第一章

『今昔物語集』巻第二十「天狗を祭る法師、男に此術を習はしめむとする語」第九


 ……男我れにも非ぬ心地して家に返ぬ。法師は泣々く家に返て、二三日ばかり有て俄に死にけり。天狗を祭たるにや有けむ、委く其の故を不知ず。男はさらに不死しなずして有けり。此様のわざる者、極て罪深き事共をぞすなる。

 然れば、いささかにも、「三宝に帰依きえせむ」と思はむ者は、努々、永く習はむと思ふ心無かれとなむ。此様の態する者をばと名付て、人にあらぬ者也と語り伝へたるとや。

(小峯和明校注『今昔物語集 四』岩波書店(新日本古典文学大系)、一九九四年、二四二頁 ※引用に際して片仮名を平仮名に改め、適宜ルビ・傍点を施した)



『人狗―古代・中世の民間信仰』第二章、七四頁


 前章でみた通り、人狗にんぐは民間伝承中の存在であった。天狗が仏敵であるという認識が貴顕の間に一般的なものとなるにつれ、その弟子である人狗も同じように語られるようになるのが自然の趨勢である。これがために京都の公家、特に公卿くぎょうと呼ばれる上流公家との交際はかなり限定的で、多くの場合は公家の側で秘匿されたと思しい。貴族は日記をつけるのも大変重要な役目であったが、その中に人狗関係の記事を探すのは至難の業である。

 ところで中世の京都といえば、有名な兼好法師の『徒然草』(八九段)に、「猫又」という怪物に関する記述のあることが知られている。そこでは「猫又」の噂に怯えたある僧侶が、暗がりから飛び掛かってきた自身の飼い犬に驚いて醜態を晒したという、実に他愛ないことしか書かれていないが、これには前提となる伝承が存在することが分かっている。

 以下本書でも度々触れることになるこの物語は、公卿と人狗との交流を描いたものとして貴重である。民間に沈潜して久しい人狗が表の世界に姿を見せたのは、正和二年(一三一三)秋のことであったという……





第一章


 一両の毛車が、洛中を目指して進んでいる。賀茂川の河原に至近のこの辺りでは、洛中に比べて大きな人家はまばらで、進む道の脇には背丈もばらばらに草々が茂っている。二人の車副くるまぞいが牛車の前を歩き、牛飼童うしかいわらわが毛艶の良い牛に車を牽かせている。月の照る夜であり、車副の手にした松明の明かりがなくとも、進む先の見通しは良い。日中は陽光のもとでは薄汗をかく程であったが、子刻の今では吹く風も秋に相応しく涼やかで、一行は心地良い夜風に虫の音を聞きながら、洛中の屋敷へと向かっているのであった。

 牛車の屋形からは、主人と思われる男の声が、微かに漏れ聞こえている。時々、それよりも随分と若い男の声も聞こえる。この二人は同車で出かけ、今また二人で帰宅しているらしい。親子でもあろうか。年かさの声はゆっくりとした速さで、何かを語り聞かせる風である。若い声はそれに相槌を打ち、時々は問いかける。月、紅葉、恋といった言葉が聞こえる辺り、車中では雅事にわたる事柄が講義されているらしかった。

 車副の二人も、後なる車を振り返りながら、僅かに聞こえてくる声に耳を傾けていたところ、突然牛車が車軸を軋ませて動きを止めた。牛飼の少年に何事かと尋ねるが、彼にもよくは分かっていないらしい。困惑した様子で、

「牛が、何かに怯えておる様でして…」とだけ答えた。

 車の中からも声がかかる。車副の一人が状況を報告しようと、開かれた物見に近寄った。すると、これまでの心地良い風が、生温かく、生臭い、何とも不快なものへと変わり始めた。その風はすだれを通って車内にも吹き込み、何か言おうとした主人の男は、言いようのない不安に駆られ、そのまま口を閉じた。何かが近付いて来る。それも歓迎できるようなものではない何かが。車副も今は冷や汗を垂らし、ついさっき通った道をじっと見つめている。いつの間に流れて来たものか、月が厚い雲に隠れていた。二本の松明だけが、頼りなく一行を照らしている。後も先も、道の奥は見えなくなっていた。

 あの暗闇から何かが近付いて来ている。何も見えないが、それだけは間違いない。一体何なのか、考えても分からない。ただ想像だけが限りなく膨らみ続ける。

「車を出せ。ここに居てはならん」

 主人が声を出した。その低く鋭い調子に我に返った車副が、早く出発させようと牛飼を急き立てた。牛飼もそれは先刻承知であるが、何としても牛が動かないのである。まるで魂だけが抜き去られたように、地に根を張ったように、あらぬ方を見たまま動かない。車副二人は牛飼と一緒になって牛をこうと躍起になるが、まるで応える様子はない。

 牛飼は、牛の尻を鞭で打ちつけていたが、突然動きを止めた。

「何だ、どうした⁉手を休めるな、打て打て!」

 車副が大声で咎めると、牛飼は震える手で持った鞭で、牛車の左後方を指した。車副達がその先を見た。見通しは効かない。咄嗟に松明を突き出すと、路傍の草叢がぼうっと浮かんで見えた。だがその草叢の中に、明らかに不自然な闇がわだかまっている。黒雲と形容するのが相応しい、禍々しい塊がそこにあった。何なのか検討もつかないが、一つだけ確信を持てることがあった。誰ともなく、それを声に出した。

「……あれだ」

 この怪異の正体。それは、彼等から二十歩と離れぬ場所に凝っている、その黒雲に相違なかった。車副も牛飼も、その確信と共に凍り付いた。ゆっくりゆっくりと、ただ揺らいでいるかのようにゆっくりと、こちらに近づいて来る。目に入れてしまったそれを凝視するのみで、最早何も考えられない。ただ、触れてしまえば最期、生きてはいられないことだけが、肌に染み込むように伝わってくる。

 だが、一行の主人は、中々肝の据わった人物であった。萎えそうになる心を励まし、同車しているいま一人の肩を掴むと、車外に向かって下知げちした。

「車は捨てる。地下じげの家でも乞食の小屋なりとも、何処いずこにても落ち行け」

 車内から、落ちる、という言葉が聞こえたことで、生への欲求に火が着いた車副等三人は、蒼白した顔はそのままに、じりじりと後退を始めた。車内の二人も、供の手を借りずに下車しようと動き出す。

 死に体であった一行が息を吹き返すと、その気が伝わったらしく、黒雲の揺らぎが大きくなった。風の吹く音を立てながら、徐々に黒雲が形をとり始めている。頭の様なものが突き出てきて、黒雲の向いているのがこちらであることがはっきりと分かる。形をとり始めたそれは、どっと地面に降り立った。着地すると同時に、するすると地面を這うように間合いを詰めて来る。

「来るぞ!」

 死に物狂いの車副達は、黒雲に松明を投げつけながら、いている太刀を抜いた。切っ先は震えていて、狙いは定まっていない。生き残りたい一心で、抜刀するのが精一杯だった。黒雲は、十歩と離れぬ場所まで近付いている。この間に下車しおおせた主人は、同車していた若者の肩を抱き、車の陰に隠れた。牛の側を離れた牛飼の少年が、精一杯腕を広げてその二人に覆い被さる。もう逃げる余裕はない。彼等が思ったよりも、動きだした黒雲は素早かった。車副達が堪りかねて叫び声をあげる。主人は固く目を閉じ、心中に弥陀みだの名号を唱えた。

 黒雲は、車副の悲鳴を合図に目の前まで一息に詰め寄ると、四つ足の獣の姿をとって彼等に襲い掛かった。獣は、車副達の切っ先を身を捻ってかわし、しなやかに着地すると、後ろ足で地面をえぐりながら飛び掛かった。車副は二人とも地面に飛び込むようにして、危く爪の一撃から逃れた。獣はゴロゴロと雷鳴のように吠えて威嚇すると、障害のなくなった牛車の側面を行ったり来たり、中を窺う様子だ。

 この間に立ち上がった車副が決死の反撃に転じた。我武者羅に太刀を振り回し、獣を少しずつ牛車から遠ざけてゆく。

 だがそれが限界だった。じりじりと後退していた獣は、さっと後ろに跳ぶと、凄まじい咆哮と共に躍り掛かった。飛箭ひせんにも等しい突進に、車副は思わず目を瞑った。弾き飛ばされ、散々に引き裂かれるのを覚悟した。

 だが、次に聞こえたのは、何者かが目の前に滑り込んだ音と、獣の短い悲鳴であった。目を開いた車副くるまぞいと獣の間に、総髪そうはつを無造作に束ねた背の高い男が立っていた。男の太刀から血が滴っている。獣に目を据えたまま、男が低い声で言った。

「動かずにじっとしていろ」

 腰を落とし、太刀を片手にしたまま、獣ににじり寄る。車副には、獣が怯んだ様に映った。僅かな睨み合いの後、獣はさっと後退り、元の黒雲に姿を変えると、そのまま闇に溶け込んで見えなくなった。雨後の陽気よりも一層不快な、生温かく生臭い風は、次第に涼やかな秋風に戻り始めていた。暫く様子を窺っていた男は、取り出した布切れで太刀を拭い、血に汚れたそれを放り捨てると、鍔音を響かせながら鞘に納めた。

「もう大丈夫だ」

 黒雲が現れて以来、理解の及ばぬことが連続し、車副達は放心状態だった。まだ火の灯った松明を拾い上げ、男が歩み寄る。見たところ山伏のような装束だが、軽装の鎧である腹当はらあてに、篭手・脛当を着している。一体何処から飛び出してきたのか分からなかったが、息を切らせるどころか、汗一つかいている風ではなかった。車副達は、強張った体でぎこちなく礼をしたまでは良かったが、太刀を仕舞おうとして上手くいかなかった。手が震えている。力を込め過ぎて、握った太刀を離せなくなっていた。

「少し座っていた方が良い。無理に引き剥がそうとすると怪我をしかねん」

 男に促され、無言で頷きながら、車副達はその場に座り込んだ。中々物も言えない。男が両手に持った松明のおかげで、少しずつ平静を取り戻しつつあるのを感じた。

 車の陰から、主人以下の三人が互いに支え合いながら姿を見せた。

「何だ。どうなったのだ?風が、変わった様だが…?」

 主人の姿に、慌てて立ち上がろうとする車副達を、「構わぬ。ただそうしておれ」と制して、男に向かって尋ねる。再び現れた月と松明に照らされた主人と、それに同車していた若者は、烏帽子えぼし狩衣かりぎぬ姿である。貴族であると思われたが、主人の方は幾らか手の込んだ狩衣を着ている辺り、その中でも上流に属し、公卿くぎょうと呼ばれる階層の人物らしい。男は、一応のことで礼をしてから、使い慣れぬ丁寧な言葉遣いを意識しながら答えた。

「ひとまず追い払えました。今晩のところは御心配には及ばぬものかと」

「そ、そうか…して、そなたは?」

紀政綱きのまさつな

「そうか。紀政綱か。その名は忘れずに居よう。のう、忠兼ただかね

 忠兼と呼ばれた若者が頷いた。その顔には玉のような汗が浮かんでいた。

「此方も名乗らねばな。わしは、前大納言さきのだいなごん藤原為兼ためかねじゃ。京極と称しておる。覚えておくと良い。助けになれることもあろう」

かたじけなく存じます」

「何の、礼を言わねばならぬのは我等の方よ。そなたのお蔭で皆命拾いしたのだからな」

「いいえ、お供の人々が戦わなければ、おそらく間に合わなかったものかと。それがし偶々たまたま通りかかっただけのことで」

「おう左様であったか…そなた達もよく働いたな。後日必ず報いよう。よくやってくれた」

 主人の言葉に、車副達は頭を垂れた。もっとも蹲踞そんきょでも平伏でもなく、座り込んだままではあったが。常ならぬ状態だからこそ許されるとは言え、政綱には何となく京極為兼という人物が貴族にしては好ましく感じられた。

「さて政綱。通りかかった次いでじゃ。我が屋敷まで同道してはくれまいか。京極の毘沙門堂近くで、そう遠くはない。どうであろう?」

 特に行く当てもなく、行かねばならぬ場所もない政綱である。次いでということで、屋敷まで護衛することにした。

「承りましょう」

「よしよし。これで皆も安心できるというもの。着いたら、型通りではあるが、何か礼などしよう」

 政綱は無言で頭を下げた。

「いやいや。さぁ、参ろうか。随分遅くなってしもうた」

 出立の合図に腰を上げた車副達を見て、為兼が呆れ顔で言った。

「そなた達、いつまで太刀を持っておるのだ。ほれ、早く仕舞わぬか」

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