第5話 もうひとりの自分

 遊園地デート。残った思い出はソラリとの楽しい時間だけ。ラインの待ち受けにいる二人で撮った写真が輝いてみえる。


 ソラリは外出しようと靴を履いた。その時だった。扉が開いて、そこから母が入ってきた。いつもならもっと夜遅くに帰宅するはずだった。


「あら、ソラリちゃん。どこかお出かけ?」


 こんな時間に母が帰ってくるとは珍しい。その声を聞いて、急いで玄関に向かった。母の後ろには背筋が真っ直ぐなスーツの男がいた。父だった。


「今日はパパが久しぶりに福岡から戻ってきたのよ。だから、今日の夜は豪華な食事にしようと思ってるの」


 楽しそうに話す母と、それを見ながら優しく微笑む父。


 バタン。その様子を見たソラリは硬直し荷物を落とした。彼女だけ時間が止まったようだ。


 フリーズ状態。よく見ると頬から垂れ落ちる涙が玄関口のタイルにこぼれ落ちている。


「パパ──」


 どういうことか理解できなかった。父は彼女にとっての義父という認識はできる。しかし、なぜ涙を流しているのか分からなかった。


「二度と会えないと思ってた。私のいない世界線だから私の記憶がなくて、そもそも他人の関係なのは分かってる。分かってるけど。生きて、会えて良かった」


 ソラリは父の服で顔を隠していた。そんな彼女を優しく抱きしめる。その姿はまさに本物の親と子の関係のようだ。


「何があったのか分からないけど、辛い時はお互い様だからね」


 その一面が切り取られた。時間が途切れ途切れで止まっているような。理由も何も分からないのに、ただ無性に感動を巻き起こす。


「ソラリ、って言ったっけ。何か奇遇だな。私達に子どもができたら、男の子なら翔。女の子なら天梨って名前をつけようとしていたんだ」


 そこでふと気づく。


 ソラリってもしかしたら。


「翔と天梨って、もしかしてドッペル? な訳ないわよねー」


 母もまた同じことを考えていたようだ。そして、それがトリガーとなった。


 図星だった。


 ソラリの体が透け始めた。誰かにドッペルゲンガーだと認識された瞬間に、地球の自然の摂理によって一人だけ消える。この時にようやく俺たちが同一人物であることに気づいたのだ。


「やっぱり翔くんはこの世界での天梨だったんだ。性別が違ってたから、姉か妹かかと思ってたけど。まさかね」


 本当に、、だった。


 パラレルワールドでは俺は女で産まれていたのだ。そこでは、父は車に轢かれて亡くなっていて、母は父の分まで働いて体を壊した。そして、もう養えないと親戚の家に託す。きっと託された家は塩谷という苗字なのだろう。そこで遊ぶ余裕もなく人生を過ごしていく。女として産まれていたら、そんな人生を歩んでいたのだ。


 優しく抱かれている彼女の体は透けていく。徐々に人間越しに父の全体像が見え始めていた。


「すまない。まさかこんなことになるなんて」


「謝らないで。私はパパに会えただけでも嬉しいから」


 はやくしないと消えてしまう。自分を急かして何か言おうと思っても何も浮かばない。


「カケル……外に出ない?」


 彼女の提案で狭い空間から離れた。


 カラッとした風がどこか寂しい。


 家の前の灰色のコンクリートの壁。彼女はその壁にもたれかけて座った。


「私達、ここで初めて会ったんだよね。思い出の家に辿り着いても入れなくて、ずっと待ってたら野垂れ死にそうになってた。懐かしいな」


 見上げる空。そこは青色よりかはとても薄くて、水色よりかは濃かった。清々しい空が広がっている。


「楽しかった。二人の時間は宝物だし、最後にプレゼントも貰ったし。私はもう満足なんだ。今までありがとう──」


 ねずみ色の道路に立つソラリに軽く吹く優しい風。この時は今まで以上に、今まで見たものよりも、ソラリが輝いて見えた。


 もう消えゆく命。死はすぐそこまできている。姿さえ捉えることが難しくなりつつある。


 彼女はきっと全てを伝えた。それなのに、俺は何一つ伝えれていない。こんなの嫌だ。もう二度と会えなくなるなんて嫌だ。せめて何か伝えたい。


 その一心が心を支配する。


 きっと正気じゃない。自分でもおかしいと思ってる。それでも突き動かされる感情に逆らえなかった。


「馬鹿っ──」


 透明になりつつある体なのに温かみは何も変わってない。


 本能のまま抱きしめていた。すぐ近くにはソラリの顔が見える。本能が囁く。もう最後の機会なのだから本能のままに従えばいい、と。


「天梨のことが好きだ。誰よりも──」


 ソラリの唇を奪う。唇って、こんな感触なんだ。


 ドッペルゲンガーがバレて消え始める体。そうなってから死なない方法は一つ。それはもう一人の自分に押し付けること。そして、そのための方法が、もう一人に触れることであった。


 押し付けられた訳ではない。単に触れるだけで消滅化が移ることを俺は知らなかった。まさかこの瞬間、ソラリの代わりに俺の体が消滅し始めていることに気づいていなかった。


 キスから感じる甘酸っぱい味。触れた体から感じる温かい感触。瞳にはソラリしか映らない。匂いだってソラリの匂いしか感じない。優しく包むような風の音が他の音を遮断しているみたいだ。


 ああ、体が暑い。


 ただただ、温かい感触しか感じなかった。

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