第20話「獣の視線ですか?」

 亮介にとっては週初めとなる木曜日。前日メンタルを乱された亮介とひかりだが、仮眠から寝坊することなく普段どおりの時間に起きた。そんな朝食の席でのこと。


「亮介さん」

「ん?」

「私、鏡を追いたいので理数系の勉強を一時中断したいです」


 亮介は咀嚼をしながらジッとひかりを見据える。畏まった様子のひかりは真剣な眼差しで亮介を見つめていた。


「わかった。いいよ」

「はぁ……」


 ほっとしてひかりは息を吐いた。

 予定としては夏休みの宿題と、ミズコに代わってもらった理数系の追試の分の復習に半々の時間を割くはずだった。しかし鏡が見つかってからでも、夏休みが終わってからでも、理数系の勉強の遅れは取り戻せる。ひかりはそれ故の決意表明であり、亮介はそれを理解しての返事だった。

 尤も亮介としても娘の所在がかかっているのだから、本音では仕事も勉強も休んで鏡に専念したい。しかし立場ある社会人の亮介にそれはできないので、実動はひかりに任せる意向だ。


「じゃぁこれ」

「ん?」


 亮介は自分の名刺入れに入れてあった他人の名刺を取り出して、ひかりに差し出した。


「誰の名刺ですか? これ」

「夜中にひかりの家でお婆さんからもらったんだ。鏡を引き取りに来た買い取り業者の名刺だって」


 名刺は市内のリサイクルショップのもので、亮介はこの日の業務が終わったら自分で行ってみるつもりだった。しかしひかりがやる気を見せているので、彼女に任せるのも一つかと思ったのだ。


「自転車でも行ける距離ですね。行ってみます」

「うん。なにかわかったらすぐにラインして。仕事中でも構わないから」

「わかりました」


 ひかりはその名刺を自分の財布に仕舞った。


 やがて亮介は出勤し、昼前となる。営業の外回り中にひかりからラインが届く。


『鏡、売れちゃってました』


「まさか」


 思わず独り言が零れた。昨日の明け方に初めてミズコと会った鏡だ。それがこの日の未明には無くなっていた。だから昨日の日中に引き取られとことは明白だ。それが翌日の今日、既に売れているなんて信じられない。

 亮介はハンズフリーで社用車に繋がっているスマートフォンからひかりに電話をかけた。ひかりはすぐに出た。


「もしもし、ひかり? どういうこと?」

『昨日、仕入れてリサイクルショップに陳列したら、夜に常連さんが来たそうです。その人がその場で買って持ち帰ったって』

「は? 常連って言ってもたまたま居合わせた人があの大きさの鏡を即金で買って、その場で持ち帰れるものなのか?」

『その常連さんは地元の工芸品を収集している人らしくて、この鏡はそれに所縁があるって言ってたらしいです。なんでも一目で気に入ったとか。そんな人だから業務用に普段からライトバンに乗ってるそうで、支払ってすぐに積み込んだそうです』

「そんな……」


 鏡が遠くなった。今まで何十年もひかりの自宅の蔵にあった鏡がどんどん動いていく。


「その工芸品の収集家はどこの誰?」

『そこまでは教えてもらえませんでした。個人情報になるからって』

「はぁ……」


 そりゃそうだと亮介は思った。自分だって店の立場なら教えない。


 そんな落胆を胸に亮介はこの日の午後の営業回りを進めた。しかしそれはもう日も傾きかけた頃だった。ふと一つ思い出した。それがどれだけ期待できるものなのかは未知数だが、一応の当てが見えた。それに縋りつくしかない。

 亮介は外出先の社用車から再びひかりに電話をかける。ひかりは途方に暮れた様子で、亮介の部屋で宿題をしているところだった。


「今日は図書館じゃなかったのか。それならいっそのこと僕も一緒に行くか」

『どういうことですか?』

「ひかり、夕方の六時に図書館に来て? 今日は六時に仕事を直帰ってことにして、僕も向かうから」

『え? あ、はい』

「エントランスのロビーで待ち合わせね」


 ひかりに困惑した様子は窺えたが、一方的にそれだけ言うと亮介は電話を切った。


 そしてその日の業務を定時で終わらせると亮介は急いで図書館に向かった。シャツにスラックスという夏の仕事着だ。

 図書館のエントランスに到着すると、ひかりはソファーに腰かけて既に待っていた。裾の広がったパンツスタイルで、シャツをパンツインしていた。美少女で尚且つ、ため息が出るほどスタイルがいいなと亮介は見惚れる。


「獣の視線ですか?」

「そこの棚にさ」

「誤魔化さないでください」

「チラシがあるんだ」

「今晩も腕枕で――」

「大変失礼しました。本当にごめんなさい」


 こんな公共の場で共同生活を窺わせるようなことを口走ったひかりに、亮介はすかさず謝罪した。


「昨晩の優しさに免じて許します。で? チラシって言いました?」

「うん。そこの地元の工芸品コーナー。その中に工芸品をプライベートアトリエで展示してるのがあったなと思い出して」


 それはひかりと一緒に図書館で勉強をした日の休憩の時。なにげなく目に留まった件のチラシに、そんなことが書かれていたと亮介は思い出したのだ。


「展示するっていうことは収集してる人で、そんな人なら情報交換のために絶対同業の収集家仲間がいるはずだから、まずはその人に話を聞けないかと思って」

「なるほど!」


 ひかりは目を輝かせた。そしてすかさず本棚の上のチラシを物色する。

 するとそれはすぐに見つかった。チラシに載せてある画像は古い造りの家具や細工品で、大きめの家具なんかは滑らかな彫刻に漆で仕上げてあるので、ミズコがいる大鏡とイメージが合ったのだ。


「これですね!」

「そう、そう」


 亮介は答えると、自分ももう一枚チラシを手に取った。そこには件のアトリエの所在地と固定電話の番号が書かれていた。場所はここから市内を山奥に進んで車で一時間ほど。かなり距離がある。

 するとひかりが落胆の声を上げる。


「あぁ……亮介さん……」

「ん?」

「このアトリエ、十九時閉館になってます」

「あぁ……」


 その記載に気づいて亮介も落胆を示した。件のアトリエまで車で一時間だから、ひかりを一人で行かせるのは無理がある。調べればバスもあるのかもしれないが、如何せん山奥だ。亮介が自家用車を運転して一緒に行く方がいい。

 しかし亮介は定時で仕事を終えても十八時過ぎだから、それから一時間車を走らせても開館時間に間に合わないのだ。


「とりあえず電話してみる?」

「そうですね。そうしましょう」


 そう話して二人は一度図書館の外に出た。亮介が自分のスマートフォンでアトリエに電話をかける。


『はい、もしもし』


 数回のコールで出たのは余所行きのために一つトーンを上げた女の声だった。アトリエの固定電話なのに名乗らないのかと亮介は疑問に思いながらも、まずは自分が名乗った。


「こんばんは。図書館で工芸品のチラシを見て興味があったのでお電話しました。私、薮内と言います。アトリエ鈴山さんでよろしいですか?」

『あら、そうでしたか。失礼しました。アトリエ鈴山です』


 屋号が確認できたところで亮介は用件を言う。


「アトリエに一度伺ってみたいと思ってお電話しました」

『ありがとうございます。わざわざお電話を頂いたということは主人がいた方がよろしいですか?』

「どういうことですか?」

『自宅で細々とやっている趣味のアトリエで、主人は本業が会社務めです。ただ見るだけなら私でも対応できますが、お話を聞きたいとなると主人がいる土日の方がよろしいかと思いまして。予約という形で承りますが』


 女からの説明に亮介はこの電話の最初の出方を理解した。しかし悩ましい。亮介の土日は仕事だ。


「そうですか。私は休日が平日なので、平日に伺いたいんですが……」

『それも事前におっしゃっていただければ可能ですよ?』

「本当ですか?」

『はい。主人は有休が多く取れる職場ですので』

「ありがたいです。次の火曜日はいかがでしょう?」

『確認して折り返しますので、ご連絡先を伺っても?』


 その後は事務的な内容で電話を切った。そんな亮介をひかりが物思いに見つめる。


 すると折り返しの電話は数分でかかってきた。登録していない番号で、発信者はアトリエを営む鈴山氏本人だった。


『すいません。さすがにいきなり来週の有休は取れません。しかし事前に言ってもらえればアポイントという形で十九時以降でも対応しますが?』

「本当ですか! それなら早速明日の十九時半に!」

『承知しました。では明日お待ちしております』


 柔軟な対応をしてくれた鈴山氏に亮介は感謝する。亮介の電話の様子を隣で眺めていたひかりに結果を話すと、ひかりは声を弾ませた。


「私も行きます!」

「うん。一緒に行こう」

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