第6話 勘違いしちゃうんでやめて下さい。

 木曜日、今日は先生の授業がある日だ。前に会ったのはたったの三日前のはずなのに、どれほどこの日を待ち遠しく思っただろうか。

 学校が終わってすぐに帰って、慌てて部屋を掃除する。いや、昨日の夜に掃除したのだけれど、もう一回だ、もう一回。男臭いって思われたくなくて、フレグランス系の爽やかな消臭スプレーも買った。それを部屋中にばら撒いて、念の為窓を開けて換気してから、改めて部屋を見回す。

 うん、大丈夫。綺麗だ。先生にちょっと似てるからという理由で買ってしまった巻頭グラビアの少年誌も押し入れの中に隠したし(先生の方が断然可愛かった)、他のいかがわしいものもない。靴下も履き替えたから、臭いも大丈夫。

 すると、ピンポンとインターホンが鳴って、母さんがぱたぱたと玄関のドアを開ける音がした。それから間もなくして「こんにちはー」と先生の柔らかい声が階下から聞こえてくる。

 ああ、ちくしょう。心臓がバクバク高鳴る。あのキス以来、会うのは今日が初めてなのだ。ドキドキしないわけがない。

 二人の声が、階段が上るにつれて近付いてくる。母さんも一緒に部屋に入ってくるのかよ。いつも母さんは、先生が来るとお菓子やお茶を持ってくるのだけれど、今日は予め用意していたのだろう。余計にどんな顔をしていいのかわからない。

 かちゃりとドアノブが開けられて、先生と母さんの二人が俺の部屋に入ってくる。


「こんにちは、湊くん」

「こ、こんにちは」


 先生があまりに普通に挨拶してくるので、少し拍子抜けしてしまう。


「いつもお部屋綺麗にしてるんだね」


 部屋を見回して、感心したように言った。


「そんなの、先生が来るようになってからよー? それまでなんて、片付けろって言っても──」

「母さん!」


 母親が余計な事を口走るので、思わず怒鳴りつけてしまった。母さんは「こわやこわや」と言いながらお盆に乗せた紅茶とお菓子を机の上に置くと、退散していった。

 頼むから今日だけはやめてくれ。余計に気まずくなってしまう。


「フレグランス、変えた?」


 焦る俺が可笑しかったのか、先生はくすっと笑って訊いてくる。


「あ、はい……好みじゃなかったですか?」

「ううん、清潔感があって良い匂いだよ。私も好き」


 ──私も好き。

 決してそういう意味ではないと頭ではわかっているはずなのに、勘違いしてしまうこのアホ脳味噌をどうにかして欲しい。


「じゃあ、宿題の答え合わせからやろっか。ちゃんとやった?」

「やる事にはやったんですけど、自信なくて……」

「じゃあ、そこを全部潰してから、新しいとこやっていこうね」


 いつもの様に横に椅子に座って、授業が開始された。そう、何も変わりない、いつも通りの授業だった。


 ◇◇◇


 授業は滞りなく進んでいた。

 わからないところがあれば丁寧に教えてくれるし、俺の手が止まっていれば、「どうしたの?」と訊いてくれる。

 そう、これは家庭教師で、彼女は授業をしに来ているのだから、当然のやり取り。そう、当然のやり取りなのだけれど……何だか、釈然としない。

 ほんの三日前、俺と先生はこの部屋で、およそ一〇分くらいの間、キスをしていたのだ。それも、濃ゆい方のキスを。それなのに、先生があまりに普通過ぎて、どうにも納得がいかなかった。もっと恥ずかしがったり、気まずいものを想定していたのだけれど……凄く、モヤモヤする。

 普通に話かけられて、普通に返答してしまった俺も俺だけど、何だか先生の事が全然わからない。あのご褒美の時間は一体何だったのだろうか。もしかして俺が見た夢か幻で、本当はあのキス自体存在しなかったのだろうか。こんな事をぐるぐる考えてしまっているせいで、全然問題文が頭に入って来なかった。

 ダメだ、英文が単語として頭に入ってこなくて、アルファベットとしてしか読めない。何度も答えを書いては消しゴムで消す。


「……あの、湊くん?」

「は、はい!?」


 不意に先生の声が耳に入ってきて、慌てて返事をする。危ない、声が裏返りそうに──


「…………」

「…………」


 先生が思ったより顔を寄せていたので、そこそこ近い距離で黙って見つめ合う形になってしまった。


「えっと……どうしました?」

「あ、ううん、何でもないの」


 先生は俺が訊くと、びくっと体を震わせてから、頬にかかった黒くて綺麗な髪を耳に掛けた。


「何だか悩んでそうだったから……詰まってるのかなって」

「いえ、そういうわけでは……」

「集中力、切れちゃった?」

「まあ、ちょっと……」

「じゃあ、休憩しよっか。学校帰りだもんね」


 先生はいつものように眉根を寄せて微笑んだ。


「す、すみません……」


 疲れてるんじゃなくて、隣の先生に夢中で集中できてなかった、だなんて死んでも言えない。

 そんな俺の気など全く気付いていない様子で、彼女は母さんが用意してくれたお茶とお菓子を並べていた。

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