Ⅴ 晩餐(1)

「――ああ、いらっしゃい!」


 ガチャンと小気味よい音を立てて店のドアを開けると、中からは聞き慣れた店主の愛想良い声が聞こえてくる。


 ここ二晩は例の一件で訪れることができなかったし、その前の晩にも来てはいなかったので、なにか久しぶりにこの店に来られたような観もあって、主の声がやけに懐かしく感じる。


「やあ、伯爵、こんばんわ」


「これは伯爵さま。今夜は清々しく、爽やかな夜で」


 店に足を踏み入れた私に、ビールやらワインやらを飲んで騒いでいた馴染みの者達が口々に親しく声をかけてくる。


 主の声同様、ずいぶん懐かしく感じられるが、それはここを訪れた時には常に遭遇する、見慣れたいつもの風景である。


「ああ。散歩するには気分のよい夜だね」


 そんな顔馴染み達の声に挨拶を返しながら、私はいつも使っている店の一番奥にあるテーブルへと向い、ごくごく自然な動作で席に着く。特に取り決めたわけでもないのだが、その場所は暗黙の了解の内に私専用の特等席となっているのだ。


 ここは麓の街にある酒場〝デアルグ・デュ〟。それほど大きくはないが、地酒と旨い郷土料理を出してくれる、地元では知る人ぞ知る、隠れた名店である。


 店主の話によると、店の名の〝デアルグ・デュ〟というのは、なんでもケルト人に伝わる妖精の名で、意味は〝赤い血を吸う者〟。美しい女性の姿で男を誘惑しては餌食にする恐ろしい妖精なのだという。


 奇遇にもヴァンパイアである私にはお似合いの名前だが、それにしてもなんでまた、主はそんな恐ろしげな名を自分の店に付けたんだか……。


 まあ、それはともかくとして、私は城を出て山道を下った所にある街まで来ると、すっかり常連となっているこの酒屋へ入ったのであった。


 ちなみに言っておくと、城からここまでは馬車などは使わず徒歩で来た。


 多少の距離はあるが、やはり私はヴァンパイアなので、普通の人間よりも足腰は強い。ただ、まかりなりにも一城を持つ貴族として、いつも移動が一人で徒歩というのもどうかなあ?とは、たまに思う。


 とはいえ、馬車を使うには馬を扱う馭者ぎょしゃがいるし、独り暮らしで馬の世話や馬車の手入れをするのも大変だ。やっぱり、本気で使用人を雇うことを考えたほうがいいだろうか?


 ああ、これも誤解のないように言っておくが、ヴァンパイアだからって、巷で言われているように、狼とか、コウモリとか、そうした何か動物に変身できるわけではない。霧に姿を変えられるなんてことも無論できない。


 コウモリや霧に姿を変えられれば、空が飛べるのでさぞかし移動が楽であろうが……できるものなら変身してみたいものだ。


「あら、伯爵。ここのとこお見えにならなかったじゃない?」


 席に着き、そんなことをつらつらと考えていると、近付いてきたうら若い女性給仕ウエイトレスが私に声をかけた。


 雪のように白い肌に、長く美しいブロンドの髪。そして、サファイアのように青く澄んだ瞳の色をした彼女の名はカミーラ。この店の主の娘にして、〝デアルグ・デュ〟の看板娘である。


 頭が禿げあがり、でっぷりとビールっ腹の出たメタボな父親からは想像できないくらい、タイトな紅いドレスと白いエプロンに包まれたその娘の肉体は、細身ながらも大きな胸に、腰元のくびれた素晴らしいプロポーションをしている。


 この店が繁盛している理由としては、看板娘である彼女の美貌のおかげという所も大きい。


 とすると、毎夜、男達を彼女の美しさで誘惑し、こうして飲み食いさせて金を巻き上げるこの店の名が〝デアルグ・デュ〟であるのは、ある意味、相応しいのかもしれない。


 その妖精デアルグ・デュのように艶めかしい色気を放つカミーラの方を向いて、私は笑顔で答えた。


「すまないね、カミーラ。ここ数日、何かと取り込んでいたものでね」


「あら、そうなの? あたしはてっきり、他の店に鞍替えしたのかと思ったわ」


 赤く熟した果実のような瑞々しい唇を動かして、カミーラが嫌味ったらしく言う。


「まさか。君ほどに美しい女性のいる店は、残念ながら他にこの街にはないんでね」


 彼女のガラス玉のように透き通った瞳を見つめ、私も冗談めかして答える。


「それはどうもありがとう。でも、そんなに煽ててもなんにも出ませんからね」


 私の言葉にカミーラは澄ました顔で、しかし口元に微かな笑みを浮かべて返す。


 〝ここのところ〟と言っても、店に顔を出さなかったのは三夜ほどだ。


 普段からそのくらい空けることはよくある。それに、彼女はそのくらいのことで怒るような女性ではない。嫌味っぽく言ってはいるが、何も本気で怒っているわけではないのだ。


 彼女の方でも、そうした真意を私が理解してくれるものと知ってて、そんな冗談を言ってくるのである。


 やはり、なんだかひどく久し振りに交わしたように感じる彼女との他愛のない会話に、私はこの上なく心地良い、心の安らぎを覚えていた。


 冗談でも〝美しい〟と言われて嬉しいはずなのに、その感情を隠して、必死に澄まし顔を作ろうとしている彼女がなんとも可愛らしく思われる……。


 そして、あのたわわに実った豊満な胸に、襟元から伸びる白くてほっそりとした美しい首筋。


 ああ、今すぐにでも、あの美味しそうな首にかぶりつき、私の鋭く尖った牙を柔肌へと突き立てて、彼女の蕩けるような熱い生き血を思う存分に吸い尽くしたい……


 おおっと。ジュル…私としたことがついつい不埒な妄想に走ってしまった。


 ちょっと言訳がましいが、ヴァンパイアというものは時折、性欲と食欲の区別がつかなくなってしまう生き物なのだ。


 ま、ここまで恥も外聞もなく本心を曝け出した心の呟きの中で、今更もう隠すこともあるまい。


 そう……私は、彼女を愛しているのだ。


 まだ私の勝手な片思いであり、告白も何もしてはいないのであるが、普段から話をするに、どうやら彼女も私を嫌ってはいないように思う。


 きっとカミーラとならば、永遠にも似た終世、二人で幸せに暮らしていけるような気がする。


 そんな風に考えてしまうのは、果たして、バカな男のただの思い込みであろうか?


 しかし、この思いを遂げるには、一つ、越えなければならない大きな障害がある……。


 それは即ち、私はヴァンパイアであっても、彼女は人間・・だということだ。


 無論、彼女には私が人間ではなく、本当はヴァンパイアであることを言ってはいない。


 もしも彼女を終生のパートナーとして添い遂げるならば、そのこともちゃんと告白し、そればかりか、彼女もヴァンパイアにせねばなるまい……。


 カミーラは、こう見えて心の広い女性だ。しかし、そんな心の広い彼女でも、果たして、私の真実の姿を受け入れてくれるだろうか?


 彼女の恋愛的気持ち云々というだけでなく、そうした種族をも又にかけた大問題に、私はいまだ、いろいろな意味で・・・・・・・・彼女に告白できずにいる。


「――くしゃく? 伯爵? ちょっと聞いてます?」


「…ん!? ……あ、ああ、聞いてるよ」


 カミーラの大声に、私は不意に我に返った。


 どうやら少しの間、私は彼女の綺麗な顔を見つめたまま、もの思いに耽ってしまっていたらしい。


「伯爵、食べる物はいつものように今日のおススメ料理でよろしいですわね?」


 思わずぼんやりとしてしまい、若干、慌てている私に彼女は改めて訊き返す。


「あ、ああ……任せるよ」


「もう、どうかなさったの? 伯爵。いつになくぼーとしちゃったりして。あ、もしかして、恋患いとか?」


 まだ動揺収まり切らない様子で私が答えると、カミーラはいやらしい目つきをして、さらにそんな質問を口にする。


「まあ……そんなところだよ」


 私はその問いに半分冗談、半分は本気でそう答えた。


 確かに〝恋患い〟と言われれば、あるいはそうも言えるかもしれない。


「ふーん……伯爵に思われるなんて焼けちゃうわね。いったいどんななのかしら?……それじゃ、料理とワインを持ってまいりますわ。ワインもいつもの赤でよろしいですわね?」


 本気で言っているのか、それともやはり、ただふざけているだけなのか、カミーラは意味ありげな笑みを浮かべた表情のままそう断ると、料理を取りに厨房へと戻って行く。


「ああ……」


 私は複雑な表情で頷き、厨房の方へ向う彼女の後姿を眺めた……。


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