第21話  三つの名前を持つ男

 「三つの名前を持つ男」


 中薮正雄(なかやぶ・まさお)「日本名」 キム・サーシャ「ロシア名」 金成沢(きむ・そ

んとく)「朝鮮名」 参ヶ国の名前を持つ男がサハリン州に住んでいる。 


正雄は、父親が北朝鮮出身者で二十代、戦中に日本へ移住し北海道の炭鉱で働いて

いた。 三笠市の炭鉱で日本人の娘「中薮昭子」と結婚して樺太へ移住する。

父・キム・デジュンは日本国籍を取得するために妻の籍に養子に迎えられていた。 

後に、この籍が大きく正雄の人生に幸運を与えた。


 早川輝彦は、サハリン州を訪問して取材の仕込み、調査、渉外など正雄に時々任せ

た。現在、正雄はキム・サーシャとロシア名がありロシア国籍を持っている身分である。

そして、ロシア国家公務員でサハリンテレビ局の海外担当者でもある。 ロシア人の血は全く入っていない。 

ロシア人に言わせると「朝鮮系」ロシア人とか、「東洋系」ロシア人とか表現する傾向がある。 何系でも人間性に優れて最低限の常識さえ伴っていれば良いと早川は常々思っていた。 早川より10歳年上であり年代も近いせいかお互いが理解し和えれる仲でもある。



 日本は、戦前の好景気に沸きエネルギー政策も拡大傾向にあり炭鉱の生産も波状的

に伸びていた。 大勢の朝鮮人は特に若者は日本の好景気に呼び込まれるかの様に

北海道・樺太へと移動して来た。

正雄の父親もその一人であった。 三笠炭鉱は夕張・美唄と共に道央では、年間生

産量も多く優良炭の生産地として名を馳せていた。

中薮家の長男として生まれた正雄は、生後まもなく樺太へ両親と共に移住する。 

樺太での就職先は、中部地域にある内淵炭鉱であった。 この他にも川上炭鉱も有名

な産炭地であった。 新婚当初は夫婦で働いていたと両親から聞かされていた。 

五歳年下の妹が生まれた。 母親は共稼ぎを辞めて専業主婦になった。 

この時代に太平洋戦争が勃発して樺太も次第に戦火の影響を受ける事態になる。 

父親は徴兵に取られ南方で戦死したと中学生の時に聞かされた。 

母子家庭となった中薮家は、母親の働きに頼る生活を余儀なくされる。 

戦後・炭鉱も閉鎖され生活の基盤が大きく崩れる。 内淵に近い落合に移転する。 

ここで終戦を迎える。

ロシア軍が進駐して落合町「ドリンスク市」に駐屯する。 母親は駅前の旅館で下働きをして生計を立てていた。 大きな旅館で戦前は、木材業者が滞在して繁栄を誇っていた。 

この旅館は地元で資産家が経営していた。 木材工場・保険業・サイダー工場・アイスクリーム工場・酒屋・米屋・など街の殆どが、この旅館の経営者が仕切っていた。

母親の親戚がここの旅館の番頭をしていた関係から働くことが出来た。

ここの番頭は、北海道三笠市の出で母親の従兄弟に当たる人間であった。 旅館には

進駐して来たロシア軍の士官が大勢滞在して町の状況を調べていた。 

戦前・戦中の日本人の生活、役所関係の人脈、業務の割り振り、施設運営の仕方、など人と施設に携わる内容を把握するためでもあった。 

当時の樺太は、逃げ遅れた日本人・韓国人・朝鮮人たちの住宅にロシア軍人が強制的に同居させられていた。 

それは、ソ連の政策で民間人の監視の強化・逃亡を防ぐ対策であった。 

旅館には備蓄米もあり長期滞在のロシア軍人には、食に関しては問題がなかった。 

近くの民家には、逃げ遅れた日本人も大勢住んでいた。 朝鮮人は終戦時には、逃げ

る場所もなく樺太に取り残されていた。 そんな一家が旅館に住める事態幸せな事でもあった。 

正雄はこの旅館で母親と二人で働いた。既に中学を卒業していたので力仕事は、なんでもした。 朝鮮語は炭鉱で働いていた朝鮮人から教わった。 日本語は炭鉱内の日本人学校で受けた。 旅館の同居人であるロシア兵もキム・サーシャに色々とロシア語を教えてくれた。 それが後に正雄を通訳者として生活の基盤を築くことになった。


 短波ラジオを作るために部品をかき集めた。 

通信隊所属のロシア兵に依頼して真空管などを入手した。 正雄は、音楽が好きでラジオから流れる曲が心を癒してくれていた。 樺太がロシア領になりサハリンとなる。 

共産党時代のソ連は市民がラジオを持つことを禁止していた。 情報の漏洩と国民をプロパガンダで導く方法は国策の報道に限られていた。二年ほど旅館の生活が続いた。 

ソ連軍からソ連民政へとサハリンも変革が求められた。 それはソ連共産党の一党独裁主義政治の到来である。 朝鮮系とソ連人は言うがそれは、ソ連化を図った政治でありxxx系とは甚だ理解に苦しむ表現である。 朝鮮系ではなくて朝鮮人であると正雄は感じた。 

サハリン州ドリンスク市役所に登録された名前がキム・サーシャである・台帳には、はっきりと朝鮮人と民族名が記載されている。 


 完成した三球ラジオは日本・朝鮮・ロシア・アメリカの放送が聞けた。 親子三人が寝泊まりしている六畳間は狭かったが、ここの押入れの天井板をはがすと自分の部屋が確保された。 

母親はこの部屋のありかは知らない様だが、妹の「道子・オリガ」は秘密部屋もラジオの存在は知っていた。

夕飯が終わると正雄は部屋から消えてしまうのである。 天井の板を外してラジオを

入れる。 天井には電気の配線が無数に張られていた。 この電線から直結して電気

を貰うのである。 盗電。 今日は日本の放送を聞いてみた。 一度も行っていない日本。

 隣に位置する北海道とはどんな人が住んでいるのか、この時まで母親から三笠市で

生まれたことも聞かされていない。妹の道子はサハリン生まれだから日本はもとより

北海道など興味の外である。 戦後、日本の匂いがラジオから漂っていた。   

テンポの速い(ブキ・ブキ) ジャズなど毎日流されていた。 サハリンでは、モスクワ放送の人民の教育講座「同志」など難しい放送が連日流されていた。

軍から民政に移管されてもソ連兵は旅館から出てはいかなかった。 しかし、正雄は

ロシア語が日に日に増して上達した。 「先生が好かった」と謙そんする正雄である。

先生はポポーフ少尉で当時の年齢は26歳とソ連陸軍の通信隊に所属していた。

本人は遠いウクライナ生まれでサハリンに来る前は、ドイツ軍と東部戦線で戦ってきたと正雄に語った。 ポポーフはウクライナ・ハリコフ市で生まれ育った。 中学を卒業して同市の陸軍戦術学校に入り二年間通信課程を学んだ。 配属された通信隊後方支援的な業務で身の危険はなかった様である。 サハリンへ配属前はボルドグラード「スターリングラード」でドイツ軍と壮絶な戦いを経験したと正雄に説明した。旅館に同居していたソ連軍人は紳士的な言動で日本人・朝鮮人に接していた。 保存米が少なくなるとパンの配給で軍人も民間人も平等に扱ってくれたと正雄は思った。


 ラジオも小さく聞かないと二階の部屋に聞こえる危険があった。

ドリンスク市「落合」にも共産党の支部が出来た。 最初の三年程は外出もうるさくなかったが、朝鮮系ロシア人とロシア人の若者が、ユジノサハリンスク市「豊原」で乱闘事件が起きた。大人も交えての事件で双方が拳銃や鉄砲を撃ち合うなどで負傷者も多数出た。

朝鮮人の男が一名この事件で犠牲者となった。

この事件で党「共産党」は、規制を設けた。 それは、外出時での許可制である。

町内の移動は問題ないが、市外に行くときには「外出書」を貰う事が義務付けられた。

この外出書は、後に「国内パスポート」と言う身分証明と労働証明が一緒になった証明書である。 現在もこの国内パスポートは国民一人一人に配布されていて学歴・病歴・労働経歴・年金記録が記載されている。 犯罪経歴もあり個人の経歴書でもある。 

国内パスポート「身分証明」は、本人の父方の名前・出身地も明記されている。ロシアの企業の採用担当者はこの証明書があれば時には面接も不要と語った。

海外旅行には「海外パスポート」が発行される。 正雄が名前を申請した時分にはソ連時代であったので「キム・サーシャ」と登録したと道子が説明した。しかし、父親系列の名前は無しであった。 「私生児扱いなのであった」 妹も「キム・オリガ」で登録された。


 ポポーフ少尉は気立てが良くて好青年である。正雄がラジオを作ったと知って驚いていた。

「誰にも絶対にラジオの事は言うな」と厳命した。 知れたら「チョロマン(牢獄送り)」だからなと忠告してくれた。 そして、スピーカーでは音が漏れるからイャホーンを使えと戦車用のイャホーンをくれた。 この日から正雄は安心して秘密基地でラジオを聞いていた。

アラスカの米軍放送も受信が可能であったが、英語が理解できなくて聞くのをあきらめた。

朝鮮放送も聞こえたが、ソ連と同じ社会主義国の事情か「プロパガンダ放送」であり指導者を崇拝する傾向にあつた。 そんな中での日本語放送は戦後の自由な民主主義的な編成で成り立っていたように思えた。

 

早川には、当時の苦しい生活を余り話したがらないが、音楽は日本からの放送で学んだと打ち明けた。 日本もアメリカ軍の進駐で全国には軍隊が駐屯していた背景もある。 特にジャズは若者文化の最先端を行く音楽で早川もその事情は知っていた。 札幌でもジャズの愛好家は少しいはいたが、殆どが民謡や歌謡曲が国民の趣向に合っていた。 

1960年代から70年代に掛けて「活かす男」のステータースは、平民の音楽はJAZZ 食い物はハンバーグ タバコは洋もく と決めていた。

分類が資産家に入る連中は、音楽はJAZZ 会話は英語 車は外車(アメ車) 女性は金髪と相場が決まっていた。

正雄もジャスが導き出す音源と人間の根源そして心の資源がかみ合うフィーリングを最も好んでいた。 ジャズは民族も国境もそして政治も越える力強い音楽と思えた。


 旅館の仕事も一段落して正雄はユジノサハリンスク市の音楽専門学校へ進学を希望した。

母親は、音楽では食べていけないから別な仕事を探せと言う。 

年末の慌ただしい日に、ポポーフ少尉が転属すると言う。 

転勤先はハバロフスクの極東本部との事。 ソ連の年度替わりは年末で終わり年の初

めが新年度である。 これに平行して官庁・国営企業の人事異動が行われる。

「正雄が大きくなったら遊びに来てくれ。 君の家族にも色々と助けられた。

そして私の後任を紹介する」と言って旅館の玄関に立っている青年を手招きした。

「クリーモフ中尉殿。彼が正雄です。頭の良い子供です。宜しく面倒を見てやって下さい」と正雄を呼んで同じ通信隊に所属していると説明した。 「宜しく」と握手を求められた。

ポポーフより二歳年上との事。まだ独身です。と付け加えた。 部屋はポポーフの居た二階の角部屋の六畳間である。 引越しは簡単で大きな布袋に荷物を入れた二つの袋を担いで来たクリーモフ中尉。そして入居した同じ日に同じに袋を持って出て行ったポポーフ少尉。 軍隊は同じスタイルで同じ荷物を持ち運ぶのかと正雄は思った。

クリーモフ中尉もポポーフから色々と正雄の事を聞いているのか、仲良くなるのも早

かった。


 サハリン州も民政管轄になり軍依存から共産党体制に大きく変革した。

全ての既得権益と実行権は、党の主体であり政府から観ると働く国民は良いねずみ、

怠けるねずみは食も当たらない。 の主義がプロパガンダで告知され始める。

正雄は、働く意味を幼い炭鉱時代から体験していたので労働には何の不満もなかった。

働く、働く。それは音楽の世界でも同意義と正雄は捉えていた。

音楽専門学校への進学もクリーモフ中尉の支援があって可能になった。 共産党主体

の政治は、地方においてもその権力は絶大なものである。 ましてや、党員となれば

住民の対処法は極端な言い方をすると「生・死」を分ける状況になった。

そして、KGB存在である強権組織が国民生活を他角度的に圧迫した。

このKGBは、ペレストイカを迎えるロシア新時代まで続いていた。

そして、その遺産はFSBに引きつながれている。 


 ユジノサハリンスク音楽専門学校はロシア極東地域でも優秀な講師・教授に恵まれていた。 その背景にはロシア大陸からの離島との地域差別を解消する党の配慮が、

伺えた。 ロシアの音楽関係者はハバロフスク市・ウラジオストック市にも及ばない高度な教育方針に舌を巻いていた。 モスクワ・サンクトヘテルブルグなどからも指導者らは非常勤であったがサハリンへ赴いていた。 正雄は音感も鋭く在学中に指揮者も視野に指導を受けたが、専門は管楽器の演奏に重きを置いた。

三年の就学が終わり仲間とバンドを編成した。 市内もとよりサハリン全土でその演奏内容に人気が出て、一躍有名バンドへと変貌した。 名前も正雄からキム・サーシャとロシア名で知名度を挙げていた。 

この活躍は、早川と知り合った時期にキム・サーシャの経歴で紹介されている。


 正雄が音楽学校への進学も街の指導者が大きな力を与えてくれた。

セレデーキンもドリンスク町から転勤してユジノサハリンスク市の党幹部に栄転していた。

市共産党のセレデーキン書記長の推薦状と紹介状があり大学進学へ有利な方向へと

進んだ。 セレデーキンは41歳でサンクトペテルブルグ大学医学部を卒業して大戦中はソ連軍の軍医として活躍していた。 出身はモスクワ北部のイワノボ市である。

このイワノボ市には、大戦後 戦犯を収容する施設があった。 軍政から民政への移管に伴いセレデーキンはハバロフスクで終戦を迎える。 退役と同時にソ連共産党に入党する。 学歴及び軍歴の功績により党からサハリン支部への移動を推奨された。

セレデーキンは、在軍中に日本人少年である正雄が優秀な少年である等聞かされて

いた。

 ハバロフスク市で結婚して妻と息子の四人家族である。 

妻のイワショーバは38歳で元看護婦でハバロフスク市立病院で働いていた。二人は

医師仲間の紹介で知り合い戦中は離れ離れの生活を余儀なくされていた。

ソ連軍が優位に戦争を展開し始めた時分に再び一緒の生活が始まった。

息子のクリシ8歳はユジノサハリンスク市内の学校に通学している。 この学校は戦後ロシア・朝鮮の子供が通う複合学校である。 ロシア語が全ての言語であり朝鮮語を話す子供はいなかった。 当然、日本人の子供も市内には居たが入学は許可されなかった。と言うより日本人の入学希望者が皆無であった。 


 ユジノサハリンスク市の党運営の官舎に家族四人は住んでいた。 

党の幹部には、専用の運転手付乗用車と官舎が与えられ、報酬も1950年代から高額になった。 他に年間70日近い休暇が与えられソチなど国内の保養施設でも最良の待遇であつた。 国民が戦後配給制度で商店で買い物で並んでいたが、高級幹部と家族

らは恩恵に預かり配給も市民より50%増の待遇であった。

セレデーキンは、大学と医師時代に音楽活動をしていた。 専門はアコーデオンである。

ロシア民謡には特にアコーデオンが似合う楽器である。 音楽の才能を正雄に見つけたセレデーキンは、音楽学校の推薦をした。 そして、その学校にはソ連国内でも優秀な教師及び指揮者・演奏家らを招いた。 これも党幹部の力量の賜物である。


 正雄が北朝鮮へ音楽交流で招聘されるのもセレデーキンの力沿いによるものであった。

正雄が学校を出て間もなく在校時代の恩師から「朝鮮民主主義人民共和国」へ演奏交流のメンバーに加わらないかと持ちかれられた。 全ての経費は党が持つ、他に小遣い銭が出ると言う。 バンド結成に金がかかるが、少しでも足しになればと参加を希望した。

10日間の演奏旅行。 総勢100名。 モンゴル系ロシア人 東洋系ロシア人 ソ連国内から集められた青少年の団体である。 サハリンからは、正雄を含めて11名がこの旅に加わった。 11名は党支部の付き添う役員2名と若者9名である。 ソ連邦青少年のオーケストラ規模の演奏会は北朝鮮の国民も一生に一度あるか、ないかの祭事でもある。 

全員がハバロフスクに集められた。 ここで三日間の演奏訓練・滞在中での注意事項

などが説明された。 プロペラ式の大型飛行機2機に分乗した演奏団の団員は緊張の

面持ちで搭乗した。 正雄はじめ殆どの子供たちは初めての体験であった。

ハバロフスクを出て二時間半でピョンヤンに到着した。 空港には大勢の子供たちが

ソ連と北朝鮮の国旗を両手に持って笑顔で振っている。 どの子も健康そうで満面に

自信に満ちた表情である。 タラップを降りる正雄も笑顔を作るが緊張と彼らの笑顔

に圧倒されて足がすくんだ。 

正雄は大学を出ているので年長の団員である。 大型バスに分乗した団員は市内の

石作りの大きな建物で降ろされた。 ここの石畳にも大勢の子供らが並んで歓迎して

くれた。 大会堂に入ると大きな体育館ほどの広間に案内された。 そのには椅子が

並べられ段々畑みたいに整列する事ができた。 北朝鮮の役員が正雄らを次々にそ

の段々、椅子に座るように指示を出す。 言葉は朝鮮語であり正雄は幼い頃に父親

が話をしていた会話に近いものと思った。 ロシア国籍で血は朝鮮と日本の混血であ

る事に誇りを感じた。 朝鮮戦争が終わり北朝鮮の国情もソ連の支援で豊かに回復

傾向にあった。 整列を終えると正面扉が大きく開かれた。 労働党の最高権力者の

金日成主席が姿を現した。十名の随行員を左右に従えて会場に入って来た。 右手

を大きく挙げて団員に笑顔を送る。

団員の前に立ち「皆さんを歓迎いたします。私たちに良い演奏を聴かせてください」

と張りのある声で歓迎の挨拶をした。 金日成は1953年の朝鮮半島を南北を分断

してから北朝鮮の最高指導者として君臨している独裁者でもある。 この金王朝は、

「後継者の金 正日 労働党総書記 ・ 金 正恩体制 」と現在まで続き朝鮮民主主義人民共和国を支配している。 朝鮮半島の南北分断は北緯38度線を境に北と南

に朝鮮民族が割れられた状況は続く。 北側をソ連政権が南側をアメリカ政府が支

配下に置き軍事・政治の分水嶺として各国から注目されていた。 

この金王朝体制は2013年まで続いている。 


 正雄がこの金指導者を見たときに親戚のおじさんとも思えた。 それだけに親近感があり知的な面持ちに年齢は違うが、同胞としての親しみを感じていた。

集合写真には前列に時の北朝鮮労働党の党首が真中に納まった。 ソ連邦の訪朝音

楽団は色々な民族との混成であり国内が多国籍国家であると証明された。

金おじさん(主席)は、その後各地の演奏会場に姿を現し市民らに歓迎されていた。

正雄の父親が、この国の生まれであると母から聞いたのは帰国後であった。

父親は、戦前日本に来る前に北朝鮮の成鏡北道の清津で生まれ育ったと昭子は説明

した。 正雄もピョンヤン市内で感じた空気から父の故郷の臭いをつかんでいた。


 物資も豊富にあり市場は活気に溢れていた。 ピヨンヤン市内には楽器の販売店も

あり正雄はここでお土産を買った。 お世話になっているセレデーキンへプレゼントするアコーデオンである。 演奏旅行に際して団員に支払われた500US$の内250US$を持参していた。 ドイツ製のアコーデオンは一台50US$で買えた(特別免税扱

い)。 正雄の音楽学校の先生の給与は一ヶ月25US$前後であるから大金に値する

金額がソ連政府から訪問団員に支払われていた事になる。 正雄はアコーデオンの値

段が高いか安いが分からないが、同行したハバロフスク市の音楽関係者に聞いてみた。

「ロシアでも余りない名機だ。値段も安いロシアではこの数倍もする」との回答を得た。

演奏の合間を見て楽器店に向かった。 「二台は無理です。一人に一台どころか、今回ソ連から来る人々に対して五台しか販売ができません。 昨日二台売れました。」との店員の説明。 正雄は一台はお土産用にそして一台は投資目的「バンド編成経費」を頭に描いていた。 名案が出た仲間のパスポートを借りて購入したら良いのだと。

団員の一人にユジノサハリンスク市の青年が同行していた。 彼はバイオリンの奏者

として市関連のオーケストラで働いていた。 頼み込むと直ぐに色よい返事。

二台のアコーデオンがピヨンヤン空港からソビエトへ入国した。


 帰国後に正雄は市共産党本部を訪れてセレデーキンにアコデーオンをプレゼントした。

自分が推奨した日本人少年が輝かしい業績を踏まえてそして北朝鮮訪問の折に入手し

たアコデーオンに感激した。 「正雄。ありがとう。私の大好きな助手(アコデーオン)を提供してくけてありがとう。」と感謝を述べた。投資用アコデーオンは音楽学校が高額で買い取ってくれた。 その利益は正雄のバンド結成の資金として活かされた。

資金の一部は中古車販売のブローカーに支払い北海道・小樽から日本の中古車を一台

購入した。


 サハリン国営放送局はソ連時代には共産党の配下にあった。 それは、国策であり

45年間も続いた。 国営企業といえども海外からの情報も得なければならない。

国内では、KGBも活躍して国民生活を監視していたが、海外の情報収集にはクレムリンも不満を持っていた。 大戦後のソ連は敵対する自由主義国との確執が政治的な

問題と発展していた時期でもあった。 民主主義大国のマスメデァ方式をクレムリンは採用した。 

特に日本はそのお得意様となった。 ソ連の友好国と協定を結びその国の

マスコミを経由して各国の情報を取得する作戦である。 日露漁業交渉に国民の話題

を公然と公開して一方では日本国民の動向を調査する作戦も存在した。

日本のマスコミも魚と領土問題を定義しているが、食を関連する漁業問題が領土より

先行する。 魚好きの国民には麻酔注射でも打たれた感覚と思えた。

敗戦国民は、食うに困った時期を体験していた。 

それは、食=領土との分水嶺の上に立った感情と等しかった。 

「大戦後の日本外交は幼稚的で学のない馬に等しい」と海外から揶揄されていた。

ソ連の取った外交交渉は「問題が起きる遥か以前に別な話題を新たに提案して問題の

本質を避ける」作戦であった。 この作戦は見事に当たったと外交専門家が語った。

「本質を避ける」短期では効力も薄れるが、日本政府としては長期戦には耐えられないのである。 その背景に日本の政治家(屋)による交渉力の欠損が大きな理由としてある。ソ連政府として交渉担当の総理大臣がたえず替わる人事的な問題も含んでいる。

それと、政府の担当部署である日本外務省の熱意の欠損が挙げられる。 この様な

背景が日本国民への利益率の無配当「領土(土地)無解決」に至っている。


 日本も五年に四人も総理大臣が代わる国情に海外の国々も呆れてものも言えない。

超低進国でもクデーターでもない限り総理大臣がコロコロ変わる事がありえない。

こんな事態に(外交)なんてとんでもないのである。 国民の程度が低下している暁であると早川は考えていた。


 早川輝彦は日本がバブルの好景気に沸いている頃に現役外交官の講演が小樽市

で開催された。 この役人は在モスクワの某特命全権大使である。 「私は北海道の

出身であります。 今、日本とロシアは解決させる問題が多くあります。(領土問題と考えるのが妥当) 私は、毎月500万円の予算を得ています。この予算は接待交際費であります。 この交際費で毎月築地(東京・築地市場)から新鮮な魚をモスクワに送って貰っています。 その魚は北海道産と私は指定しています。」と特命(匿名)全権大使は演説をしていた。 早川はこの外交官の発言に日本とロシア双方の土地(領土)問題は解決しない、絶対させない方針であると思えた。 毎月500万円の交際費、年間6000万円に上る使い捨て税金に群がる両国の役人の姿が眼に浮かんだ。

「飲んで・食って・解決不可能な土地問題を討論する」こんな愉快な仲間(両国の役人)が、「土地問題解決と同時に終止符が打たれる」ことは既得権益が失われることでもある。 

これは、役人としては最悪な状況である。この全権大使は、この講演で何を言いたかったのか。 早川は考えた。 この発言の中に一つのキーワードを見つけ出した。 

「魚は北海道産と指定しています」それは、新鮮な北海道の魚を両国の外交官が食べたいの一心での事であり、この魚も元来ロシア側に北海道の漁民が自ら入漁料を支払って捕った魚である。 

然るにこの外交官は「接待交際費は正しく北海道漁民の為に使用していますよ」と証言してくれたのである。 馬鹿・馬鹿しくなり途中で早川は退席した。

小樽から帰り早川は考えた「こんな無駄をして官僚らは国民の血税を使っている。 この状況を許している国民自体が悪い。 役人に対してお任せ弁当的な配慮はやめて国益をえない案件には断固たる処置を講じるべきである」と考えた。


その後、早川は日本外務省の外交官に関する調査をしてみた。 外国語も満足に話せ

ない外交官。(どうして採用になったか不明)この様な外交官が在籍している大使館及び領事館に通訳が雇われている実態。 海外旅行先で事故にあって苦慮している本邦人を外務官僚が、「被害者に対して自己責任論」を振りかざす役人。 海外の公館に買いだめされた高級ワインその数 3000本。 本邦人が外国で日本語教師として勤務中に急病に見舞われた。 現地の総領事館に相談したら領事館勤務の日本人医師が日本まで同行してくれた。 

急病の本人も家族もさすが日本外務省は素晴らしいと考えていたが、何とその日本人医師に同行経費を出せと言う始末。 

患者側は同行医師に15万円支払ったと家族は語った。 業務内での事であり有料にならないと思えるが。 

早川もこの件で日本領事館へ問い合わせた。 答えが「患者の帰国に関して同行の件

では、医師本人の休暇扱いであり当方とは関係ない。謝礼を受けるも本人しだい」との回答。 問題が起きると案件を摩り替える技術(同行経費→謝礼金)も兼ね備えている。

日本人を助ける又は援助する姿勢が外務省職員「特に海外勤務者」には皆無である

と判断した。

早川にも知り合いの外交官もいるが、その人々は真面目に勤務している。


 正雄の朝鮮「韓国」への帰化問題がサハリン州で話題に挙がった。

国営サハリンテレビに就職するのも地区ボスのセレデーキンの大きな支援があつた。

サハリンテレビには、政府の運営資金が流れ込んでいる。 当然、セレデーキンの発言力も増して人事にも介入が可能である。 正雄が日本と朝鮮の混血児である事は、先刻承知していた。 正雄を通訳として採用する事が提案された。 同局に国際課が設けられた。 サハリンテレビ局の人事は全てモスクワで行われる。 一党独裁のソ連時代そしてペレストイカ時代を迎えた新生ロシアと社長人事は全てクレムリンで行われる。ロシアの国営放送局は全国区にまたがり総数は不明である。 

サハリンテレビ開局40周年が開催され早川も同局から招待を受けた。

ユジノサハリンスク市チェーホフ劇場で開催された式典に歴代三代の社長が参列した。

この三人のトップは現役を含めて全てが全国の国営テレビ局を掛け持ちしていた。

サハリンでは市民はよく言葉にするのが「役人は皆、モスクワを向いている」


正雄が日本への帰化で悩んでいる事を早川も相談を受けて知っていた。

ユジノサハリンスク市には日本人抑留者で作られた邦人会がある。 そこの会長が婦人で川端氏である。 この会に入らないと正式に日本政府との窓口が開かれない。

正雄の悩みは、「この会と意見の食い違いがあり退会した」と早川に打ち明けた。

会が機能しないので個人で帰化活動をする事になる。 帰化には色々と法律が絡み問題や課題も多い。 個人の活動も弁護士などに委託すると高額な資金が必要になる。

早川も手を貸したいが、いかんせん全てが初体験である。 川端女史に会って問題解決を相談したが、正雄の言動に不信感が増幅して解決にはならない。


 春の小川がさらさら流れる。

北海道三笠市 炭鉱で繁栄した街は夕日に輝いていた。 市役所の窓口に早川は立っていた。 戸籍係りから「中薮正雄」の原本の写しが渡された。

活きていたその名前と父母の名前が輝いて見えた。 これで正雄も帰化が可能になる。

日本の玄関口が少し開かれた瞬間でもある。 早川と正雄が手を取り合って玄関口で

戸籍謄本を手に嬉しさの余り泣いた。 

その日から三年の歳月が経過した。 帰化の条件は一年間我が国で働き納税した証明

がなければならない点である。 

簡単な話し日本人になるには「働いて税金を納めてください」 国籍を与えます。

世は金の世界である。 資本主義体制が生み出した最良の政策とも言える。

早川はこの問題を解決すべく対策に取り組んだ。


正雄の日本滞在ビザの取得 受け入れ側「雇用する会社」の証明書 などなど仕事が手に付かない毎日になった。 日本滞在の保証人の所得証明・納税証明・印鑑証明・などなど・・・ロシア人を日本人に、これは並大抵の行動力では到底無理と思えた。

当初、早川はキム・サーシャを雇い共同で映像取材を展開しようと考えていた。

色々と分析をして正雄が進むべく方針に従った。 札幌市内の知人が経営する建築関連に仕事を世話した。一年間の奉公が達成され全ての書類が整った。

正雄の運転免許書の取得である。 ロシアの運転免許書から日本の運転免許書を簡単

に発行してくれない。 日本の運転免許書を所管する公安委員会はロシアもアメリカからの移籍に関しては再試験を受ける事が条件である。 実技試験・筆記試験と身体検査と日本人が受ける試験と殆どかわらない。 しかし、どちらの国でも運転免許が発行されている事実は公安委員会も考慮に入れているようだ。 運転試験は簡単なコースを廻る。


 簡単な日本語で例えば「信号機 赤色 青色 黄色 」の単語が試験に出される。 100門中 60点以上が合格である。 早川はこの免許制度で日本は最も厳しい査定をしている国と思えた。  正雄は実技試験で一回は失敗したが、二回目で合格した。 そして筆記試験は見事一発で合格した。

早川は見事に成し遂げた。

最後の仕事はロシア政府発行の国籍離脱証明書を日本政府に提出する作業である。

男の感動は、46年間のこだわりから解放され三つの名前が一つになった。

ロシア国籍から日本国籍に生まれ変わった。


在札幌ロシア領事館でロシア国籍離脱手続きを完了した。担当者はロシア語と日本語

で正雄に言った

「いつでも国に帰ってきても好いですよ。」と一言。うなずく正雄。 

 

「何て素敵な言葉であろう。 ロシア国は好きでないが、ロシア国民が好きだ。」と早川は常々思っていたが、この言動を今日から改めよう「ロシアには素敵な国民がいる」そして、正雄を見送りに来た担当者が玄関口で付け加えた。

「キム・サーシャ・貴方の年金はロシア政府から生涯支給されます」

国籍を失っても年金が支給される。 これはありがたい事である。 金額の問題でない、人間としての最低限の生活をロシア政府は負っている。


早川輝彦も脱帽の極めに至った春の小川だつた。

日本政府及び厚生労働省・年金基金の役人らは、何と言って多国籍へ移動する人々に

送り出すだろう。

 役に立つから役人と呼ばれる。 悪い事をする役人を悪役とロシアでも言う。


 ソ連からロシアに様変わりした、ロシア国内はプーチン大統領が政策を担っている。

彼の国民からの支持率は高くなっている。 

=注=

「政策の実施責任者は鼻をほじっているだけ」と名指して解任する姿勢が支持の大きな理由である。 権力を与えられた行政「役人」人が働かないのでは、解雇しかないのである。 それが最高責任者のロシア大統領の権限でありロシア国民の利益に伴うのである。 これによって大統領の権限は出身母体のロシア内務省の予算配分にも現れている。 大統領府・政府各省庁・地方行政機関の警備要員はすでに200万人を越えている。警備のための警察犬・特別に訓練された馬・多様な場面で使用可能なガス銃、さらに電気ショックを与える武器。内務省は装甲車や戦闘機も所有している。

FSB含む内務省は国防省より優先的に予算が配分されている。


  


 蒼い海峡を掻い潜って青年は日本へやってきた。 

夏が深まり故郷の山々には白綿帽子の綿スゲが北風に揺らいでいた。


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