第9話 内情

9-1 室内

 「失礼します」

 美紀に促された葵は、<203>室に入った。玄関には三輪車があり、居間の隅には幼児向けのおもちゃを入れたおもちゃ箱があった。

 「お座りください」

 美紀に言われて、葵は椅子に腰かけた。

 「いきなりですみません。改めまして、私、警視庁捜査一課の山城葵と申します」

 そう言うと、自分の名刺、警察手帳をテーブル上に差し出した。

 美紀は、グラスに入れた麦茶をテーブルに出しつつ、言った。

 「正直、そろそろ、刑事さんとかが来られるとは思っていました」

 「そうですか。既に私どもからご連絡差し上げていました」

 「はい。既に近所の交番の方から聞いていました」

 美紀はそう言うと、続けた。

 「ですが、私自身、どう行動すべきか、分からなかったんです。犯罪なんて、普通に生きていれば、他人事ですので、それが自分に降りかかって来るなんて、思ってもみなかったんです。それに私は今では、祐也にとっての1人だけの肉親です。少なくとも、祐也を傷つけるというか、あの子を精神的に動揺させることだけはしたくなかったんです」

 「唯一の肉親とおっしゃいますと、恐れ入りますが、御主人は?」

 「離婚したんです。最初は良い人と思って、結婚したけど、ギャンブルやらDVやらで、諍いが絶えませんでした。だから、祐也が物心つく前に離婚しました」

 「そうですか」

 <家庭>

は、

 <プライベート>

すなわち、

 <私的時間、空間>

として、外からは不可視の存在になることが多い。故に、一歩間違えれば、様々な問題の火種が発火する現場とも言える。葵は、美紀の話に同情しつつも、刑事である以上、捜査を優先せねばならない立場である。先のファミレスで整理したことを聞き出せねばならない。

 「失礼ですが、離婚された後は、元の戸籍には戻らなかったんでしょうか」

 「はい、藤村の家に戻りたくなかったんです」

 「なぜ、でしょうか」

 「父は弘はね、いつまでも昭和親父でした。特にほら、刑事さんバブル期って聞いたことありません?」

 この言葉には、葵も聞き覚えがある。1990年前後の加熱景気のことである。その後の所謂

 <平成大不況>

が、日本の社会構造を大きく変え、日本の(主に男性)労働者の生活を安泰なものとしていた

 <終身雇用>

 <年功序列>

を破壊し、2030年代の今日では、最早、当然となっている

 <リストラ>

すなわち、労働者の解雇、また、それによる世界の不安定、格差の拡大をもたらしたのであった。このこと自体は、葵もかつて、歴史テキスト等で学んだことであった。

 「私自身も、大学を出た後、就職したんですが、所謂リストラにあったんです。その後、離婚した夫と一緒になってもたものの、上手くいきませんでした」

 美紀はこれまでの離婚事情を話しつつ、更に続けた。

 「リストラで失職するとほぼ同時に、結婚が決まった時、父は喜んではくれました。私の身を案じてのことかもしれませんが、母がどちらかというと専業主婦の傾向もあったので、男は外、女は内の性別役割論のようなものもあったのかもしれません」

 葵は問うた。

 「ですが、そうだとすると、恐れ入りますが、お父様は離婚となると、不快に思われたりはしませんでしたか」

 「おっしゃる通りでした。母も同じような感じでした。ですが、祐也のこともあるので、この時は、押し切りました」

 葵は内心、

 「祐也君のことを考えれば、その方がええやろ、母は強やね」

と葵は一瞬、思った。

 「失礼ながら、捜査の一環として、最近の佐藤さんのお父様との通話記録等を調べさせていただきました。恐れ入りますが、どのような会話だったのでしょうか」

 「時々、生活援助を受けていました。両親と対立しての離婚とはいえ、少しは私の苦しみをも理解してくれていたようです」

 「分かりました。では、お兄さんの克雄さんのこともお伺いしたいんですが」


9-2 克雄の行方

 「ああ、兄のことですね、すみません、私も行方が分からないんです」

 「連絡は取ってらっしゃらないんですか?」

 「はい、兄は長らく行方不明なんです」

 「と、おっしゃいますと?」

 「私の兄は3歳年上で、大学を2020年に出たんですが、その後やはり、渡岸の離婚とほぼ、同じ頃、リストラされたんです。それで失業してしまいました」

 「その後、再就職ですとか、仕事は探されなかったのですか?」

 「しようとしました。ですが、どうもうまくいかず、そのうち、親と、もめだしたようなんです」

 話が肝心の部分に近づきつつあるようである。

 「すみません、辛いことかもしれませんが、詳しく、お聞かせ願えないでしょうか」

 「本当にわかりません。ただ、父は、男は外で働いてなんぼ、という考えの昭和親父でしたし、母も自分の考えを譲らない人でした。特に父は、バブル期に良い目をして、周囲もちやほやしていたので、その時の経験もそうした考えを強めていたのでしょう。母は母で、勝手な思い込みでものを語り、私達、子供から反発されると、反発されると何日間も不機嫌になるという人でした」

 「そうでしたか」

 勝手な思い込みで子を傷つける点は、葵の毒母・真江子も同じであることから、葵には、何となく、藤村親子の諍いがイメージできないではなかった。

 美紀は話をつづけた。

 「昭和の男たる父は≪女の子には優しくしろ≫の考えの下、離婚後の私には優しくしてくれていたのかもしれません。ですが、、兄に対しては、≪男はたくましく、社会の中心≫の考えの下、厳しく接するのが良いと思って、現実の社会の流れや兄の特性等も考えず、一方的に正社員としての再就職を言う等、厳しく接していたようです」。

 「それを見てらしたのですか?」

 「いえ、直接はあまり見てません。離婚前後の私は私で生活の建て直しに大変でしたから。このことは両親から、後程、電話で聞いたりしました。おそらく、兄は、親とのいさかいが嫌になったのでしょう。その後、兄が行方不明になった後、何度か、兄のスマホに連絡しましたが、『この番号は使われておりません』のアナウンスが流れるばかりでした」

 葵は、先程、

 「母は強し」

 と思ってはみたものの、

 <母>

 あるいは父親をも含めて、

 <親>

は時として、見当違いに強い存在として、子供の人生そのものを傷つける存在でもあり得た。

 「親の愛なんて、紙一重で、子にとっては、とんでもない毒物になるんや」 

 葵は、感情移入したようである。

 「どうされました?」

 美紀が不審げに問うた。葵の表情が変わっていたらしい。

 「あ、いえいえ、私も色々、あるものですから。佐藤さん、お強いですね」

 「いえいえ、とりあえず、祐也との今の2人の生活が一番、落ち着いています」

 「今日は、遅い時間まで、捜査に協力いただき、ありがとうございました。いきなりのことで、申し訳ありませんでした」

 「いえ、とんでもないです。そろそろ、私は祐也を保育所に迎えに行きますね」

 「では、失礼します」

 葵がそう言うと、

 「私も下まで行きます」

と美紀は、アパート1階まで同行した。美紀としても、なるべく早く、祐也君を引き取り、いつもの

 <2人の生活>

を取り戻したいに違いない。

 アパート1階の階段前で互いに礼をして、2人は分かれた。

 葵は直帰のため、駅に向かって歩きつつ、

 「美紀さん、ほんま、強い人やね。きっと、頑張ってな。祐也君も自分の夢、見据えて頑張りよ」

 とつぶやいた。


9-3 絞り込み

 数日後、美紀への聞き込みを行なった葵の報告によって、捜査一課では、


① 物盗りが居直り強盗になった。最初は単に盗みのため侵入した犯人は、夫妻に気づ

かれ、慌てて、或いは逆上して、夫妻を殺害してしまった。


等の可能性も捨てきれないものの、被害者の息子である藤村克雄に焦点を絞る方針が決められた。藤村夫妻に対する恨み、の線に当てはまるとも考えられるからである。

 なお、通信記録にあった菊池誠二は、藤村弘のかつての職場の同僚であり、事件当日には現在の職場で同僚数名と共に残業をしており、事件には無関係であることが判明した。又、和子の通話記録にあった広島、大阪、北海道の各通話記録の相手も当日はそれぞれの地域に居り、やはり、無関係であることが判明した。

 さらに、先日の楓の捜査によって、各通信会社に、

 <藤村克雄>

名義のスマートフォンは存在していないことが判明した。偽名登録の可能性もあるものの、スマホが現代社会での必携装備であることを踏まえれば、その検証は雲をつかむような、あるいは、気の遠くなるような作業になるだろう。

 そこで、葵が本山に提案した。

 「スマホがなくてもできる仕事、例えば、日雇い等に一定程度、的を絞ってみるのは如何でしょうか。彼等はいつも所持金が少なく、ネットカフェか公衆電話から仕事を探し、連絡する傾向があります」

 本山や楓等、他のメンバーも同意した。しかし、

 <藤村克雄>

の昨今の顔写真はなく、又、ネットカフェでも偽名で宿泊しているかもしれない。そんな状況の中で、東京という巨大な空間にて、彼を探し出し得る可能性は低い。

 「コールドケースになるかもしれへんな」

 葵は内心、忸怩たる思いで心中、つぶやいた。それは、楓や本山も同じであろう。

 とにかくも、葵は、自身のデスクのパソコンに向かい、いつもの如く、

 <ルーティンワーク>

に取り組んだのであった。

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