだ。馬乗りになり、両の鼻の孔に上から指を入れて顔を上げさせ、背の反り返った姿勢にして豚鼻になった俺の顔を覗き込んで楽しんだり、耳の穴に指を入れて、外部の音が無音になって、体内の音だけが聞こえる状態の反応を楽しんだり、顔を上げさせて、頸が疲れて頭を下げようとすると、眼に指が突き刺さるような位置に奴の指が用意されている拷問など、要は俺の心と体が日々玩具にされているのだ。暇人!とか、能無し!とか、声が出るなら、何度罵倒している事か!こんなに苦しみを受けていて、悪口一つ言う声も出ない。奴は嫌がらせによって変態的な快楽を味わっているのか。何処となく心の病んだ者が大した意味もなく無抵抗な弱い者を苛めるような陰湿な印象を受ける。どんなに俺がエイセックスに心の中で助けを求めても、エイセックスは一向に助けに来てくれない。エイセックスが世話人の苛めに気づいてくれないのが何より辛い。俺は昔から他人に馴れ馴れしく体に触られるのが大嫌いなのだ。それを何度も何度も限度を超えた辛い目に遭わせられる。何時終わるか何時終わるかと待っていれば、またしても現われて悪戯をされる。人が嫌がる事を止めようとしない苛めの罪をどうにかして無言の内に反省させようとしても、奴は全く止めようとしない。それに耐え抜くには思いの次元で満足がいくまで想像上の仕返しをするしかない。あいつは暗い部屋の電気も点けず、身動きすらはっきりしない空間で俺の心理や感情を散々と弄ぶ。あいつは俺の中に憎しみという邪悪な心を生ませ、日毎その魔の心を俺の中に育て上げては、その化け物の力を利用して俺の心身の全てを醜く変貌させようとしているのだ。心が蝕まれていく後には霊魂すら残らないかのような不安もある。動悸や呼吸の乱れが俺の不安を如実に表わしている。俺は神様の存在を再び思い出すと、神様に救いを求める。神様ばかり呼び続けても、エイセックスが苛めの現場を見つけてくれなければ、何の解決にもならない。また涙が溢れる。俺の過去の行いが業の報いとして返ってきているのだ。俺の少年期の苛めに限度なんてものはなかった。今はその事をはっきりと自覚している。私はしつこ過ぎました。でも、過去の私なら、それは決して自分の力だけでは変われなかったろうと思います。人間を人間とも思わないような非情さで苛めを繰り返していました。それでも私は苛めを止めたんです!止めたんです!絶対に繰り返さない事を主に誓う事は忘れていました。でも、偶然、って言うか、私は全く苛めをしないで何年も過ごしてきました。祈っても祈ってもあの男は私を苦しめにやってきます。私は本当に苦しんでいます。もう、いやっ、とにかく私は主に祈り続けます。主の許しを得るまできっと耐え抜いてみせます。私の苦しみをあなたが理解しない筈はありません。アーメン。

 日中の仮眠で夜中に目を覚ますようになった。瞑想は五分か十分程度しか続かない日もある。ヨーギに瞑想の手解きを受けたい。無我の境地を目指すなら、様々な瞑想の試みを暗中模索し、様々な経験を積めば良い。


 三ヶ月程経ち、エイセックスの監視下で庭に出させてもらえるようになった。庭の奥には森がある。庭から見た限りでは森の奥がどうなっているのかは判らない。まだ庭の反対側の玄関の外も見た事がない。

 何事もなく三ヶ月が過ぎたと思われるのはどうにも我慢ならない。

 物を強請る時以外は犬のようにエイセックスらに服従している。この時期に来ても意外と人間性は失われていない。両手両足を短く切断され、四つん這いで歩く事しか出来ず、その上言葉も話せない。そんな状況から人間性を考えると、動物との境界線があやふやになる。他人には伝えようのなくなった心とか、思考の特異性を尊重するしかないだろう。この心や思考だって動物にない訳ではない。以前俺は、俺は人間なんだ!複雑なんだ!と、人間である事を深く思い込むために心の中で叫んだ。人間の複雑さとは生まれついた環境にでさえ容易に順応出来ないような環境不適応が主立っている。その人間の環境不適応は現在自然環境を破壊し、生態系すら破壊しようとしている。手足を失い、声を出す事も出来ない俺は、野性を失い、自然環境では自分の食べる餌すらも取ってこれない。吠えるだけの飼い犬よりも役に立たない。困難な条件下でも、こうして生きていられるのは幸運だったと言って良いだろう。奴らは本心から俺を犬にする事を望んでいるのか。何のために人間に犬の生活なんかを強いるんだ。奴らは異常だ。そう、奴らは異常なんだ。奴らの事を異常だと言う俺も、行動の際に常に良心に恥じる事のない倫理観を以て人格者の範疇に自分の半生を修めてきた訳ではない。振り返れば、大した事もせずに半生を送ってきた。何度も言うようだが、少年期には弱い者苛めなども憎しみを掻き立てるように繰り返した。殴りたくて手が疼いてくるような衝動に負けてばかりだった。俺は罰が当たったんだ。俺はもう辛いのは嫌なんだ。また涙が溢れる。

 高校時代、御多分に漏れず、俺は少しドラッグをやっていた事は先にも触れた。インド人の老哲学者である師が叱りつけにくるまではかなりヤバイ時もあった。奴らはそんなんじゃない。全くいかれているのだ。極めつけの異常者ってのはクレイジーに暴れ回ってる奴らの事だとばかり思っていた。奴らを知って判った。極めつけの異常者というのは自分が異常者だと判っている。そんな自分を冷静に見つめながら、それでも異常行為をし続ける奴らなのだ。見たところ普通の人間と全く違わない。奴らの化けの皮を剥いだところで、狼の顔なんて出てきやしない。奴らはどこまでも羊のような穏やかな顔をしているのだ。それでも眼だけは誤魔化せやしない。あいつらは悪魔だ。何でただ犬になって欲しいだけなら、そう言ってくれなかったのか。そう言ってくれれば、手足を切断する必要なんかなかったのに・・・・。五体満足の体で犬の生活に徹する事など承諾する訳ないか。殺されてもおかしくなかったんだ。そう思えば、手足を少し短くされただけで済んだのだと神様に感謝しなければいけない。聖書にも、悪に染まった手足なら、執着せずに切り落としてしまえと書いてある。勿論、こんな体にされた事に理由らしき原因もないならば、神様に感謝などしない。良かれ悪しかれ、自分に起きた事の全てを何でも彼でも納得がいかないままに神様への感謝の祈りに代えるのは神への冒涜以外の何物でもない。


 四肢を切断されて意識が戻ってから四ヶ月が経つ。長い時間四つん這い状態でいられるようになった。エイセックスもそんな俺の様子を見計らって、俺を森に連れていくようになった。思ったより立派な森だ。森を行くと小さな湖がある。そこで時間を潰して戻ってくるのが習慣になっている。湖の先にも森は続いている。森の奥へと逃げて、一家の下から脱出するのは至難の業だ。それに俺には常に監視の目があり、一〇〇メートルですら彼らから離れる事は出来ない。玄関の外すら見た事がない。これからはなるべく玄関側にいよう。


 四ヶ月と二週間が経つ。いつものように玄関の前でうろついていると、エイセックスの父親がドアーを開けて入ってくる。束の間外が見えた。五十メートル程先に大邸宅が建ち並んでいた。丁度この家から舗装された道路が真っ直ぐに伸びているようだった。この家より奥には民家はないのか。あの大邸宅に逃げ込めば救出されるのか。試してみる価値はある。換気は空調で全て行っている。玄関から外に出るチャンスはない。エイセックスの父親が会社の行き帰りにドアーを開ける事はある。その機会に俺が外に出られる程長くドアーが開いている事はない。金持ちの生活は余り知らないけれど、映画に出てくる金持ちとは違って、エイセックスの父親は自分でドアーを開け閉めする。それにほとんどこの家には帰宅しない。普段は何処か別の家に住んでいるのだろう。来客を待つしかない。俺は毎日犬のように怠惰な生活を送りながらも、絶えず脱出する機会を窺っている。

 瞑想は居眠りの繰り返しだ。眠りに落ちるギリギリのところで覚醒した意識を保ちたい。


 半年を越えても来客はない。エイセックスもケヴィンも外出する兆しはない。

 俺は一階のリヴィング・ルームでよくケヴィンの観ているTVを側で一緒に観ている。別に彼らはそれを咎めたりはしない。笑い声も出ないし、見た目には犬と何ら変わるところがないからだろう。TVを観ていると気が紛れて良い。


 或日、一階のTVの前のソファーに並んで座っていたエイセックスとケヴィンが長い濃厚なキッスを交わし始める。彼らの性的な関係を目の当たりにした俺はただ呆然と二人を見上げている。俺は彼らの自由感と言うものが頭の中だけで成り立つものではない事を思い知る。俺も一度は彼女に惚れた事のある男だ。不思議な事に今でも彼女の美しさを否定出来ないでいる。俺の肢体切断に彼女が直接手を下した訳ではない事が大きな原因になっている。何を見ても彼女に限ってはと、俺の中の彼女との思い出は敢えて穢さないようにしている。何時の日か俺が自由の身になったら、彼女は俺に犬扱いした事を詫び、また俺を愛する事もあろう。その時には俺はもう彼女を恋愛対象としては見ていないだろう。もう復讐を思って生きるつもりもない。


 この頃、抜け毛が目立って多くなってきた。髪と髭は伸び放題だ。頭を振ると俺のブロンドの髪の束が赤いカーペットの上にバサバサと纏まって落ちる。原爆の放射能の被害を受けた日本人の写真を見た事がある。そんな感じの頭のように、ところどころ地肌が見え隠れしている。髪だけではない。脱毛症に罹ったようなのだ。恐らく、精神的なストレスから来る異変だろう。姿見の前でそんな自分を見ていると、涙が溢れてくる。眉毛までなくなりかけている。最初の頃に比べると、髪を大切にする気持ちが強くなってきた。故意に頭を振るような事もしなくなった。寧ろ、髪を庇うような生活になってきている。体を振動させるような事も極力避けている。エイセックスは俺の抜け毛を心配して医者を呼ぶ。

「彼は心因性脱毛症に罹ったようですなあ。長い事身体障害にも悩んだんでしょう」と医者は言い、「散歩には毎日連れて行ってますか?」と真顔でエイセックスに訊く。エイセックスはエイセックスでこれもまた真顔で、「はい、連れていってます。彼が散歩が好きなので」と答える。

「オー・ボーイ!あなたにはこの部屋が狭いの?」とエイセックスが俺を見下ろし、俺の眼の奥を深く見つめるようにして訊く。俺はエイセックスがケヴィンとキッスをしていた事で再び彼女を警戒し、言葉の通じない犬のように無反応な眼で彼女の眼を見つめる。

「ドクターはどう思われますか?」とエイセックスは医者に尋ねる。

「彼にはとても広い部屋だと思いますよ。あなたはもっと長く彼を散歩に連れていくべきだ。それでは今日はこの辺で失礼致します」と医者は言って、早々に帰っていく。


 七ヶ月目にして、頭髪を初めとする全ての毛がなくなった。エイセックスは俺の産毛すらない肌を優しく撫ぜながら、「オー・ギルバート!何て可愛そうなの!」と言う。毛がなくなってからと言うもの、小柄の方の男は全く俺の部屋を訪れなくなった。他人からしてみれば、丸坊主で眉毛も睫毛もない顔はきっと恐ろしい顔なのだろう。小柄の方の男を追い払えるなら、自分としては安心していられる。四つん這いの生活をしている内に肩の筋肉が異常に発達し、体中が筋肉質になった。それも気に入っている。生肉だけは好きになれない。BBQなどと比べる気は毛頭ない。浮かべる事すら気をつけている。

 瞑想は居眠りから先には全く進歩がない。何度か目の前に白光や鮮やかな色の光が表われた。一〇代の頃にも早朝に起きて瞑想を実践していた。当時は気が短く、落ち着きがなくて、修行は長続きしなかった。毎日、絶えずイエス様を想い、休み休みイエス様に讃美歌を捧げるようになった。自分が歌う讃美歌のCDを販売したり、ローマ法王の前で讃美歌を披露する事を夢見ている事がある。


 八ヶ月目の或日、俺は脱出か来客の訪れかの何れかに賭け、それとなくエイセックスとケヴィンと一緒にTVを観ている。

「お隣のミセス・グラントがおいでになりました。ミセス・グラントにお会いになりますか?」とエディーが伝えにくる。エイセックスはエディーに、「勿論よ。フランキー?ギルバートを二階のベッドルームに連れていってくれる?」と静かに指示を出す。俺はこの時、小柄の方の男がフランキーと言う名であるのを初めて知る。フランキーは俺を抱き抱えて二階に連れていこうとする。俺はフランキーに抱き抱えられた状態で必死にもがき、抵抗する。フランキーは暴れる俺を抱え切れず、俺をカーペットの上に落としてしまう。俺は全力で客人へと向かっていき、フランキーが必死で取り押さえようとするのに只管抵抗する。俺はリヴィング・ルームに来た来客の胸に救いを求めて飛び込む。ミセス・グラントは思わず悲鳴を上げる。それに気づいたミセス・グラントの世話人が急いで俺を夫人から引き離す。エイセックスが俺を、「大人しくしていなさい、ギルバート!」と叱りつける。フランキーは俺の体を柔らかく厚みのある白い毛のカーペットに押さえ込む。

「どうもすみません、ミセス・グラント。彼、まだお客様に慣れていないんですの」とエイセックス。

「そんなにお気になさらないで。一寸、びっくりしただけですのよ。スチュワート?彼も自由にしてあげて」とミセス・グラントが世話人に言う。ミセス・グラントの世話人は夫人の言いつけに従い、自分の立っている左隣に置かれた巨大なジュラルミン・ケイスを開ける。ジュラルミン・ケイスの中からゆっくりと両手両足を膝と肘の先の中途から切断された黒人の男が出てくる。喉元には俺と同じ手術の痕がある。その黒人はジュラルミン・ケイスから出てくるなり、やっと出してもらえた事を喜び、赤ん坊のように口を開けて無邪気な笑顔を見せる。俺は絶望的な気持ちになり、がっくりと項垂れる。フランキーは俺の体を押さえつけた腕の力を弱める。

「元気な子ねえ」とミセス・グラントが俺の頭を撫ぜながら言う。「そうなんです。彼は普段とても良い子なの。奥さんの坊やも良い子ね」とエイセックス。

「ええ、そうよ。彼は私の大親友なの。彼、お散歩が大好きなの」とミセス・グラント。

「彼、何て言うお名前なの?」とエイセックス。

「ボビーよ」とミセス・グラントは言って、ボビーの頭を撫ぜる。

ボビーは心持ち微笑する。俺はその屈託のない微笑を見ていると、現状をただ否定的に捉えるだけの自分の現実観を改めさせられる。ボビーには安定した存在感の重みを感じる。ボビーの在り方から希望ある現実に気づかされる。俺はきっと心の弱い人間なんだろう。いっその事死んでしまおうか。いいや、何ともくだらない事を考えたものだ。自殺して何になる。自分に降りかかってくる物事がまだあるのだ。人生の物語を訳もなく中途で途絶えさせるのか。こんな人生に何の意味がある。これまで努力して得てきた事が全て無駄に終わってしまうではないか。

「お座りになって」とエイセックスが緑の牛革のソファーを手で示し、ミセス・グラントに席を勧める。

 ボビーが微笑みながら俺に近づく。俺は心に人種差別的な蟠りを残しながらも、何とか微笑み返そうとする。俺の全身の筋肉が余りの動揺に硬直する。俺は有色人種の中でも黒人に対する差別意識だけはどうにも解消出来ずにいる。別の言い方をすれば、典型的な白人のまま、こんな年にまでなってしまったのだ。偏見どころか、黒人が白人に意見し、反論する、言論の自由さえ認めていないのだ。俺にとっての博愛精神とは、『どんな民族であろうと選ばれた民族には違いないんだ』と選民思想を異教徒に平たく説明するジューウィッシュの友愛精神に似ている。黒人が一流の人種になるためには、他でもない、君自身が自分達民族の文化を高め、世界や人類を平和な希望ある未来へと引っ張って行く時代の象徴となり、歴史を変えていく努力をしなければいけないんだ。そんな大層な考えは持っていないと君は言うかもしれない。しかし、それでは君達の歴史は変わっていかないのだな。我々白人の歴史を見たまえ!我々白人は歴史を築く存在と自分が無関係な存在であるなどとは、どの時代にも誰一人思ってはいない。我々からもっともっと多くの事を学びなさいと、俺が独りぼんやりし出す時には、いつもこんな風に黒人達を浮かべ、教授している。白人としての権利なんて事を主張し兼ねないどころか、白人種としての自分達には常に自信を持って黒人達を育てていく義務があるだなんて事を一〇代の後半から二〇代の初め頃には大真面目に友人に語っていた。そこに偶然黒人が一人でも現われようものなら、俺は眼を輝かせてその黒人を見つめ、恰も噛みつかないように躾された獣の動きを半分不安な気持ちで見守るようにして、白人としての友愛精神を示した。音楽やスポーツにおける黒人の活躍にも、東洋人の精神性に対する尊敬の念のようには、自分の中にも相通ずる精神があるとは積極的に思いたがらなかった。腕力では自分に敵わないような者が自分を批判したり、馬鹿にしたり、仲間外れにしたり、態度や言葉で苛めに出ると、心が折れる程の異常な暴力で屈服させる事がよくあった。

 俺の眼が動かなくなった。俺は動かなくなった眼で視界に入ったボビーを隅々まで見る。この現実を受け止める事が如何に困難な事か!俺は瞳孔の機能の働かなくなった眼に苦戦する。ボビーを見ようとすればする程視界がぼやける。俺はこの心的視覚障害に不安を覚える。ショックから心を守り切れない時に、身体機能に障害が生じるのを初めて知る。この身体を自分の城のように自己管理するには注意力が多く欠けていた。己の気力の強さに匹敵すると考えていた五感を、もっと労るような一体視によって、大切にする必要性がある事に気づく。鍛えれば強化されていく筋肉との関係においても、この事を応用して研究しなければならない。

「彼、脱毛症に罹ってるの」とエイセックスが俺の頭を撫ぜながら言う。

「オー・ボーイ!可愛そうに!散歩にはちゃんと連れていっていらっしゃいます?脱毛症は大概犬の場合もストレスから来るのよ。ボビーも以前円形脱毛症に罹ったの。今は別に何も患ってないんですけどね。飼い主はペットの発情期にはペットの性欲も満足させてあげなければいけないの。おちんちんを手でマッサージしてあげたりね。ペットって扱いが大変なのよね。人間は動物の飼い主になるからには、その責任から決して逃れられないのよ」とミセス・グラントが満足げに腕を広げて語る。

 俺のいる環境が俺の人権を完全に剥奪した条件下にあるのを思い知る。悲しいのはここが俺の生まれ育ったユナイテッド・ステイツの中だって事だ。幸せな人生の選択がこのハンディーキャップを負って以来、人間として生きるか、犬として生きるかの二者択一となった。世界を見渡すような広い世界観など、奇跡でも起こらぬ限り持てそうもない。俺の中に迫りつつある問題は犬のような人間になるか、人間のような犬になるかではない。犬になるか、人間になるかのどちらかを選ばねばならないのだ。これでも生きるための選択肢なのか。地獄の炎天下で永久に喉の渇きに苦しむ事を言い渡された運命の日のようじゃないか!俺の地獄は本当の地獄のように出口のない異界なのか。叫び声も出なければ、発狂すら気づかれない。死にたくない。犬になりそうな不安で一杯だ。俺が人間であり続けるためには、とにかくここから逃げなくてはならない。ボビーと一緒にいても、声が出ないから何も話せない。どうせ誰かを宛がってくれるなら、本当の犬と暮らしたい。俺を見つめたり、甞めてきたりしてくれる、本当の犬の愛が欲しい。そうなったら、俺は余す事なく人間の究極的な信頼をその犬に寄せるだろう。どうして助けてくれと訴える事すら出来ない救いのない世界で生きていかれよう。俺は働くという事が人間の生き甲斐である事を再認識する。俺はまだ働ける。道具同然に人権すら認められずに監禁された生活など労働でも奉仕でもない。この苦しみが何人への救いになると言うのか!どうしてボビーは黒人なんだ!どうしてボビーはそんなに一方的に友愛精神を貫くんだ!苦しいんだよ!どうして君はそんなに微笑ましいんだ!俺は奴らと同じ白人なんだぞ!この苦しみから微笑み以外で救ってくれよ!今の俺には神が必要なんだ!今、神が現われてくれなければ、苦しいのは俺なんだ!俺を哀れむ神をくれ!君に訊きたい事は山程ある。俺は今の自分の絶望的な心境を君には眼で訴える事ぐらいしか出来ない。ボビーはずっと俺に微笑み続ける。そんな微笑みは何の役にも立たないんだよ!おい!俺の心の声が聞えないのか!涙が溢れて止まらない。その微笑みは一体何なんだ!

「ミセス・ジャクソンは彼女のワンちゃんのために男の子の犬が必要なの。彼女のワンちゃんは女の子なんですものね。ボビーはもう直ぐ父親になるのよ」とミセス・グラント。

 こいつらは皆狂ってる!女までいるのか!ボビー、お前はその女の犠牲者を宛がわれる喜びを伝えようとしていたのか?今直ぐ逃げなくてはいけない!外に出る事の出来ないこの肉体の中の意識は、いつかきっと彼らの穢れた手に鷲摑みされるだろう。肉体が亀の甲羅のように感じられる。もっと奥に、もっと奥に逃げないと・・・・。俺は心を通した眼であり、思考の管理者だ。打ち沈む心が外界へと通じる窓を閉じたら、俺は外界との五感を全て失うだろう。逃げる事を思わず、こんな思いで生きるぐらいなら、いっそそうなった方が幸せなような気がする。ボビーは微笑むしかないとばかりに、ずっと俺に微笑みかける。何か達観したようなところがある。俺も何れそうなるのか。俺が達観出来ないのは諦めがつかないからだろう。俺に一体何を諦めさせようとしてるんだ。全ては奴らの快楽のために犠牲になった苦悩じゃないか!肉体的なハンディーキャップを認める事なく、俺は叶わぬ自由を求めているのか。彼らの許から離れても、もうこのハンディーキャップは変わらないんだぞ。この俺に何が出来る。俺はエイセックスを含む加害者らにこれまで以上の不信感を抱いている。己の身勝手な欲望のために、いとも簡単に健康な人間の肢体を切断するような奴らだ。生かすも殺すも彼らの気分次第と言う訳だ。奴らに不信感を持つのは当然の事だ。


 エイセックスは毎日俺を風呂に入れ、体を洗ってくれる。自慰行為が自分で出来ない代わりに、俺はエイセックスの手による世話を受けている。こんなに優しい女がと、また肢体を切断された事を突き詰めて考える。エイセックスのような女は倫理観の欠落により、優しさと残酷さの境が乱れているのだ。彼女の何が残酷と感じるのか。それさえもはっきりとは判らない。逆に彼女の事をただ優しいとばかり思う者もいないだろう。エイセックスの意思そのものが定かでない。それは明らかな事実だ。エイセックスは恐らく罪の意識すら持っていないだろう。彼らはタブーのない完全なる自由と権力を富豪間の結託によって得ている。誰が何時どのようにこの結託を上流社会の一部で意思し、作り上げたのかは判らない。正直なところ、自然発生的な集団とは思えない。悪魔崇拝的な指導者、影の支配者、悪魔教の教祖のような存在を背後に浮かべずにはいられない。妙に生活環境が密室的で、それでいて静けさや心のゆとりさえ感じられる。世の中の事には際限なく通じていられるのに、彼らが俺を監禁虐待している事に関しては、本当の外部には何処にも伝わらない。俺がここから逃げたら彼らは追うのか。逃げた俺を捕まえたら殺すのか。それさえも判らない。そもそも俺は彼らの監視体制に対して、ただの一度も大きな賭けに出た例がない。この家、この環境の全てが不自然なのだ。俺がここに安住するも、脱出するも、俺の意思次第でどちらにも転がれるように思う。

 神は罪を悔い改めた者を更に罰する事はない。人間は自分の犯した罪に対して罰される事を恐れる。罪を罰されずして人間が神になる事などあろうか。

 多分、エセックスは俺の命を玩具にもしていないだろう。犬人間を飼うのは恐らく一部の上流社会の流行で、グループ内では罪の意識すら持たないでいられるのだろう。そういう暗黙の了解が出来上がっているに違いない。ミセス・グラントの話しぶりからもそれは察せられた。もし言葉が話せたとしても、俺は彼らを自分だけの力では更正させる事は出来ないだろう。

 時の経過は階下にあるカレンダーでも確認している。

 時々俺のアパートメントや車はどうなったろうと考える。捜索願いは出ているのか。父親は十年前に他界している。母親ともそれ以来十年近く会っていない。俺は行方不明を心配する者がいなくなる程、一切の旧知への連絡を絶ち、捜索願いを出す理由すら見つからないくらい、自由気儘な生活を選び、仲間の許を離れて暮らしていた。もう誰も向こうから俺の消息を突き止める事は出来ないのだろうか。


 ボビーはあの日以来、定期的にミセス・グラントに連れられて会いにくる。彼はいつもその顔に満遍なく笑みを浮かべ、現実を受け入れ、悲しみや不満で顔色を曇らせるような事はない。ボビーが来る時は必ず世話人が持ってきたジュラルミン・ケイスの中から現われる。ジュラルミン・ケイスの中から出てくる時のボビーの笑顔はいつも俺を楽しい気持ちにさせる。唯一の友であるのにこんな事を言うのは憚られるのだが、少しおつむが弱いのではなかろうか。彼の態度は余りにも自然だ。肢体が切断されているとは思えない程、四つん這いが身についている。俺もやがてああなるのだろうか。ホームレスの生活から犬人間の生活に入ったのだとしたら、ボビーの満足げな笑みも満更理解出来なくもない。東部での冬の路上生活は本当に寒くて辛いものらしい。いやっ、まだボビーがホームレスであったと決まった訳ではない。そう言えば、此間、ミセス・グラントは女の犬人間とボビーをセックスさせると言っていた。彼の苦しみを思えば、至れり尽くせりの心配りだ。


 俺の脱毛症を気にしてか、毎日エイセックスが俺の膀胱を擦ってくれるようになった。庭の芝生の上でそうされた時には、興奮してエイセックスを押し倒す事もある。そんな時、エイセックスはキャッキャッとはしゃいでは俺を抱き締め、芝生の上を転げ回って戯れる。エイセックスはよく「私のギルバート!」と言っては、俺の唇にキッスをする。そんな風にエイセックスにキッスをされると、俺は束の間甘い気分に浸る。エイセックスが俺を犬だと思って接している事を考えると、深く鬱した気分に陥る。判ってはいても、エイセックスといると何時の間にか甘い気分になる。それを拒む心の壁をエイセックスはいとも簡単に乗り越えてくる。エイセックスの時折垣間見せる少女のような溌剌さにはいつも魅入られてしまう。本心を曝け出すと、実は犬の気持ちが判るような気がしている。ボビーも同じような経過を辿って、あそこまで犬に徹するようになったのではないだろうか。生きる事が罪深い事だとしたら、何かの命や苦しみを犠牲にして日々を生きているからだろう。罪を重ねた歴史の深まりこそがこれ程の犠牲を餌にした贅沢な生き方を人間に可能足らしめさせたのだろう。人生の密度、つまり、経験し、努力し、追求し、成就する事に関して、こんなにも間延びした贅肉だらけの人生は原初からのものではないだろう。成長や反省のない人生は疑いようもなく罪である。人が希望を失うまでの不幸の程度は人それぞれ違う。違うだろうと思う。いやっ、何故違うと見做すのだろう。

『人の苦しみや痛みが判る人間になりなさい。人の苦しみや痛みを自分の苦しみ痛みとしなさい』とインド人の老哲学者の言葉が繰り返し思い出される。刑罰、賠償金、日給・・・・、数、重さ・・・・、障害、事故、なるほどなあ、言葉とか音楽とか、方程式、法則性、どうかなあ・・・・、自分の苦しみや痛みを特別に辛い事とするのは誰しも同じだろう。人は他者に何を理解されたいのか。嘆いたり、悩みを打ち明けたり、信頼したり、友情を誓い合ったり・・・・。人間が真に判り合う事なんて果たしてあるのだろうか。どうして一人の人に執着し、一人の同じ人間からの変わらぬ愛を求め、永遠の愛を誓い合うのか。俺は師から『社会や困っている人々に奉仕しなさい』と教えを受けた。神は人間をどうしたいのだろう。自分が人間であるばかりに苦しいのに、その問題は解決してくれない。『社会や困っている人々に奉仕しなさい』だなんて、先生もよく言うなあ。ここに苦しんでいる人間が一人いるんですよ!

 神への道にはやはり試練があるんだな。俺は神の愛の炎の中で溶けて消えてしまうのか。俺の何が神の愛以上に価値があるのか。心とか人格を高める事は人間に生まれる人生には永遠に繰り返される事だな。全ての人間が愛や真理や正義の事だけを考えてる訳じゃないだろう。ポップスやロックの歌詞はどうだ。小説や映画は・・・・。いやあ、参ったな!宇宙の創造は愛し合うために始まったのか。確かに人は愛し合いのだろう。愛の対象が生まれれば、愛は愛し、結局は愛し合う事になる。一人の男を十人の女が愛し、一人の女を十人の男が愛する現実なんて、人間の個性を心から認めるように促す事とは全く逆の事を言い当てている。そういう偏りは実に人間的で、動物的ですらある。つまり人間の愛は・・・・『社会や困っている人々に奉仕しなさい』だって!東洋人の師に持ったから言うのではないけれど、俺は日本人を最も自己犠牲を理解する民族だと思っている。サムライにしたって、カミカゼにしたって、ヒロシマやナガサキの原爆や、ミシマにしても、世界は彼らを愛するが故に悲劇をも同時に味合わせてしまう。日本人ってのはとにかく真面目で、付き合うと不満をぶつけてみたくなり、独占したくなる愛すべき民族だ。彼らは自分達を神だとか仏だとかと信じる思いがとても強い民族でもある。日本は世界史を通じた国際的な戦争においては、何処となく支離滅裂で、猛烈な民族である事を世界中に印象づけた。少なくとも聖書に関係する世界の戦争の実態に関しては、全くと言って良い程無関係だ。一方、日本人は個人の業績ながら、多くの強烈な偉人達を生み、世界の歴史に多くの日本人の名が刻まれた。二〇世紀後半以後ともなれば、企業から学問、芸術やスポーツと、ありとあらゆる分野に日本人の目覚しい活躍が目を惹くようになる。

 俺には生きようとする強い意思がある。絶望の闇の中にあっても、心の奥には眩いばかりに光り輝く潜在能力があると信じている。その中には活気に満ちたエナジーのような何かが静かに眠っている。それが俺の生命力になっているとさえ感じる。インド人の老哲学者から彼の研究している哲学を優しく単純化した形で一杯聞かせてもらった。全てを憶えている訳ではない。いや、きっと全てを憶えているのだろう。

 我が師であるインド人の老哲学者は言った。

『人間には父なる神に対する永遠の関心がある。全てにおいて肯定的な実在とされる神への信仰に生きてこそ、人生の真の意義を見出す鍵も見つかるのだ。

 世界は皆で発展させるためにただ一つあるだけだ。人間はこの世界に繰り返し生まれ変わるだけでなく、使命感を以て生きる人生に早く目覚めねばならない。自我の目覚めというものだ。愚か者程世界の宗教や法を変えたがる。何故自分がこの世に生まれ生じたのかを追求する人生論への取り組みは、十分に自分を社会に機能させて生きるにはまだ人間として経験の浅い、智慧も技術も資格もなく、義務を拒み、社会的な責任を無視し、反抗心すら残したままで、自在に才能を発揮する能力も開花されていないような、極めて若く未熟な時期に始めてしまうものだ。長く解決されないその問題への不満が若い頃の読書の中に厭世主義者や悪魔主義者や虚無主義者や死にたい病を患ったような者の本などを招き入れる。人間は他者と相互に影響し合って存在する生き物だ。物と心にも密接な関係がある。心に悪影響を及ぼす世俗の文学によって、感傷に耽る癖を持つようになったり、孤独や苦しみを嘆く詩を読んでいる内に、遂にはそこから抜け出せなくなる程飲み込まれ、その結果心を病む。病んでしまった心に苦しみ、死にたい病を患うようになるのは文学の齎す病の面として現代ではお決まりの結果になりつつある。幼心に遊びこそが心に満足を与える行為であると思い込み、一回しかない人生だからと、遊んで遊んで遊び捲くってやろうという発想は本当に底浅で愚かしい人生観だ。子供の頃の発想のまま社会人になると、よくそういった勘違い人生を歩む。それは仕事や奉仕活動や修行に何時まで経っても魅力を感じられない非常に幼い自由観が原因となっている。

 若い人の宗教批判程自己矛盾した考えはない。神仏の尊さが判る内ならまだ手の施しようもある。若い人には恰好をつけるという事が人間的な深みを意味する事もある。そんな事はないと鸚鵡返しに反論する者程この事が実にぴったりと当て嵌まっている。自分はこういう人間ですと大人が言う時には完成された思想の体現者としての自分を意味する。さもなければ、主義を除けた自分の在りの儘の過去を厳しく自己分析してから打ち明ける。若い人には自分で自分を不利な立場へと追い込むような真の自己分析は出来ない。一つには損得の価値観が強くあり、在りの儘の自分を知る事で自己嫌悪にまで陥るようになる事を自分の成長のために突き詰められないからだ。あなたは素晴らしい人です。あなたの言葉を聞いて幸せになりました。今度何処かで御馳走させてください。食べる事に興味がないのでしたらお金を受け取ってください。それで好きな物でも買ってください。こう言われた時に、在りのままの自分、自分の言葉の質や出所、こう言ったものをしっかりとした価値観で認識し、自覚する大人なら、食事に招かれるのも、お金を受け取る事も、きっと遠慮するに違いない。言行一致していない言葉とか、経験に因らぬ思いやりのない思い付きだとか、または日頃の思い付きを頭の中で纏め上げていた事をたまたま切っかけを得て溢れるままに語っただけの言葉に、物やお金など受け取れないのが大人だ。若い人にはそういう判断力もない。好い加減若い人と判断される範疇には入らない年齢になっても、経験や知性が十分に備わっていないような大人達はまだまだ若いと見做される。老人の話し振りや落ち着きや仕種を若い人に真似るように言っている訳ではない。大人が肯定的に人を若いと表現する時は、疲れ知らずで、吸収が早く、柔軟な心を持ち、何をするにも億劫がらず、面倒臭がらず、目上の人の助言を素直に受け入れ、意欲的で、見た目にも軽快そうな逞しい体付きをし、良心に従う道徳心があり、元気に溢れている事などが例に挙げられる』

 俺はそのインド人の老哲学者の話に刺激され、早く一人前の大人になりたいと思った。当時、その話を聞いた時の印象として、俺には働く人間で溢れ返るオフィスの様子が何度も浮かんだ。この世界に生きるには神様に生き方を倣う必要性がある。或条件下で人々や社会に役立つ仕事を毎日こなす社会人である事がどれだけ自分を一人前の人間として満足させる事か。それを半人前の子供に判らせるのはとても難しい事だ。何か俺、エイセックスやケヴィンに言われた事をまだ根に持ってるのかな・・・・。

 今のこの生活には一体何の意味があるのだろう。俺は毎日脱出の機会を窺っている。俺が脱出したら、アメリカ中の犬人間達を全部救い出してやる。余計なお世話だろうか。もう俺を含む全ての犬人間達は自分一人では生きていけない。生活力は野良犬以下で、自然界に対して出来る事は喰われるのを待つのみ。犬人間とて食べ物としてはまだまだ無害である。そうか!名案が浮かんだぞ!先ずは寝る時に二階に戻される事に抵抗してやろう。夜中になって皆が寝静まったら、窓からそっと外に出て逃げるんだ。ここは比較的一年中気温が高い。南の方だろうと思う。素っ裸でも凍えるような事はないだろう。休み休み進んでも、かなりの距離を進める。湖の先を行くか、玄関の方に回って舗装道路を行くか・・・・。一か八かだ。舗装道路の方に進んでみよう。肘や膝も四つん這いの生活をしている内に皮膚が大分堅くなってきた。たとえ血だらけになっても、全てを賭けて逃げ延びれば、俺はもう助かるんだ。この辺一帯は恐らく高級住宅地で、それぞれが犬人間の存在を知っていながら隠しているのかもしれない。油断は出来ない。人間を見かけても、この界隈を脱するまでは近づかない事だ。俺がいなくなったのを知っても、エイセックス達はそれを大っぴらには出来ないだろう。

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