part.7

いつもは勤勉なはずの秋山だが、今日は仕事をする気分にはなれずにいた。二人の客を見送った後、ちょうどタイミング良くぽっかりと時間が空くと秋山は思い切って早仕舞いをする事に決めた。

賑やかな笑い声のする方を見ると、地続きのルナ・ロッサは今夜は珍しく賑わっていて、八神がカウンター席に座る数人の客を相手にシェイカーを振っている。

そんな八神を尻目に秋山はこっそりと店から抜け出すと、表の回転灯のスイッチを切って人影も疎な繁華街を歩き出した。

外は今にも雪がちらつきそうな寒空がまるでこの街に蓋をする様に重く覆い被さっている。それはまるで今の秋山の心持ちを投影しているかのようだった。

秋山が向かったのは繁華街のどん詰まりにある古めかしいビルの地下二階。

あのアーサーが経営するバー『コルボ・ノアール』だ。照明の落ちた上質で大人な空間にはいつも心地よいジャズが流れている。


「いらっしゃいませ」


秋山が店に入ってくると、アーサーの声が出迎えた。

狭い店にはお客が一人いるだけだ。


「こんばんは、一杯呑ませてくれませんか」


秋山にしては珍しく、八神も連れずに一人だけ。

直ぐに表情に出る秋山に、アーサーは何かあったのだと気づいたが何も聞かずにカウンター席を勧めた。


「リクエストは何かありますか?」

「…適当に何か作って貰えませんか?」


そう言う秋山の落ちた声と肩はこの季節のように寒々とした佇まいだ。

アーサーはテキーラとグレナデンシロップにグレープフルーツを絞ってシェイクした。

グラスに注がれた美しい赤いカクテルが秋山の前へとスッと差し出された。


「アイスブレーカーと言うカクテルですよ」

「…なぜ、このカクテルを?」

「一旦休憩して落ち着きましょうと言うカクテルです」

「…アーサーさんは何でもお見通しなんですね。僕は何も言ってないのに…」

「プロのバーテンダーですから」


そう言って穏やかにアーサーは微笑んだ。

秋山がカクテルを喉に流すと、このところの喉のつかえが少しだけ解けていくような気がする。


「僕は心の狭い男なんです。猫の子供じゃ無いんだからと言いながら、猫の子供よりぞんざいに彼の事を見ていたんです。邪魔っけでとても容認できなくて…八神さんの気持ちなんて一切思いやることが出来なくて…最低なんです僕…。すみません何のことだか分かりませんよね?」

「少なくともアッシュの事では無いのでしょ?

お酒が流してくれると思ってここにいらしたのなら、私はただ黙ってお酒を作って差し上げるだけです」


その言葉が今の秋山には染みた。今は自分でも何を叫んで良いのか分からないのだ。

ただ好きな人には子供がいる。

ただそれだけなのだ。

ただそれだけ…。




「コンバンハ…」


程よく秋山が酔い潰れた頃、コルボ・ノアールに店を終えた八神がひょっこりと現れた。

八神の目に入ったのは泥酔してカウンターに突っ伏して寝ている秋山の姿だった。


「いらっしゃい。秋山先生をお迎えですか?」

「ああ、すいません秋山がご迷惑を…。ほら、先生帰るぞ…」


八神は秋山の肩を抱き起こしたが、酔っ払って朦朧となった秋山はほとんど力が抜けた状態だ。


「いえいえ迷惑など…。

何があったか存じ上げませんが、だいぶ落ち込まれてましたよ」

「…そう、…ですか…」


秋山は滅多に酒の力など借りたりはしない。そんな人間が今日に限って深酒で珍しく醜態を晒している。

このところの蘭丸騒ぎで秋山の神経が疲弊しているのは間違いようもなく、そんな秋山に今はどうしてやる事も出来ない八神の方こそが、辛そうな面持ちで秋山を見つめていた。


「…俺が悪いんです…。ずいぶん昔に蒔いた種が今頃になって花を咲かせましてね。オレもこいつも年甲斐もなく戸惑ってるんです。あ、すいません訳わからん愚痴を…。

ほれ、先生。帰るぞ」


八神はぐんなりとしている秋山を抱え何とか立ち上がらせると、心配して店の外まで見送りに出てくれたアーサーに礼を言って秋山を抱えるように帰路についた。



今夜は久々に部屋は静かだった。ここのところ毎日泊まりに来ていた蘭丸の影も無い。

八神はほとんど担ぎ上げるようにして秋山を二階に運ぶと布団の上へと横たえさせた。


「まったく、しょうがねえなあ先生は…。いったいどのくらい呑んだんだ…」


八神は秋山の上着を脱がせると襟を寛げ甲斐甲斐しく湯で絞ったタオルで秋山の顔や首を拭った。

秋山は朦朧としながらもそんな八神の首に腕を回して抱きしめて来た。


「ごめん…八神さん…僕ちゃんと…ちゃんと受け止めますから…」


辿々しく詫びる生真面目な秋山がいじらしかった。

いつもならここでスケベスイッチが発動してもおかしくない八神だが、流石に今はそんな気持ちになれなかった。

今夜は邪な思いもなく八神は秋山を抱きすくめた。


「オレのほうこそすまない先生。とんだ気苦労をかけちまってるよな」


そう、秋山は分かっている。これは八神が謝るような事ではない。子供がいたから何だと言うのだろう。

分かっていても勝手に胸が苦しくなってしまうだけなのだ。

今はまだ気持ちが追いつかないだけの事。そう言い聞かせ、秋山は八神の温もりを感じながら目を閉じた。

この夜二人は温もりだけを持ち寄るように抱き合って眠った。

夢の中で秋山が自分の気持ちに決着をつけようとしていた頃、八神の携帯に一件の着信があった。


[もしもし麟ちゃん?出られなくてごめんねぇ。桃花です]
























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