紙杯の騎士

信野木常

プロローグ 気まぐれな剣-A whimsy sword

 西暦2024年 5月7日 18時08分 トウキョウ圏ネリマ市東部 旧市街


 いつも、心の何処かで考えていたと思う。


「少年! 少年っ!」

 切羽詰まった少女の声が、耳のすぐ傍から聞こえてくる。開いた目に映ったのは、残照の僅かな光に浮かぶ歪んだ鉄骨。そしてその向こうに暗く暮れてゆく空。もう星々が見え始めている。御幡みはたケイはそこで始めて、自分が仰向けに倒れていることに気づいた。

「気づいているんだろ? 速波が出てる。デカブツの〈深きものディープワン〉が近づいてる。早く……」

 ちゃぷん、ちゃぷん、じゃぶん……と水を掻き分ける音が近づいてくる。徐々に大きくなるその音に、ケイは思い出す。自分の今の状況を。ヨロイの背にお婆さんを背負い、幾度も迫る界獣を避け、右脇に赤毛の少女を抱えて走った。シェルターを目前にして、過負荷で壊れるヨロイ。またか、と思ったこと。あと少しなのに、届かない。


 あの日、あの時、あの場所に、いたのはどうして僕なのか。

 もっと相応しい人間がいたんじゃないのか。


 右手の大剣の感触が、意識をクリアにしてくれた。界獣の振るう尾びれに弾き飛ばされたのだ。波と潮風に朽ちた鉄筋の壁を粉砕しながら、放り込まれたのは大海嘯で放棄され、半ば水没した小学校の校舎。じゃぶん、じゃぶんと水音が迫る。ケイは慌ててヨロイの身を起こすと、いつでも振れるように大剣を右肩に担いだ。その動作の感触に改めて驚かされる。自身の肉体を操るのと全く変わらない。同時に、これまで装着していた丁種ヨロイの鈍重さを思い知る。サイズこそ全高4.5メートルほどで近いものの、今、装着するヨロイの姿かたちは、丁種とまるで違う。丁種ヨロイ、即ち丁種方術甲冑が貧相な落ち武者なら、今、装着している"これ"は強固な鎧を纏った騎士だ。星辰装甲(Astro Armor)〈夜明けの風ドーンウィンド〉、と彼女は呼んだ。


 ずっとずっと、考え続けて過ごす日々に、君は現れた。

 選択の剣を伴って。


「お目覚めだね、我が騎士」

 ケイがちらりと左を一瞥すると、赤毛の少女がにんまりと琥珀色の瞳をゆるめていた。勿論そこにいるわけもなく、ヨロイの内、騎内の視界にのみ映る映像だ。見た目の歳は高めに見積もっても、十代前半くらいがいいところか。肩までのくせ毛の色は、ニホン国内ではまず見られない夕日のような赤。白磁の肌に、大きくつり目がちな瞳。つんと通った鼻梁。彼女を見る誰しもが、将来は常人離れした美女になりそうだと思うだろう。それもそのはずで、彼女は常人ではない。人間でもない。赤いくせ毛から覗く長い耳の先は、笹の葉のように細く尖っている。

 現生人類のどんな人種特徴にもないそれは、ミスティックレイス、大海嘯と界獣によって滅びに瀕した人類に手を差し伸べた、長命神秘の種族の証だ。激しく揺れるヨロイの脇に抱えられながら、もがむがと頬張った串焼きのイカを口から離さなかった姿からは、想像もできなかったけれど。

 彼女は自らを、泉の妖精、湖の貴婦人と呼んだ。

 ざぶん!とひと際大きい水音が鳴る。

 粉砕された壁の向こうから、飢え渇いた眼の列がこちらを見据えていた。太く肉の盛り上がった四肢を水中に着き、ゆらゆらと大きなヒレの付いた尾をゆらめかせながら。

 さっきはあの尾で横っ面をはたかれたのだ。瓦礫の塵煙に隠されていたから油断した。

「次は引っかからない」

 自身に言い聞かせるように呟いて、ケイは肩の力を緩めた。

「とにかく、アレの頭から脊椎の中枢系にソイツを叩き込めばぶっ殺せる」赤毛の少女がフフンと薄い胸を張る。「ニホンの方術甲冑の武装なんざ目じゃないぜ」

 なにせボクと酒樽ジジイが造ったんだからなーと続く言葉を聞き流して、ケイは目の前の敵に集中する。

 界獣。今から30年前、世界の形を変えた大海嘯とともに現れた、人類種の敵。人の構造物を破壊し、人を殺し、喰らい、時に攫う。海と空の彼方から無限に湧き出る、生物らしき何か。その丸く連なる眼が、夕暮れの光を受けて鈍く朱に光る。瞬間

 gGyYYyyyyyiiIiIIIiiiiiiiI!

 歯軋りに似た奇怪な鳴き声を上げながら、界獣が大きく口を開けて突進してきた。涎じみた液体が不規則に並ぶ牙から撒き散らされ、水面と反応してジュウジュウと音を立てる。振り上げられる前肢。水かきのついた鉤爪が、鎧の騎士を目掛けて迫る。

 ケイは左に倒れこむようにヨロイの体を傾けながら、大剣を振りぬいた。刃に沿って、黄色く輝く光が流れる。かすかな抵抗に手応えを感じつつ、倒れる勢いをそのままに、半壊した壁の基部を越えて廃校舎を出た。

 皮一枚ほどでぶら下がった界獣の右前肢が、ブスブスを煮えた湯気を立ち昇らせるなり砕け散った。

 GYYyyyYyAaAAAaaaaaA!!

 悲鳴のような声を上げて、がくんとその巨体が傾く。

「Blimey! 変異種相手の初陣なのにやるね」

「言ったけど、剣の心得はないでもないんだ」

 喜ぶ少女に言いながら、ケイは界獣から目を離さない。

 界獣が、廃校舎を這い出てきた。右前肢を失って四足歩行を放棄したのか。半壊した壁を越えると、残った前後の足を畳んで体をくねらせ、尾びれで強く水を蹴った。

「しまっ……」

 た、と言う間もなく、四足に倍する速さで界獣が迫る。海蛇のように身をくねらせ、水没した校庭を這うように迫り来る。ちくしょう、足を使わない方が速いなんて知らないよ。

 界獣は瞬く間にケイの目前に。廃棄市街を沈める海水を、一際強く叩いて跳び上がる。躱すにはもう間に合わない。騎士を呑まんと、がぱりと開いた顎の中は、夕闇に照らされてもなお真黒く。

 迷った時は、ただ真っすぐに剣を立てろ。

 思考が止まった刹那の間に、身体に染み付いた父の教えが、ケイの手足を動かした。柄は両手で、剣はただ中心に立て。

 ざくん、と重い手応えに、ケイは自分を取り戻す。騎士の大剣は真っすぐに突き上げられ、界獣の喉元から脳天を貫いていた。刃には青く輝く光が流れて―

「やったあっ!」少女がくせ毛をゆらして飛び跳ねる。「ボクの見込んだだけはあるね! 初陣、単騎で変異種を討伐なんて、できる奴は神性移植者にだってそうはいないぜ」

 どういう原理かわからないが、この剣は界獣の体を容易に破壊できる。少女を抱えて走ってから今の今まで、ほんの一時間にも満たない間の戦いで、ケイはそれを理解していた。刃は青く輝きながら界獣の喉から脳天を貫いている。間もなく、動きを止めたこの界獣も砕け散る。これで終わる。とケイは大きく安堵の息を吐こうとして

「…え?」

 できずに、そんな声が漏れた。ズシリと剣にかかる重さが増えた、そんな感触があった。

「あっ…」

 同じく異変に気づいたのか。少女は慌てて手元の光る板に目を落とす。すぐさま上げられた顔は、悪戯が見つかった子どものようで。

「少年、ゴメン。同属神性の星辰の力(Agathoster)をぶち込んじゃったみたい」

「それってどういう……」

 答えは、ケイの目前にあった。

 界獣の右前肢の切断面から、ブクブクと肉が盛り上がる。釣られるように、界獣がその身をくねらせもがき始めた。

 このままでは刺さった大剣ごと振り回されかねない。ケイは大剣を引き抜くと、バックステップで界獣を視野に入れながら後退する。界獣の喉から脳天の貫通痕はすぐにふさがり、右前肢も再生していた。その巨体も、剣で貫く前から二割増しくらい大きくなったように見える。

「見てのとおり、復活のためのエネルギーを与えちゃった感じかな」

 あははーと少女は笑って誤魔化す。実にかわいらしいが、かわいくない。こっちは必死だ。こみ上げる憤りにケイは叫んだ。

「不良品じゃないかっ!」

「そんなことはないぞ!」少年の叫びに少女は憤慨する。「確かあの辺の機構をいじってる時、ちょっと……ちょっといい火酒が入ったもんで、ジジイと一緒に呑んでただけさ!」

「胸張ってって言うことかよ!」

 そんな中学生もいいところなナリで酒飲むのかよとか、飲みながら作業すんなよとか、ツッコミたかったがそんな場合じゃない。

 AaaAAaruRURURuuruRurUruuuUUuuuuuuUuuuuu……

 目前の脅威は体力気力充実したとでも言わんばかりに、暮れ空に向かって咆哮した。

 ケイは右手の大剣を一瞥する。

「この剣、界獣を破壊できるけど、一定の確率で回復させるシロモノってこと?」

「違うよ! 敵性体の組織に接触すれば、自動で対立神性が呪付されるんだ。ただ今回はちょっと、ちょっと〈星に伸ばす手リーチフォーザスターズ〉の判別制御系に不備があっただけなんだ」ケイの視界に浮く少女は言いながら、忙しなく光る板を叩き、宙に浮く光の文字を繰る。繰りながら話し続ける。ちょっとだけ泣き出しそうに早口になりながら。「ボクらアルビオンのフェイがアップデートする最新の対立神性座標ライブラリを搭載してるんだ。あんな両棲類モドキぱぱっとやっつけられるんだ」

 目の前に界獣が、どんな道理も条理も無視した災厄が、人の世界への破壊、そのものがいる。手にした武器は不良品で、使えるんだか使えないんだかわからない。本来、界獣を撃退すべき海浜警備隊もここにはいない。いるのは自分、御幡ケイと、小さな泉の妖精だけ。

 でも、とケイは思った。状況は悪くて割とどうしようもないのに、気分はなんだか悪くない。悪態つけるのも、一人じゃないから。

「誤作動するんじゃ意味ないだろっ」

「呪文を直すから5分くらいなんとかしてよ!」忙しない手は休めずに、くせ毛の妖精が少年を見つめて言う。大きな瞳に、ちょっとの涙と大きな信頼を込めて。「できるだろ? ボクが選んだキミなんだから! Sir!!」

 なんなんだよその理由。まだ出会ってから1時間も経っていないのに。互いに名前すら知らないのに。

 なのに、とケイは思う。どうして出会って間もない僕なんぞを、そこまで信じてくれるのか。遺伝子調整者でもない、ただの汎人の僕を。

 応えたく、なってしまうじゃないか。この世界では取るに足らない、僕の全部を使って。

「えーと、あれだ、Yes, my lady!」

 ケイは大剣を星辰装甲〈夜明けの風〉の背に留めると、唸る界獣を見据えて向き合った。

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