第12話 終業式の攻防。

 玄関のドアを開ければ、いつも通り絢奈が待っていてくれる――心のどこかですがっていた一縷いちるの望みは呆気なく消えた。


「そう、だよな……」


 誰もいない玄関先。一人で歩く学路。

 そうだ。つい二週間前までは、これが普通だったじゃないか。彼女のいない日常とは、こんなにも空っぽなものだったのか――。


 二年一組教室に着けば、案の定と言うべきか、瑞季の席は空席だった。たった一人いないだけなのに、俺はクラスメートの半分以上が休んだかのような喪失感に襲われた。

 休み時間には悠翔と雑談し、昼休みには屋上へ行って一人で弁当を食べた。冷凍の唐揚げは前と同じものを買ったはずなのに、前より美味しく感じられなかった。夏休み直前の空はどこかくすんだ色をしていて、風は秋のように冷たかった。

 放課後は第二美術室に一人残って、絢奈と瑞季の絵を描いた。ギブリ美術館の展示を眺める絢奈の真剣な横顔、勉強会の日に我が家のソファに座った瑞季の微笑――記憶の糸を必死に手繰たぐり、ひたすら鉛筆を動かし続けた。

 

 絢奈のいないモノクロの日常は一週間続いた。

 俺は諦めていた。やはり全ては夢だったのだ。俺の妄想だったのだと。


 そして迎えた七月二十一日、金曜日。

 夏休み前最後の登校日である終業式の朝、奇跡は起きた。

 彼女が再び現れたのだ。


「……おはようございます、先輩」


 朝陽に照らされて眩しく輝く、しわ一つない純白のセーラー服。この一週間ずっと探し続けていた彼女――夜神絢奈がそこに立っていた。


「あや、な……? 絢奈……なのか……?」


 少女が頷いたその瞬間、俺は彼女の華奢な身体をしかと抱き締めた。両腕の中に感じる確かな温もり。感情が腹の底からぐちゃぐちゃになって、言葉は何も出て来なかった。気がつくと頬を伝っていた熱い雫を、彼女の細い指がそっと拭い取った。 


「絢奈っ! 本当に、本当に……っ」

「ごめんなさい、先輩。ご心配をおかけしました」 

「いや、良いんだ……絢奈が傍にいてくれれば、それだけで……」


 バカップルみたいに抱き合っているうちに、いつしか二人とも号泣していて。良かった良かった、ごめんなさいごめんなさいとそればかり繰り返して、俺たちはずっと泣きじゃくっていた。十分くらいの後、そろそろ行きましょうか、と真っ赤に目を腫らした彼女が微笑んだ。


「わたし……先輩に謝らなくちゃいけないこと……たくさんあるんです」

「そっか」

「だから、今日の放課後……待っていてくれませんか?」


 殊勝なことを言うので、俺は思わず吹き出してしまった。


「な、何がおかしいんですかっ」

「言われなくても待つに決まってるだろって、ただそれだけだよ」


 

 二年一組教室に入ると、悠翔と瑞季がいつも通りに話していた。特に変わった様子もなく、普通の調子で談笑している。俺は二人の間にずかずかと割って入り、幼馴染を無言で抱き締めた。


「ちょ、ちょっと何よっ!?」

「済まない……でも、お前が無事で良かった……っ!」

「ああもうっ、こんな人前で……ほんっとバカなんだから……」


 周りの反応なんてどうでも良かった。悠翔にニヤニヤされようが知ったことか。絢奈も瑞季も無事でいてくれた。それ以上に素晴らしいことなんて、世界のどこにもないのだ。



 ***



「えー、夏休みには事件や事故に巻き込まれないよう――」


 だが、再会の喜びに浮かれていた俺は、問題は何も解決していないと言うことを忘れていた。生徒指導部の教師の退屈な話をぼうっと聞いていると、俺の列の前方で突然、誰かがバタリと倒れた。


 ――瑞季だった。


「みんなっ、あたしから離れて……っ!!」


 聞き慣れた声が悲痛に叫ぶ。

 瞬く間に伝播する動揺。それはすぐに悲鳴へと変わった。

 前方の生徒たちが雪崩を打って一斉に逃げ出したのだ。


「な、何が……っ!?」


 瑞季の元へ近づこうとしたものの、パニックになった彼ら彼女らによって体育館の出口の方に押し出されてしまう。人の波に必死に逆らって壁伝いに進み、混乱から何とか抜け出すことに成功した俺。そこで目にしたのは、あの夜と同じ赤く禍々まがまがしい燐光だった。


「瑞季……やっぱり、お前……っ」


 そして異常な状態の彼女に駆け寄る、小さな人影が一つ。


「瑞季先輩――っ!」

「あれは……絢奈っ!?」

「――先輩っ!」


 俺に気づいた彼女の顔が、先週の放課後と同じように歪む。

 だが、俺は首を横に振った。

 俺は見なければならない――そう思うのだ。


「そうですか……ごめんなさい。放課後、ちゃんと言うつもりだったんですけど」

「そんなのいつだっていい! だから絢奈――瑞季を頼む」

「もちろんですっ!」


 あの真っ黒な瘴気に包まれた瑞季に向き直り、自信に満ちた声で叫んだ絢奈。その背中からは純白の巨大な翼が顕現し、結び目のほどけた髪が透き通るような金色に染まってゆく。


「そうか……絢奈、お前が――」


 鮮烈な光が体育館に満ち満ちる。彼女の静かな声が響いた。


「はい。わたしが天使――この世界の創造者です」


 常軌を逸した、まるでアニメか何かのような台詞。

 だが、金色の燐光に包まれた絢奈の神々しい姿は、まさしく天から降臨した天使そのものだった。


〈くくっ……遂に馬脚を現したな? 天使をかた反逆者レベリオー!〉

「それはあなたたちでしょう? ――汚職にまみれた天界法執行官インペラトル!」

〈つくづく目障りな小娘だ……『断罪せよ』〉


 高慢そうな男の声が俺の脳内に突然響く。瑞季の姿は文字通り真っ黒に染まり、濃度を増した赤い燐光から幾筋もの強烈なビームが放たれた。体育館のあちこちに大穴が開き、壁が剥がれ落ち、太い鉄骨が崩落する。だが――。


「我が意思は神の法なり」


 絢奈の凛々しい声とともに、落下しつつあったそれらはふわりと浮かび上がって、元あった場所へと戻ってゆく。紅のビームは掻き消され、一瞬のうちに体育館が修復される。凄まじい力としか言いようがなかった。


「知っているはずではないですか? この世界にいる限り、わたしに勝つことはできないと」

〈相変わらず厄介な……だが、そう言うお前こそ力が落ちているのではないか?〉

「……っ」

〈先週の勢いはどうした、反逆者レベリオー。先週のように我らを消し去ってみせよ〉

「そこまで言うのなら、仕方がありません――『汝の在るべき所へ帰れ』」


 瑞季の身体が崩れ落ち、藻掻き苦しみ始めた。不気味な声は複数の声に分かれて悲痛に咆哮する。黒い瘴気がだんだんと薄らいでゆく。


「お願いです、耐えてください……瑞季先輩……っ」


 両手を胸元で固く合わせ、祈るように呟く絢奈。やがて、のたうち回る瑞季の中から一際黒い瘴気の塊が三つ出てきたかと思うと、それらは俺へと一直線に向かってきて――。


「させないっ! 『爆ぜろ』――っ!!」


 ――目の前で爆散した。 

 爆風で吹っ飛ばされる俺を、飛び込んできた絢奈が抱きとめる。


「危なかった……もう少しで先輩が憑依されてしまうところでした……」


 体育館の壁にもたれる彼女の息は流石に乱れていた。


「天使だって万能じゃないんだな」

「弱ってますから……ちょっとだけ、ですけどね」


 力なく笑う絢奈の頭を優しく撫でる。セミロングになった金髪はさらさらしていて、いつまでもこうしていたいほどだった。


「金髪の方が好きですか?」

「そうだな……凄く綺麗だけど、俺には少し眩しすぎる」 

 

 瑞季がふらふらと立ち上がり、こちらに手を振りながら近づいてきた。



 ***



「ごめんなさい……っ」


 絢奈はまるで親父のように頭を下げた。


「どうして謝るんだ?」

「だって……だってわたし、最初から騙してたんですよ……? 記憶喪失と嘘をついて、先輩を――」

「絢奈。それ以上言うな」

「でも、それに瑞季先輩も」

「それは先週解決したじゃない」


 涙ぐむ絢奈を、俺と瑞季が左右からそっと抱き締める。

 優しく目を細めている瑞季の横顔を見ながら、俺はふと気づいた。


「先週って……まさか!」

「そう。暴発したあたしを絢奈ちゃんが止めてくれたの。颯太が彼女のテレポートで家に送ってもらった時にね」


 済まなそうに頭を下げる後輩の額を、俺は軽くつついた。


「絢奈は俺のことを守ってくれたんだろ? だったら感謝するのは俺の方だ。ありがとな、絢奈。それで……絢奈と俺は、いったいどんな関係なんだ?」

「わたしは――」


 少しだけ逡巡した絢奈は息を一つ吸って目を開き、その青い瞳で俺を真っ直ぐに見つめた。


「――あなたの妹です」

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