第2話 自称彼女。

「おはようございます、先輩っ!」

「うわっ!? ……誰?」


 七月三日、月曜日。母の命日ということで仏壇を拝み、リュックを背負っていざ出発と玄関の扉を開けてみれば、一人の少女が目の前で待ち構えていた。


「えー、もしかして忘れちゃったんですか? 先輩……ひどいです……」

「いや忘れるもなにも……どちら様ですか?」

「そ、そんなぁ……たちの悪い冗談はやめてくださいよぉ……」


 ポニーテールにくくった黒髪と澄んだ青い瞳が印象的な、快活な雰囲気の少女だった。あどけなさが残る顔立ちは整っていて、思わず二度見してしまいそうなほど可愛らしい。どう考えても人違いだ。俺にこんな後輩美少女がいれば、覚えていないはずがない。


「――俺のことを知ってるんですか? さっき、先輩とかなんとか……」

「もちろんです、佐上颯太先輩。二〇〇六年八月三日生まれの高校二年生で、身長は一六八センチ。趣味はアニメ鑑賞。最近は推しに感化されて、独学でピアノを――」

「おいやめろっ!? どうしてそんなこと知ってる!?」

「――練習し始めたものの、少し前までト音記号とヘ音記号すら分かっていなかったので、全くもって上手くいってない先輩のことなら知ってます」

「うあああぁー……っ」


 さっきまで少しばかり泣きそうになっていった彼女は、どうやら俺の尊厳を傷つけることで元気を取り戻してくれたらしい。朝から女の子をガチ泣きさせるという最悪の事態は回避されたという、その点では良かったのだが――そのせいで思わず口調が砕けてしまい、「してやったり」と言わんばかりの笑みを見せつけられることになった。愛らしい笑顔を拝めて、たいそう眼福ではあるのだが。


「……マジで知り合いだったのか」

「あったり前じゃないですかっ」

「こんなヤンデレ系後輩美少女がいた覚えはないんだけど」

「わたしはヤンデレじゃないですっ!」

「後半は否定しないんだな」

「そりゃあ、を褒めるのは自然なことですし?」


 その瞬間、脳天のド真ん中に大穴が開いた。


「……えっと、彼女って……まさかその……」

「さては記憶喪失ってやつですか? 彼女ですよ彼女、か・の・じょ。わたしたち、一か月前からお付き合いしてるじゃないですか」


 にっこりと笑った彼女は俺の左手を取りながら、ぎゅうっと身を寄せてきたのだった。



 ***



「わたしの名前ですか? 夜神絢奈やがみ あやなですけど」

「……ごめん、やっぱり思い出せない」

「はぁ……顔も名前も、何もかも忘れられちゃってるとなると……流石にへこみますね……」

「本当に済まない……」


 昨日までの俺はいったい何者だったんだ、というのがまず第一の感想だ。俺に記憶喪失の自覚は全くない。一昨日はスーツを買いにデパートを半日は歩き回ったし、昨日は母の十七回忌で寺へ行った。どちらもはっきり覚えている。


「ええと、夜神さん――」

「絢奈って呼んでください。もちろん呼び捨てで! 名字はその……とにかくイヤなので」

「お、おう。じゃあ……絢奈。俺たち、ほんとに付き合ってるんだよな?」


 そして第二の感想は、いったい何が起こっているんだということで。最初は彼女――絢奈の方こそ「たちの悪い冗談」を仕掛けているんじゃないかとうたぐった。しかし絢奈が言うままにスマホを取り出して緑のアイコンのメッセージアプリを開き、トークの一覧を見てみれば、果たしてその一番上に「あやな」の三文字があったのだ。アイコンは俺と彼女が腕を組んでいるプリクラ。まごうことなきカップル写真であった。


「ほらっ! ……どうです?」

「……認めざるを得ないな」

「ふふん」


 得意げに胸を反らしている彼女の隣で、俺は困惑の真っ只中にあった。最後のトークは彼女から送られてきた「おやすみなさい!」というメッセージで、時刻は23:56となっている。しかし俺の記憶が正しければ、昨日の俺はもうその時間には寝ていたはずなのだ。もしや今の俺は夢を見ているのだろうか――そう考えて、流石に心の中で首を振る。後輩の女の子と繋いでいる左手の感触、そして確かに伝わってくる彼女の体温は、夢にしてはあまりにリアルすぎた。


「俺の後輩ってことは、絢奈も美術部に?」

「そうなんです。まだまだ下手くそですけど……」

「そ、そうか」


 しかしまぁ、昨日までの俺はこんな美少女をよくも彼女にできたものだ。顔面偏差値も人気もコミュ力も、俺より絢奈の方がずっと上なのは間違いない。運動神経抜群のイケメンだって選び放題だろうに、わざわざ俺と付き合っていたのは何故なのだろうか。


「あの、先輩……」

「どうした?」

「その……これからのこと、っていうか」


 ふと歩みを止めた彼女は、おずおずと切り出した。


「先輩の記憶がないってことは――今の先輩はわたしのこと、好きじゃないってこと……ですよね?」

「……それは」

「いいんです。むしろ今この状態で好きって言われても、あんまり嬉しくないですし」

「まあ、そうだろうな」

「でもやっぱり、ちょっと悲しいっていうか。今までの一か月がなくなっちゃったみたいに感じて……あ、先輩を責めてる訳じゃないんですよ? ただ――」

「いや、忘れてしまったのは俺の方だからな。済まない」

「へっ!? いや、忘れたっていうか……え、えっと……」

「ん? どうかしたか?」

「あー、その、別に先輩は悪くないってことですっ! はいっ!」


 何故か慌て出した後輩に内心で首をかしげつつも、俺は早まる動悸をこらえて彼女の青い瞳を見つめた。自分にキザな台詞が似合わないことなど百も承知している。けれどその上で、俺は絢奈に言わなければならない――そんな気がしたから。


「確かに今の俺は、絢奈のことが好きなわけじゃない。だけど、がそうさせるのかは分からないけど――俺は絢奈が泣いている顔を見たくない。絢奈を悲しませたくない。どういうわけか、そう強く思ってるんだ」

「先輩……」

「だから、もし絢奈がまだ、俺のことを好きでいてくれるなら……いや、記憶を失った今の俺がそばにいることを許してくれるなら……これからも俺の彼女でいてくれないか? 絢奈を今一番幸せにできるのは、きっと俺だから」


 顔から火が出そうで、心臓は今にも爆発しそうで。それでも震える口でなんとか言い切った。目の前の絢奈を見れば、彼女は彼女で頬を真っ赤に染めている。距離感が近くてグイグイ来るくせに、実は意外に初心うぶなんだなと、そんなことを思ってしまった。


「……ふふっ、あはははっ! あー、なんか暑くなってきましたねっ!」

「お、おい……これでも結構、真面目に言ってるんだけど……」

 

 彼女は唐突に笑い出し、セーラー服の胸元をぱたぱたと扇いだ。


「先輩って、こんなに情熱的な人だったんですね。わたし、初めて知りました」

「いや、これはその……」

「分かってます。わたしだって、ずっと自称彼女なのはイヤですし――だから」


 ――わたしこそ、これからもよろしくお願いしますねっ!


 はにかんだ彼女はそう言ってポニーテールをひるがえし、俺の左手を引いたまま駆け出した。

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