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(呂街くん小切手です。万能のお薬です。呂街くんの貧乏性にいかほど効くでしょう。

 てきめんに。まあそれは僕のお給金なのですけど。エリーの餌を買いましょう。もうお夕飯にちょっかい出されるのはごめんです。

 ねずみは。先生が尋ねた。

 

 ダメです。にんじんが食べられます。

 にんじん好きなのはうさぎです。

 ねずみも食べます。ねずみは何だって食べます。先生だって食べます。


 見てみたいですね。先生がそういうのでねずみを先生のベッドに放した。エリーに食われないように匿っていたねずみだった。僕は少し先生に怒っていたのかもしれない。先生はねずみに噛まれたりしないと高をくくっていたのもある。先生はなにせ悪魔なので。それに僕のねずみが生きているかどうか僕にはわからない。

 ねずみは先生を噛まず布団の綿を食い過ぎて死んだ。ねずみは生きていた。生きていたのに僕が死なせてしまった。泣いていると先生が起きて先生も泣いた。先生が一緒に泣いてくれたのが嬉しくて、僕はやがて泣き止んだ。先生はひとしきり泣いてからねずみの腹を開いて綿を除いてからエリーに食わせた。エリーは機嫌が良かった。シーツが血で汚れたので先生は床で眠った。

 先生は本を枕にした。テレパシーの歴史とあった。後日変な夢を見たと言っていた。みんな肌が緑で空が紫色で星がまたたいていて先生は一人ぽっちだったそうだ。


 呂街くんはいませんでしたがケネディに会いました。たいへんな大酒飲みでしたね。びっくりしました。


 僕は微笑んで焦がした豚肉の残りを煮たものを口に運んだ。一度焦がした肉はどうやってもまずかった。先生は何かを察していたのか肉に手をつけず一人でサラダ菜を齧っていた。兎のようだと言ったら私は兎だったんですねと言って笑った。

 お疲れのようだったので眠ってもらった。高野さんが紙束を取りにきた。お渡しすると代わりに青い花をくれた。何が書いてあるんですか。尋ねると高野さんは話を聞いてなかったの? としかめつらをしてから世界の秘密だよと言った。先生は偉大なのであった。


 本当は何が書いてあるのかは知っているけれど、高野さんは僕に質問されると少し嬉しそうにするので訊ねた。高野さんが嬉しそうだと僕も嬉しい。こんなに仲良しになれたのは高野さんが初めてなので。


 先生とは、仲良しとは少し違うと思っている。前は、先生は先生で僕は生徒だったし、今はもっと変な関係だ。先生も高野さんも一人同士で勝手に喧嘩して僕を味方にしようとしないので助かっている。ふたりのどちらかの味方になるとしたら僕はどっちの味方をしたらいいんだろう。)







 先日の悪魔の外出の件を報告すると、案の定本部はざわついた。二重三重に確認を取られたが『担当者にそう聞きましたが、詳しい事実確認までは』としか答えようがなく、まあ上で協議するので保留、という話になったのだが、保留している間に何かまずいことが起きるのではないかという気がしてならない。

 ともあれ俺の仕事は変わらず、今日も今日とて花を持って呂街くんの元を訪れる。今日の花はアジサイの切り花だ。青くなるのは土の色が酸性のときだったかどうだったか。手渡すと、呂街くんは「活けるところがないんですよね」と眉をひそめた。

 その、どこか苛立ちらしきものの浮かぶ表情を珍しく思った。


「花瓶、余ってたろ」

「エリーが割っちゃいました」


 呂街くんは「先生」の猫とうまくいっていないらしい。そして俺がそれを意外だと感じる以上に、彼自身がその言葉が含む険に驚いているようにすら見える。

 呂街くんは首を振り、いつものように、いやいつも以上に眉を下げた。


「昨日のお夕飯、余らせちゃって。高野さんも食べきるの手伝ってください」


 いつになく情けない、泣きそうな気配すら漂わせた呂街くんにノーとは言えなかったのだ。

 その結果供された、煮物とスープのあいのこのような豚肉の切れがいくつか浮いた暗い色の料理を見て思わず呂街くんに問う。


「呂街くんさ、もしかしてなんでも刻んで煮込めばいいと思ってる?」

「だって大体何でも火が通って柔らかかったら食べられますよ」

「……そうだね」

「それにお水入れて蓋すると、ただフライパンで焼くより静かになるので」


 何が静かになるのかはあまり聞きたくなかった。もっちゃもっちゃと火が通り過ぎて硬くなった肉を咀嚼していると、同じく硬い肉をどうにかこうにか飲み込みながら、「先生にはあんまり食べさせたくなくて」と呂街くんは呟いた。


「先生は柔らかいお肉のほうがお好きなんですよ」

「大概の人はそうだよ」

「でしょう」


 そう頷く呂街くんはどこか得意げだった。


「初めて先生にお会いした時、『珍しい名前ですね』と僕に仰ったんです。僕、もう何百回も初対面の人に言われてることですよ。悪魔でもおんなじことを言うんだなあと思ったら、なんだこの人も普通の人なんだなあって、先生も、」


 目を細めて思い出を語っていた呂街くんの瞳に、どろりとした澱のような輝きが浮かんでいる。思わず息をつめて呂街くんの目を見つめる俺の視線に、ふ、と呂街くんが言葉を切った。


「ね、高野さん」


 ちいさく、かすれた声が俺の背を粟立たせる。


「頭の周りをね、ずうっと虫が飛んでるんですよ、それで『見たいものしか見えないんですよ』って言うんです。どう思います?」


 誰の頭の周りとは、呂街くんは言わなかった。ただ、どこか虚ろな目が俺の耳のあたりをじっとみつめていた。


「僕の見たいものじゃなくて、皆が見てるものが見えるようになったら、優しくなれると思いますか」


 なれるよ、と、変われるよ、と、俺は言うべきなのだろうか。


「……呂街くんはもう十分優しくていい子だろ」


 俺は他人に期待しない。求めない。変わってほしいとも愛してほしいとも思わない。

 呂街君の不足と稚さを、俺は勝手に、愛している。だから変わらなくていい。


「呂街くんは、そのままでいいんだ、そのままの呂街くんが好きなんだ」


 ゆっくりと言い聞かせると、呂街くんがつと目を逸らす。机に置かれた大ぶりなダリアの花に、その鼻梁が隠れる。

 呂街くんが次に言葉を発するまで、俺は彼の唇の震えを見ていた。


「ねえ高野さん、エリーを持って行ってくれませんか」

「……先生、怒るぜ」


 呂街くんの優しい先生が、呂街くんのことを叱るかどうかなど俺は知らない。

 けれど俺がそれを口にした瞬間、悪夢を見て飛び起きた子供のように呂街くんの顔がかわいそうなほどに強張った。

 俺は彼に何も求めたくはないけれど、彼が求めるならば答えてやりたいと思う。


「いいよ、俺が怒られてやる」

「……嘘です。冗談です」


 忘れてください、と呂街くんは早口に言い切り食べかけの食事の皿を片付けた。

 その日、俺は悪魔とすれ違わなかった。






(本当の出会いの話をすると先生は二年三組の担任として教室に入ってきて、僕はドアのほうから二番目の列の前から四番目に座っていた。先生はみんなで仲の良いクラスにしましょうねと言って、その時誰かが僕のほうをちらりと見たのだと思う。僕は変な奴だと言われていたし、きっと変な奴だったのだと思う。先生は僕ににっこりと微笑んだ。これが先生、本物の先生との出会いだ。僕はこのことを生涯忘れないだろうと思った。

 けれど今日僕は高野さんに違う話をした。あの人の話をした。)

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