第39話『飛耳長目②-ヒジチョウモク-』

 『美須々さん』は、鹿嶋美須々かしまみすずは、『田村八重子』で『あんりちゃん』で『通り魔』で、室江崇矢むろえたかやの母だった。

 その事実に、西澤顕人にしざわあきと滝田晴臣たきたはるおみは多大なショックを受ける。何故こんなことになっているのか。

 そもそもかなり若く見えたが、室江をいくつの時に産んでいるのか。

 二人はあまりの事実にすぐに言葉が出てこなかった。

 だけど、まずは晴臣が精神の再起動を果たし、宮紡みやつむぐ准教授に疑問を投げかける。


「お母さんなのに、どうして室江先輩はあの人を『田村八重子』さんだと思ってるんですか?!」

「それ! それだよ!!」

 晴臣の問に顕人も頷く。何故息子が母を認識してないのか。

 その問に宮准教授は困った顔をする。

「これも人には言うなよ。人ん家の事情なんだから」

 そう前置きをすると、宮准教授は彼が知っている室江の家の事情を語り出す。


 室江の家は所謂地主の家計で、その土地では有名な家なのだ。

 家の周辺に室江家の所有する土地がいくつもあり、不動産収入だけで充分暮らしているだけの財を成している程の大きな家なのだ。

 当主は室江崇矢の父であるが、実際のところは室江の祖母が取り仕切っているらしい。齢七十歳にもなろうというご老体であるらしいが、まだその辣腕を振るっている。

 室江の父が、鹿嶋美須々と出会ったのは幼い頃で、幼馴染という間柄だった。幾つか歳は離れていたが、仲の良い関係を保っており、思春期にはお互いを想うようになっていたらしい。

 そして鹿嶋美須々が十六のとき、室江崇矢が産まれたらしい。

 だけどまだ二人が学生だったということもあり、祖母は二人の中は認めず鹿嶋美須々と幼い室江を遠くにやってしまったのだという。

 室江の父には、この家の当主として相応しい娘を嫁がせるつもりだったらしい。

 しかし室江の父は何人もの女性と見合いの席を設けられてもとうとう一度も首を縦に振らなかったらしい。

 これでは室江の家が絶えてしまうと危惧した祖母は、小学生だった室江を次期当主として育てるため引き取ったのだ。

 祖母はその際、鹿嶋美須々に幾つかの条件を提示した。


 室江崇矢には金銭的に不自由のない生活をさせること。

 室江崇矢と今度一切会うことは許さない、ただし手紙のやり取りは良しとする。

 鹿嶋美須々に金銭的援助を行うこと。


 条件を突きつけられたとき、鹿嶋美須々は当然拒んだ。

 しかし若くして学歴も資格もお金もなく毎日ぎりぎりの生活をしていた彼女は、祖母からの「これも崇矢を思えばのことです」という一言に折れてしまった。

 冬に暖房もつけることのできない生活に、子供が手足を赤くなるまで擦っている姿は彼女にとって辛いものだった。

 暖かな家、飢えることのない生活、充実した教育。

 母と暮らしていては選べない自由な将来の可能性が向こうにはあった。


 彼女は祖母に手を引かれながらも何度も自分振り返る息子の姿を見送ったのだ。


 それでも手紙のやりとりだけはずっと続けていた。

 小学校でこんなことを学んだ。

 中学校でこんな部活を始めた。

 高校でこんな委員会に入った。

 些細なことでも、その手紙に息子の成長が描かれていた。

 今は会うことは許されないが、いつか、祖母が自分を認めてくれる日がきっと来る。

 そう信じて、彼女は慎ましい生活を続けていた。


 転機が訪れたのは、室江崇矢が二十歳になった時だった。

 彼の祖母から手紙が来たのだ。

 何かの間違いかと思ったが、達筆な字で『鹿嶋美須々様』と書かれていた。

 彼女はその封筒にどれから喜んだか。あの人が遂に私を認めてくれたのだ、そうに違いない。そう泣きそうになりながら手紙に目を通すが、それは彼女を地獄に突き落とす内容だった。


 それは簡単な内容だった。

 室江崇矢が大学を卒業後は、手紙を含む一切の干渉を禁ずるというものだった。

 彼が卒業するまでに、もっと遠くへ引っ越すようにも書かれていた。

 彼女は思った、どうして自分がこんなに辛い仕打ちを受けているのか。自分の子供と関わりを絶てだなんて到底受け入れられることはない。

 彼女は何度も祖母に手紙を送り、条件の撤回を頼んだが、とうとう祖母からの返事はなかった。


 気が付けば、彼女は室江の通う大学に来ていたという。

 もう何年も会っていない息子に一目逢いたくて。

 でも手紙のやりとりだけで、今の彼がどういう成長を遂げているかもわからない。今の自分に息子の姿がわかるのか。そんな不安しかない状態だったが、彼女は大人数が受ける授業に幾つか忍び込んだのだ。人数が多ければ、もしかしたら室江が受けている可能性があるかもしれないと思ったから。

 すると案の定、室江はいた。

 顔がわからないんじゃないかと不安だったが、一目でそれが息子だとわかって彼女は授業中声を殺して泣き続けた。

 それから彼女は度々大学に忍び込んでは、授業を受ける息子を見ていた。目立たない格好で、そっと少し離れた席に座る。


 それは彼女にとって離れていた時間を埋まっていくような大切な時間になっていたのだという。


「そして出来上がったのが、田村八重子たむらやえこというわけだ」

 宮准教授がそう言いながら肩をすくめる。

 顕人は宮准教授の話を聞きながら、あまり内容の重さに凹んでいた。まさかあの室江にそんな辛い過去があったなんて……! 晴臣に至っては涙ぐんでティッシュで目を押さえていた。それを見て顕人も少しつられて泣きそうになるが、何とか堪える。


「でも、その話、どうして室江先輩の視点じゃなくて、美須々さんの視点なんですか?」

 普通は教え子である室江の視点で語られそうなものだが。

 顕人が不思議に思っていると、宮准教授は「そりゃあこの話は美須々さんが語ったものだからな」と答えるので、顕人と晴臣は訝しむ様に宮准教授を見た。


「えっ、それってどうして……。先生、美須々さんと面識があったんですか?」

「俺じゃなくて小金井がな。小金井はその時、室江と幾つも授業が被ってたんだけど、どうにも室江を熱心に見ている人がいるのに気がついて、声をかけたらしい。ストーカーの類なら洒落にならんと思ったらしいが普通声なんてかけないだろ。でも話を聞いてみたら室江の母を名乗り、彼の子供の頃の話をしてくれたのでどうやら本当の話だと納得した。勿論室江には自分が此処に来ていることは言わないでほしいと頭を下げられ、困った末取り敢えず俺には報告を寄越したってわけだ」

 宮准教授は溜息混じりに呟いた。

 それを聞いて顕人は漸く納得した。

 午前中に鹿嶋美須々の写真を見せて彼女のことを聞いたのに「へえ、じゃあこの人が……」と呟いていた。どんな人物かは知っているが、どんな容姿かは知らなかった。事情には詳しいのに妙だと思ったら、そういうことだったのか。


「……でも、これってどうします? 皆、今回の件、室江先輩に内緒にしようとしてますけど、もうそういうの無理なんじゃないですか?」

 宮准教授の話を黙って聞いていた晴臣だったが、そろそろ空腹メーターが点滅しているのか、壁際に置いているスチール棚からカップ麺を持ってくる。電気ケトルに水が残っているのを確認すると、お湯を沸かし始めた。

 そういえば昼から随分経つが晴臣が何も食べてないのを顕人は思い出すが、そんな二人を余所に、宮准教授の表情は渋かった。

 間違いなく晴臣の言葉がその表情の理由だろう。

 確かに、これまで鹿嶋美須々の希望で、彼女の存在は室江に隠されていた。

 だけど殺人未遂まで起こした以上、彼女のことをこのまま隠し続けるのはいかがなものか。


 それに、多分だが、彼女を止めるには室江がいた方が良い気もするのだ。


 でもそこはもう家族の問題になってくる。

 顕人や宮准教授達が安易に踏み込める領域ではないのだ。

 宮准教授は重々しく溜息を着くと、「それに関しては、俺に預けておいてほしい」と呟くので、顕人も晴臣ももう何も言えなかった。

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