第2話


 1560年6月12日清洲城。


 その夜は雲り空で星は見えなかった。湿気が多く寝苦しい夜であった。

 運命となる歴史の境目さかいめ

 敵軍軍勢三万に対して、三河方面の国境付近の城に配した千人。残る織田軍は、わずか三千。

 まだ夜の暗さが残りモズが鳴くころ……。

 織田勢の誰もが死を意識して眠れない夜を過ごしていた、その朝未明。


「殿!」


 午前3時、障子の先から声が聞した。


「申せ」

丸根まるね城と鷲津わしず砦に今川軍が攻撃」

「空は」

「曇っております」


 信長はガバッと寝所で起き上がった。

 味方の砦が攻撃された。凡人ぼんじんが聞けば、陣地を奪われたと落胆するだろう。

 だが、信長の視点はちがうんだよ。

 今川本隊が分れたと別の視点で考える。


 信長はウツケと思われていた。今の言葉でいえば、バカって意味だ。彼の発想は当時の人間からすればわかりにくい。バカな奴だと、多くの人がさげすむようなことをしでかす。この侮蔑ぶべつに結果を出すことでつぶしてきたのが信長だ。

 おそらく、彼は単純に運がいい男だと人は思っていたかもしれない。


 梅雨に入った早朝。26歳の信長だけは悟っていた。この勝負、勝機は一瞬。他に道はない、と。


「全軍に出撃準備! 熱田神宮に集合せよ」


 近くで寝ずの番をしていた小姓は身構えた。

 いよいよきた、全身が総毛たつ思いである。ある者は伝令に走り、残りは信長の準備を手伝う。

 立ったまま食事をすませ、よろいを着付ける間、信長は目を閉じた。

 最後に小姓から手渡された扇子をひらく。

 彼は、はやる心をしずめるため、好きな敦盛あつもりを歌い、舞い踊ったのだ。


「人間50年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり

 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」

(人の生は50年。永遠の天の時にくらべれば、ほんの短い夢や幻のような時間。人は必ず滅びていく)


「参るぞ!」


 ここに信長の決意をみることができる。


 勝つ覚悟!


 できる準備はした。あとは勝負に賭ける覚悟のみ。

 信長は時間を支配する。彼の戦いは常にスピードを最大限に活用するものだ。時を支配することで、彼は優位性を保つ獣的な本能をもっていた。


「馬引けぃ!」


 低く命ずると、障子を乱暴に開けた。


「ものども出陣じゃ、続け!」


 家臣のもとへ伝令が走った。

 眠れない夜を過ごしたもの、酒をくらって大いびきをかいていたもの、指示を聞いて全員が飛び起きた。

 午前3時過ぎ、どの家もにわかに明かりがつき馬に鞍をつける。朝早く起こされた馬たちは不満の声をあげた。


 その中を、一人二人と闇に紛れて走るものがいた。今川側の間者スパイたちだ。

(何事が起きている)

 彼らも情報が見えない。昨日は信長が世間話をして屋敷に戻ったと知らせたばかり。


 もっとも織田家の家臣らも真意を理解してなかった。それゆえに誰もが右往左往して準備をすることになった。今川側と内通ないつうする家臣もいると信長が考えているとは思いもしない。

 戦国時代は、より乾いている者が勝利する冷酷な時代だ。


「急げ!」


 午前4時前、信長が城を出て熱田にはしる。追いついてきた者は小姓の五名のみ。


 途中、なんどか馬に円を描かせ兵を待った。

 信長の戦法は常にそうだ。彼自ら先に走り出す。部下を鼓舞こぶする。彼は決して本陣内で座して戦況をみない。自らが率先して動く珍しい大将だった。


 信長の背後に付き従う兵は五人が十人になり、十人が百人になり、やがて千人ほどになった。潮時だと念じると熱田神宮に向けて疾走した。

 身体中のアドレナリンがわき立ち、熱におかされ、武者震いをしながら、味方の誰もが負け戦と思った戦いに向かう。


 駆けた先に6月12日の朝陽がさしはじめていた。


=つづく=

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