第5話

 早霧谷が何を言っているのか、わたしは十秒ほど考えてみたが、意味がわからないことに変わりはなかった。

「わたしが、ムジカレのモデル?」

「……あんた、本当に井守千尋? 偽物じゃないの?」

「そんなことはないと思うけど」

 ラノベの、しかも国内800万部、アニメ化までされた作品のヒロインのモデルだ、ということがもしも本当だとしたら、そんなことを忘れるわけがないし、それを使ってどんどんマウントを取っていくだろう。ラノベオタ、マウントの取り方がかわいらしいから、もっとぐうの音も出ないような、自分が作者ですとか、自分が絵師ですとか、そのレベルでマウント取ってよと思う。

 っていうか、もうわたしが公式なんじゃないかというくらいに衝撃の事実なのだけれど。

「ヒビナ、あんたも関係者なんだよね。ごめん、覚えていないんだ。わたしが紅和奏のモデルだとして、そしたらあんたは誰のモデル?」

「辺見ユウは私の姉だよ」

「は?」

「覚えてないの?」

 アクセルから足を離した。最寄りのインターチェンジまで一キロとちょっと。白山インターを通過し、路肩になんとか車を寄せると、わたしは今までのことを話はじめる。

「ヒビナ、聞いて」

「う、うん」

「わたし、ムジカレ知らない。読んだこと無い。そのラノ一般協力者には確かに応募したけど、ムジカ・レトリックの園なんて作品見たことないんだ」

「うっそ」

「嘘じゃない。断片的に記憶はあるけど、FE文庫だって知らないし、辺見ユウという作家も、ぽつねんという絵師さんも聞いたこと無い。この、わたしが、だよ」

 誇張じゃない。この、わたしが、というのは、十数年ラノベを読み続け、社会人になってからは、電撃、富士見、スニーカー、MF文庫J、ガガガ、GA、HJ、ファミ通、その他有名レーベルの新人賞は全作品くまなく読むようにしている経験と量から出ている自負である。いつか、自分がラノベ作家になる時のための情報収集と傾向と対策。その積み重ねから出た本音だ。

 それは2017年以降の話だから、2009年にデビューした辺見ユウ、ぽつねん、「ムジカ・レトリックの園」を知らないということとは直接結びつかなかったかもしれない。しかし、「ムジカ」。つまりMusica。音楽にまつわるキーワードをわたしは見逃しただろうか。アニメ化のタイミングで、新潟の英進堂書店にメディアミックス作品の棚が出来てもスルーしただろうか。

 何より、そこまでの話題作品を知らないことを恐怖と思わなかったのか。

 答えは否だ。わたしはしっかりとムジカレは読んだはず。なのに、何も覚えていない。

「ちぃ、最近怪我でもした?」

「してない。ストレスによる健忘って可能性はあるかもしれないけど、自分がヒロインのモデルだなんてことが本当だったら、忘れるわけないもの。絶対に」


 辺見ユウ、本名、早霧谷有紀子。ヒビナ、日陽奈の姉である。1986年生まれ、わたしたちよりも5歳年上だ。ヒビナの姉としてはわたしも知っている。同じ高校を出たのち、確か京都大学の文学部に合格して、優秀だなあと思っていたら妹も同じところに合格していたのである。しかし、早霧谷有紀子=辺見ユウであることはわたしは知らなかった。いや、覚えていないだけかもしれないが。

「っていうか、辺見ユウ大丈夫なの?」

「なにが」

「ミスリル経典のテロ。作者ヤバいんじゃない」

 早霧谷は返事をせず、スマホをぎゅっと握る。

「連絡、帰ってこないんだね?」

「……うん」

 時計を見る。9月12日の午後10時過ぎだ。二回の給油を経て、ずっと運転している気がする。ここから新潟までは350キロほどだ。

「辺見ユウ、新潟にいるね」

「おそらく、は」

 再びの北陸自動車道。辺見ユウを追う旅が始まった。


 翌朝5時。わたしと早霧谷は一心不乱にズワイガニの足を剥いていた。新潟県の中央らへん、長岡に到着したタイミングで、早霧谷は実家に連絡がついた。辺見ユウは、先週どこかにふらっとでかけて行ったらしい。だから、家族も行方を知りたがっているのだと。無計画に辺見ユウを訪ねようとしても、出会えなかったわけで。

 しかし、日曜日の早朝である。長岡である。とくれば、寺泊で魚を食べよう結局寿司は食べられなかったし、と茹でたてズワイガニを二人で2万円分買って、ただただ食べていた。カニ、うまい。終始無言になる。

 脚を14本堪能したタイミングで、早霧谷が口を開いた。

「私達、寺泊で何をやっているんだろう」

「一応、逃避行だよ」

「ああ、そうだ。逃亡の身なんだ」

 この数時間、ミスリル経典テロ事件(ムジカレの名前を事件に残したくないという配慮なのだろう)での被害者数は増えていなかった。昨夜から次々と実行犯が射殺されているらしい。物騒な、とは思うが、わたしが、早霧谷が死ぬよりずっといい。

「そのラノのレビュー、どうなるのかな」

「中止になるかもね」

「うん……」

 ムジカレについて話すことがタブーな季節がやってくることだろう。たとえ、過激派が全員いなくなっても、出版社が再び刊行するだろうか。わたしの所有しているムジカレはおそらく警察が押収しているか、いや、保土ヶ谷で襲ってきた奴が燃やすなりしただろう。ああ、ムジカレ。どうしてわたしに与えられないのか。

「これからどうする」

「あんたが保土ヶ谷に帰りたければ、保土ヶ谷まで送る。あんたが怖いから新潟に帰るというのであれば、新潟まで送る。一人で寂しい、わたしでいいというなら福井に行こう」

 辺見ユウの妹ということがバレ、再び命を狙われることになるくらいなら、わたしと一緒にいたほうがいい。というかわたしも命を狙われる立場なのであれば、危険度はイーブンなのだから……。

「福井も、東京も、新潟も危ないかもしれない」

 カニの身をあらかた平らげると、わたしは七輪と日本酒を二合注文した。

「ちょっと、お酒はやばいでしょ」

「どこに行っても、わたしたちには逃げ場が無いよ。数日、寺泊にとどまろう」

 事件の解決、ほとぼりが覚めるまでわたしたちがいる、と思われる場所にいてはいけないのだ。

「駐車場は無料だし、いいよね?」

「……ちぃ、あんた決断がはやいとこ好きだよ」

 カニの甲羅でミソを炙りながら、久保田の冷酒で乾杯をする。


「……はい。日曜日に申し訳ありません。井守です。今、新潟です。その、ご存知とは思いますが、ミスリル経て……、え、警察から連絡が行っていました? はい。そのとおりです。なんでしたっけ、そう。PTSDです。その検査に一週間かかるとかなんとか、っていうので、はい。その、休みます。警察の人が? 休ませろって? ええ。そうです。何も手につかないと思います。はい。仕方ないんです。ええ。わたし……え、どうして? どうして、わたしが? 知っているんですか? え? 社内広報? え? え? ……すみません、気力が……。よろしくおねがいします」

「休み取れた?」

「う、うん……」

 上司には、今週いっぱいの休みを申請した。だがしかし、申請をする前から上司はわたしの精神を暗示していたそうだ。ムジカレの名前を聞いた瞬間にぴんときたそうである。三年前、新入職員だったわたしは、新入職員の自己紹介欄にこう書いていたそうだ。

『ライトノベルが大好きです。そして実は……ムジカ・レトリックシリーズのヒロインのモデルなんです。ラノベのヒロインのように、品行方正一生懸命がんばります!』

 馬鹿じゃないのか。ほんとうに三年前のわたしは。社会人たるもの、面倒を呼び込みそうな趣味については最低限しか言わないほうがいいのだ。ラノベが趣味なんて言うんじゃない。読書と言いなさい読書と。その内容をしっかりと上司は覚えていたそうで、たいそうわたしがショックを受けていただろうと心配してくれたそうだが。

「今日はもう休もう」

 明日働かなくていい、ということが決まった途端、早霧谷はエビフライとエビの刺し身、岩牡蠣も二人分注文して、おまけでホタテの貝柱のソテーまでついてきた。酒が進む進む。今この魚介がおいしくてお酒がおいしくて、あれ、早霧谷。

「どうして、泣いてるの?」

「え? ……ちぃも」

「うそ、あれ」

 今になって思う。それは、自分たちが生きていることを実感したからだと。


 相模原で一人目の殺人があってから、およそ24時間。ミスリル経典テロ事件は、首謀者の射殺をもって一旦の解決を見た。89名の死者、200名以上の負傷者がこの時発表され、その後一人たりとも犠牲者は増えはしなかった。

 しかし、京都の下鴨に執筆のため滞在した辺見ユウは、事件に関するコメントを一つも残さないまま失踪してしまったのである。イラストレーターのぽつねんは9月の20日に、ムジカレの追悼イラストをツイッターにアップ。50万リツイートを残すとともに、辺見ユウが心配だとメッセージを発信した。

 そして、FE文庫は追悼文を旧ホームページの頭に掲載をするだけで。

 

 わたしの当面の懸念事項であったそのラノについての連絡は、9月22日。連休最終日に電話がかかってきたのだった。

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