真実

 それは雲一つない晴天の日のことだった。

魔女狩りの犠牲者救出や希道の秘書としての仕事に追われていた泪が、久しぶりに澪の部屋へ来ていた。

澪は部屋の中央にあるテーブルの脇にある椅子に座っていた。

泪は出窓に寄りかかり、椅子に座る澪の方を向いていた。

「久しぶりね。元気そうで良かった」

泪は笑顔で言った。

「泪も元気で良かった」

澪は嬉しそうに笑った。

「その笑顔を見れただけで十分よ。元気でたわ!」

泪はニッコリ笑って言った。

「魔女狩りは少なくなってきてるんでしょ?なのに忙しそう。もしかして、希道さんの秘書の仕事が増えたの?」

「そうね…。確かに魔女狩りは減ったわ。その代わり、魔女狩りの終息に動いてる政府に色々と希道さんが力を貸してるの。だから、秘書として、あたしのやることも増えてるのよ」

「大丈夫?無理しないでね」

「大丈夫よ。それに…魔女狩りが終息すれば、あたしの仕事も楽になる。頑張るのは、それまでよ」

泪は笑顔で言った。

「やっと、魔女狩りがなくなるのね」

澪は哀しい過去を思い出すように、憂いに満ちた顔をする。

「そうよ。だから、そんな顔しないの」

泪は澪の目の前まで来ると、澪の頬を両手の平で覆った。

「ほら、せっかくの可愛い顔が台無しじゃない」

笑顔で言う。

「泪…」

泪は澪の頬から両手の平を離すと、窓から外を見た。

「ねぇ、澪。魔女狩りが終息したら、屋敷の外に出て見ない?」

「外に…?」

「もう、その頃には天の羽はいなくなってるはず。澪の存在を隠す必要もなくなる。澪の行きたいところに行きましょう」

「でも、あたし…この体じゃ。あたしの姿を見た人が」

「よく見れば…澪の体の違和感に気づくかもしれない。でも、そんなに人って他人こと見てないことが多いのよ。だから、気づかないと思うわ。それに、あたしがついてるから大丈夫よ」

「そうね。泪が一緒なら大丈夫かも…」

「なら、決まりね!」

泪は嬉しそうに言った。

「うん」

澪も嬉しそうに笑う。

「じゃ、少し気分転換しましょ。今日はいい天気よ。家の中にいたら勿体ない!少し、屋敷の庭を散歩しましょ」

「うん」

それから、澪と泪は屋敷の外に出た。

澪の屋敷の庭の散歩コースは、いつも決まっている。

屋敷から東屋までがいつもの散歩コースだった。

よく東屋に行っている澪には慣れた道だ。

それでも、たまに来る泪と歩くと新鮮だった。

「本当にいい天気。東屋に着いたら気持ちよくお昼寝できそう」

泪は背伸びをした。

「それじゃあ、東屋まで散歩する意味がないじゃない?」

笑いながら澪は言った。

「何言ってるの。運動をした後は体を休めないとね」

泪は楽しそうに笑って言った。

「もう。泪…」

澪もおかしそうに笑って言う。

その時、泪の持っていたスマホの着信音が鳴った。

「あら、希道さんからだ」

スマホの画面を見ながら、泪は言った。

泪は立ち止まると電話に出る。

「はい。泪です」

澪も立ち止まって、電話が終わるのを待つことにした。

「はい。はい…。わかりました」

最後に、そう言うと泪は電話を切った。

「澪。ごめん」

電話を切ると、すぐに泪は澪に向かって言った。

「え?何?」

「魔女狩りの情報が入ったの。これから、現場に行かないと。せっかく、ゆっくり話できると思ったんだけど」

泪は申し訳なさそうに言った。

「いいよ。泪が行くことで助かる命があるんでしょ?だったら、行かないと。散歩なんて、またできるけど…。命は失ったら取り戻せない」

「澪。ありがとう」

「泪。無事に戻ってきてね」

澪は笑顔で言った。

「縁起でもないな~。あたしが今、ここにいるのは無事に帰って来るからよ。今まで大丈夫だったんだから、今回も無事に帰って来るわよ」

笑顔で言うと泪はおかしそうに笑った。

そして、澪の頭にポンと手を置いた。

「本当、心配性なんだから」

泪は笑顔で言った。

「泪…」

その言葉を聞いた澪は、なぜだか急に不安になってきた。

「本当に帰って来るよね?」

「あらあら、どうしたの?あたしが心配症なんて言ったから、余計に心配になっちゃった?」

泪は心配そうに言った。

澪は不安そうな顔で泪を見ていた。

「大丈夫よ。だから、安心して待ってて」

泪は穏やかな笑顔で言って、澪の頭をポンポンと二回叩いた。

「本当ね?」

「本当よ。約束する」

泪は笑顔で言った。

「それじゃあ、気を付けて行ってね」

「ありがとう。無事に戻ってくるからね」

「うん」

澪は嬉しそうに笑う。

「じゃ、いってきます」

「いってらっしゃい」

澪が言うと、泪は笑顔で手を振りながら屋敷に向かっていった。

遠くなっていく泪の姿を見ながら、澪はいつまでも手を振っていた。


そして、その日の夜、澪は泪が亡くなったことを知らされた。


 澪は希道の義体を提供する施設の特別室でベッドに横になっていた。

まだ、代わりの義体はできてない。

壊れたままの義体では体を動かすことはできない。

ただ、首は何とか動かせるようで、少し傾けて窓の外を見ることができた。

空は気持ちのいい程の晴天だ。

澪は泪が亡くなった日のことを想い出していた。

お父さん、お母さん、泪…。

なんで、あたしに関わった人は死んでいくんだろう…。

慎も、あたしといたら…。

その考えを頭の中でかき消した。

そうしなければ、現実になりそうで恐かった。

もう、誰にも死んでほしくない…。

だから、考えない。

きっと、大丈夫だと自分に言い聞かせる。

それでも大切な人の命を失った過去が、澪の心を不安にさせる。

また、死んでしまうんじゃないか…と。

澪は、あまりにも人の死を目の当たりにしすぎていた。


 希道の施設で仁の足に義足を取り付け終わると、義体ができるまで動けない澪に別れを告げ、慎は屋敷に戻っていた。

その日は希道も屋敷にいた。

慎達の命が狙われ、気が気でないようだった。

慎は、らしくない…と冷めた感情しか湧きあがらなかった。

屋敷に着くと夕食を済ませた後、慎はリビングで一人でテレビを見ていた。

仁はというと、希道の書斎にいた。

仁はソファに座り、希道は自分のデスクの椅子に座っていた。

「黒ずくめの男は慎を狙ったのか?」

「そうとしか思えない。俺の息の根を止めることより、慎の命を奪うことを優先していた」

「なぜだ?口封じなら、慎だけ狙っても意味がない」

「そこなんです…。なぜ、慎がけが狙われるのか…?わけがわからない。桜介は何を考えているのか?」

「とにかく、慎から離れないでくれ。慎が狙われているなら尚更だ」

「そのつもりです。今度こそは…」

「泪のことを、まだ引きずっているのか…」

「かもしれない。本当、女々しいな…。俺って」

仁は笑って言った。

「私だって、慎の両親のことを、まだ引きずってるよ。人の命が失われたのに忘れることなんてできるはずがない」

哀しそうに希道は言った。

「…」

仁はかけられる言葉が見つからず、ただ、哀しそうな顔をする希道を見ていた。

「仁。慎をここへ呼んできてくれ」

「どうする気です?」

「本当のことを話す」

「やっと、決心がつきましたか」

「ああ」

希道は静かに答えた。

「では、慎を呼んできます」

そう言うと仁は書斎から出た。

しばらくすると、嫌そうな顔をした慎が書斎に入ってきた。

「何ですか?」

「話がある」

「疲れてるんです。今日は色々あって」

「大事な話なんだ」

いつになく真剣な眼差しで希道は言った。

「さあ、そこに座りなさい」

今日の希道は、いつもと違う。

有無をいわせない気迫があった。

「…わかりました」

その気迫に押され、慎はつい、そう言っていた。

慎がソファーに座るのを見と届けると、希道は深くため息をついた。

「いつか話さなければと思っていた」

「何をです?」

「君を君の両親から預かった本当の理由を」

「本当の…?」

「ああ。もしかすると、君には受けれがたい話かもしれない。だから、今まで話す勇気がなかった」

希道は深くため息をついた。

慎は初めて本音を語る希道を見た。

ただの冷たい人だと思っていたが、違うような気がしてきていた。

「まず、君の両親と私の関係から話そう」

希道は穏やかな言葉で言った。


 希道が慎の母親と出会ったのは、丁度、慎と同じ歳の頃だった。

慎の母親は名前を“なずな”といった。

それは五年前に亡くなった希道の母親の命日のことだった。

希道は、すでに一ノ瀬家の後継者として、父親の仕事を手伝っていた。

希道の父親は仕事人間で家庭を顧みない人だった。

父親とは対照的に優しさの塊のような母親は五年前にガンで亡くなった。

五年前に母親が亡くなった時も、毎年の命日も、父親は仕事を優先させていた。

そして、今日の命日も父親は海外出張でいなかった。

希道は父親に後で叱られるのを覚悟して、午後から休みをとっていた。

それは毎年のことで、五年の間、父親は希道が仕事を休んで母親のお墓詣りに行くことを許さなかった。

だから、毎年の命日に希道は父親に怒られるのが恒例行事になっていた。

希道は午前中で切り上げた仕事の帰りに、一件の花屋に立ち寄った。

希道の母親は花が好きだった。

一番のお気に入りは黄色いガーベラだ。

子供の頃から希道は母親の誕生日に毎年、ガーベラをプレゼントしていた。

しかし、亡くなってからは、命日に贈る花になっていた。

希道は花には疎く、いつも花屋の店員に花の名前だけ言って用意してもらっていた。

店に入ると、店員を見つけて声をかけた。

「あの、ガーベラを探しているんですが…」

「はい。ガーベラですね!」

明るい声で振り返った店員は、希道と近い年齢の女性だった。

見ただけで癒される笑顔が母親に似ている気がした。

「あ…はい」

希道は一瞬戸惑った。

目の前の女性と母親を重ねてしまったことに…。

「こっちにありますよ」

ガーベラのある場所へ行くと、彼女はガーベラを見てニッコリ笑った。

「何色がいいですか?色んな色を混ぜたほうがいいですか?」

花の話をする彼女は楽しそうだった。

希道の花の話をする時は楽しそうに話してたことを思い出す。

「黄色いガーベラを」

「プレゼントですか?」

「今日、母の命日で、墓に供えるんです」

言った後で、希道は彼女には、この言葉は重すぎる気がした。

「いや…、あのこんな話して。すいません」

「どうして?それって、亡くなった、お母さんへのプレゼントじゃないですか?それだけ、お母さんを大事に思ってたってことでしょ?」

「…まあ、そうなんだけど」

「きっと、お母さんは幸せね。こんな綺麗な花を毎年プレゼントしてもらえるなんて」

彼女は楽しそうに笑顔で言った。

「…」

つくづく母に似ている…と、希道はボンヤリと目の前の彼女を見ていた。

彼女は目の前で、黄色のガーベラの花束を作っていく。

その間も彼女は楽しそうだった。

「はい。できましたよ。…やっぱり、綺麗!」

彼女は希道に花束を見せながら、うっとりした目でガーベラの花束を見ていた。

その彼女に希道は見とれていた。

希道は、母親が亡くなってから、こんなに自然体で屈託のない笑顔をする人間に会ったのは初めてだった。

希道は支払いを済ませると、彼女からガーベラの花束を受け取る。

「お母さん、きっと喜びますよ」

彼女は満面の笑みで言った。

「…」

希道は一度うつむいてから、顔を上げる。

「あの…、俺、一ノ瀬希道といいます」

「いい名前ですね」

「花は詳しくなくて…。できれば、花について教えてもらえませんか?母は花が好きでした。だから、少しでも花について知りたくて」

「…花についてですか。いいですよ!あたしでよかったら」

彼女は笑顔で言った。

「あっ、ありがとうございます!」

希道は笑顔で言った。

「あたしは神代なずなっていいます。いつも、このお店にいるので、花の話が聞きたい時は来て下さい」

なずなは穏やかな笑顔で言った。

それから希道は時間があれば、なずなのいる花屋に行った。


 「黄色いガーベラの花言葉って知ってる?」

なずなは楽しそうに言った。

今日もまた、希道はなずなのいる店に来ていた。

「知らないけど…?」

「究極の愛、優しさっていうの。話を聞く限り、希道のお母さんは優しい人だものね。ガーベラは、希道のお母さんそのものね」

なずなは笑顔で言った。

「…母さんはね。でも、父さんは冷たい人間なんだ」

希道は、なずなから目を逸らすと唇を噛んだ。

「でも、いいじゃない。お父さんだけでもいるなら。あたしの両親は交通事故で亡くなったの。おまけに一人っ子だし。本当に一人になっちゃったんだよね」

なずなは恥ずかしそうに舌を出して笑った。

「ずっと、一人で生きてきたの…?」

希道は、なずなを真っすぐに見た。

「ううん。親戚に引き取られて。一人じゃなかったけどね」

そう言って笑ったなずなは、なぜか哀しそうだった。

「そうか…」

希道は、なずなの手をとった。

「…?どうしたの?」

「もし、困ったことがあったら、いつでも連絡して。必ず力になるから」

「うん。ありがとう」

なずなは満面の笑みで言った。

その笑顔は、まるで花のようだった。

少なくとも希道にはそう見えた。

それから、希道は閉店まで花屋にいた。

そして、なずなの仕事が終わると、なずなを家まで送っていった。

なずなの家は店から歩いて三十分ぐらいの距離にあった。

家に着くまで、二人は色々な話をした。

どうでもいいような話ばかりだが、それでも楽しかった。

このままの時間が続けばいいと思うほどに…。

しかし、時間はあっという間に過ぎ、なずなの家の前に着いた。

「また、お店に行くね」

「うん。ありがとう」

なずなが家に入っていくのを見届けると、希道は道を歩き出した。

後ろから、ゆっくりと黒塗りの車が近づいてくると、希道の隣に並んで止まる。

運転席の窓が開き、筋肉質な体とは裏腹に爽やかな笑顔の青年が顔を出した。

その青年は希道より、少し年上に見えた。

「もう、いいだろ?隠れてなくて」

「ああ。ありがとな。颯馬そうま

「早く車に乗れよ。明日も仕事だろ。早く屋敷に帰ろうか」

「わかってる」

そう言うと、希道は車に乗った。

まるで、友達のような会話をしているが、実は颯馬は希道のボディーガードだった。

希道がなずなと一緒にいる時は隠れるように言ってあった。

「いい子だな」

「母さんに感じが似てる…」

「そうか…」

颯馬は少し複雑そうな顔をしながら答えた。

「希道には必要な子かもな」

颯馬は希道の母親が亡くなる前の事を思い出す。


 あれは五年前のことだった。

余命宣告を受け、ホスピスに入院していた母親の元に希道は毎日のように通っていた。

母親はホスピスの特別室にいた。

特別室には他の病室にはないテラスがあり、病院の裏にある庭園を見渡せた。

庭園は花壇がほとんどを占め、花壇と花壇の間が通路になっていた。

そして、花壇いっぱいに花が咲き乱れている。

その中には母親の好きなガーベラもあった。

その日も、母親はテラスにある椅子に座って庭園を見ていた。

病室に入ってきた希道はテラスにいる母親の元へ行った。

「母さん、また、ここにいたの?」

「あら、希道。来たのね」

母親はやせ細った顔で笑った。

その笑顔は痛々しくもあり、温かった。

「寒くない?」

「大丈夫よ」

「また、花を見てたの?今度、母さんが好きなガーベラを買ってくるよ」

「ありがとう。でも、いいわ。歩くのがやっとで、花瓶の水を替えることはできないから。せっかく買ってきても、ガーベラを枯らしたら可哀相でしょ」

母親は笑顔で言った。

「母さんは本当に花が好きなんだね」

「そうね。花は私に元気をくれるの。見ていると楽しくなるわ」

母親は楽しそうに笑った。

「そうか…」

言いながら希道は庭園の花壇を見渡した。

色とりどりの花が鮮やかに咲き乱れ、その花を見ていると心が洗われるようだった。

「ねぇ、希道」

希道は答える代わりに母親を見た。

「母さんがいなくなっても、強く生きてね」

「母さん…」

「母さんは希道のことが心配なの。できれば、まだ、希道の傍にいたかった」

母親は哀しそうに言った。

「…」

母親は希道の右手の平を両手で包んだ。

「忘れないで。母さんだけは希道の味方だから。他の誰が味方してくれなくても母さんだけは希道の味方だからね」

母親は微笑んだ。

その瞳は涙で潤んでいた。

「…忘れないよ」

希道は左手の平で、自分の右手を覆っている母親の手を覆った。

手から伝わる母親の手の温もりが心地良かった。

生まれてから今まで、ずっと、温かい心で自分を包み込んでくれた人…。

そんな人が目の前で死んでいくしかない運命を背負っている。

そう、目の前にいるのに何もできない。

希道には、それが辛かった。

心が痛かった…。

微笑んだ希道の目にも涙が滲んでいた。

その様子を病室の中から見ていたのは、希道の護衛をしてきた颯馬だった。

二人を見つめる颯馬の目は哀しみに満ちていた。


 その日は曇り空だった。

いつ雨が降ってもおかしくない空だった。

しかし、幸か不幸か夕方になっても雨は降らなかった。

その日、希道は書類の整理や会議などで、会社に缶詰め状態だった。

それがわかっていたので、颯馬は希道の傍にはいなかった。

会社のセキュリティは万全で、誰か狙われる可能性は低いからだ。

希道は残業もあり、会社を出たのは夜八時だった。

会社の前には黒塗りの車で颯馬が待っていた。

希道は車の後部座席に乗る。

「お疲れ。大人しく仕事してたみたいだな」

「見てたのか?いなかったのに」

「そう、つっかかるなよ」

颯馬はため息をつきながら、笑った。

「…?颯馬。なんか変じゃないか?」

「おまえは本当に勘が鋭いな」

「…おまえ、今日、何してた?」

希道は訝しげに颯馬を見た。

「あの子のことを調べてた」

「あの子…。なずな…か。おまえ。なんで?そんなこと…!」

「そう。怒るなよ。どうせ、希道の親父さんに知られたら調べられる。で、こんな子とは別れろ…てなるだろ。だから、その前に知っておけば対策もできるだろ?」

「…そうだけど」

希道は不満そうに言った。

希道に断りもなく、なずなのことを調べた颯馬が許せなかったからだ。

「彼女、親戚の家にいるだろ。調べたら、あまりいい扱いをされてないようなんだ」

「どういうことだ?」

「彼女の収入のほとんどは生活費として、家にいれされられ。家の家事や用事は全て彼女に押し付けられているらしい。隣人が、何度も彼女が怒鳴られているのを聞いている。引き取られてすぐの頃は玄関から締め出され、泣いている彼女を見た人もいる」

「なんだよ。それ…」

いつものなずなの明るい笑顔からは想像がつかなかった。

なずなと一緒にいて、気づけなかった。

希道は怒りが込み上げてきた。

それは、なずなの親戚へのものと、何も気づかなかった自分へのものだった。

「颯馬。なずなの家へ行ってくれ。あんな所には置いておけない」

「言うと思った」

颯馬はニッコリ笑うと車を走らせた。


 同じ頃、なずなは仕事を終え、家に帰っていた。

玄関から入ろうとすると、玄関に義母が仁王立ちしていた。

「ごめんなさい。夕飯が遅くなって」

なずなは夕飯を待ちきれない義母が玄関で待っているのだと思っていた。

また、怒鳴られる…。

そう思って、早々と謝った。

しかし、義母が最初に口から発したのは夕飯とは無縁のものだった。

「おまえ、何やったんだい?」

「え?何って?」

「あんたのことを聞きまわってる男がいるって。警察じゃないかって、近所の人が言ってたのよ」

「警察…?あたし何も…」

「どうせ、警察に捕まるようなことでもしたんだろう?いつかやると思ってたよ」

「違う…!あたしは何も…!」

「とにかく、出てってくれ!警察に目をつけられるような人間は家においておけない!」

「でも、本当に何も…」

「言い訳はいいから、早く出てってくれよ。それと…警察に何か聞かれても、うちの家は関係ないと言うんだよ。いいね?」

そう言うと義母はなずなを家から放り出し、玄関のドアを閉めた。

「お義母さん!あたし、本当に何も!」

「うるさいね!早くどっか行きな!」

義母は怒鳴ると、ドアに鍵をかけた。

「…お義母さん!」

しばらく義母を呼び続けたが、ドアの向こうからは何の反応もなかった。

なずなは、その場に座り込んで、うつむく。

この家に引き取られてすぐの頃、よくこんなことがあった。

しばらくしたら、義母は家に入れてくれた。

なずなは、その事を思い出し、立ち上がり歩き出した。

時間が経てば、また家に入れてくれるはず…と。

とりあえず、雨も降ってきそうなので、お店に戻ることにした。

店先の軒下なら雨をしのげる。

お店に戻る途中、雨が降り出し始める。

雨に濡れながら、なずなはお店の軒下にたどり着いた。

その頃には、なずなはびしょ濡れになっていた。

雨に濡れた体は体温を奪われていった。

なずなは座り込み震えていた。

大丈夫。明日の朝になればお義母さんは家に入れてくれる。

だから、それまでの間、ここで…。

そう思っていると、なずなの持っているスマホが鳴った。

なずなはスマホを取ると、電話に出た。

「…はい」

なずなは震える体で、やっと、それだけ言った。

「なずな。今、どこにいる?」

それは希道の声だった。

「家にいるよ」

なずなは、とっさに希道に心配をかけないように嘘を言った。

「嘘をつくな。俺は今なずなの家の前にいる。親戚から、なずなを追い出したって聞いたばかりだ。大丈夫か?」

その声は労わるような優しい声だった。

「…」

「なずな。今どこだ?」

「お店…」

「わかった!そこから動くなよ!」

希道がそう言うと電話は切れる。

それと同時に、なずなは崩れるように、その場に倒れた。

希道が着いた頃には、なずなは雨の中、全身びしょ濡れになって軒下に横たわっていた。

「なずな!なずな!」

希道は叫びながら、なずなを抱きしめた。

なずなはぐたっりとして、意識がなかった。

抱きしめたなずなの体は熱で熱い。

「希道。病院に連れて行こう」

颯馬の言葉にうなずく希道。

それから希道は、なずなを病院に運んだ。

 翌朝になると、雨は上がり、なずなは病室のベッドの上で目覚めた。

誰かが自分の左手を握っているのに気づく。

その誰かがいる方向にゆっくりと視線を動かす。

そこには椅子に座り、ベッドを枕にして眠っている希道がいた。

その手はなずなの手にしっかり握られていた。

「希道…」

なずなの声に希道は目を覚ました。

ゆっくりと、なずなの顔を見た瞬間に目に涙を溜めた。

「どうしたの?希道」

「よかった…。目が覚めた」

笑顔で、そう言うと、希道はなずなの左手を両手で覆った。

「ごめん。知らなかったんだ。あの家でなずなが、どんな目にあっていたのか…」

「…」

「もっと早く気づいていれば…。ごめん」

「希道が悪いわけじゃ…」

「そうだとしても、俺がいて、なずなを守れなかったのは事実だ」

希道はうつむいた。

「もう二度と、なずなをこんな目に遭わせない。俺が守る」

「希道…」

なずなの左手を覆った希道の両手は震えていた。


 それから、希道はマンションを借りて、なずなと一緒に住み始めた。

朝起きると、キッチンでなずなが朝食を作っていた。

「おはよう」

卵の焼ける匂いがする。

「あ…おはよう。希道」

対面式キッチンで、オムレツを作っていた、なずなが顔を上げる。

「いい匂い。今日の朝ごはん何?」

「もうすぐできるから、それまで秘密」

なずなは笑顔で言った。

希道もニッコリと笑う。

それから、食卓テーブルにはワンプレートの朝食とコーヒーが並んだ。

ワンプレートの皿には、ホッとサンドとオムレツ、野菜サラダがのっていた。

「美味しそう。いただきます」

希道が朝食を食べ始める。

その様子をなずなは笑顔で見ている。

「そんなに急いで食べなくても、まだ時間は大丈夫よ」

希道は時間を気にしているわけではなかった。

毎朝、なずなが希道のために朝食を作ってくれるのが嬉しかった。

なずなといる時間は全て幸せな時間だったが、この時間もまた幸せな時間の一つだった。

だから、朝食を味わうことで、今の幸せを早く味わいたかった。

そうやって、希道となずなの幸せな時間は続いた。

 そんなある日、マンションに帰ると、緊張気味の様子でなずなが希道を出迎えた。

笑顔だが、ぎこちない。

「何かあった?」

なずなはうなずくと、リビングに着くまで無言だった。

ソファーに座ると、希道にも反対側のソファーに座るように促す。

「なずな?」

微かに希道の中に不安がよぎる。

いつもなら明るい笑顔で出迎えてくれるのに、明らかにおかしい。

「希道…。話があるの」

「うん…」

希道は息を飲んだ。

何を言われるんだろうと、内心怖くもあった。

なにしろ、こんな態度のなずなを見たのは初めてだった。

「赤ちゃんができたの」

「…え」

希道は驚いて、それ以上何も言えなかった。

「やっぱり、困るよね…?」

なずなは、ため息をついて俯いた。

「なずな…」

希道は、やっと我に返った。

「違う!違うんだ!その…びっくりして」

希道は息を飲んで、まっすぐになずなを見る。

一瞬、空気が静まり返る。

「なずな。結婚しよう」

なずなは顔を上げた。

「俺とお腹の子供となずな。三人で家族になろう。二人とも俺が守っていくから」

希道は穏やかな笑顔で言った。

希道を真っすぐに見つめる、なずなの目に涙が潤んだ。

「うん」

そう言うとなずなは微笑んだ。

しかし、希道となずなの結婚は希道の父親には認めてもらえなかった。

二人は引き離され、希道には見張りがついて、なずなの元へは行けなくなった。


 それから、希道は仕事も手に着かず、屋敷の自分の部屋に籠るようになった。

そんなある日、希道の部屋へ颯馬が入ってくる。

「希道。大丈夫か?」

「颯馬か。なずなは大丈夫か?」

「ああ」

「そうか…」

希道は嬉しいような哀しいような複雑な表情をした。

颯馬は希道の父親から、なずなの面倒を見るように言われていた。

希道をなずなに会わせられないが、颯馬になずなの話をさせることは許していた。

「結婚は許さないが、子供は跡取りとして引き取る…か。勝手だな」

颯馬はため息をついた。

「なずなから子供だけ取り上げるつもりか…」

「なずなも、それはわかっている。でも、子供を取り上げられたら、なずなは…」

颯馬は、それ以上、何も言えなかった。

「…颯馬。頼みがある」

「ん?」

「なずなを連れて逃げてくれないか」

「は…?」

「無茶な頼みだっていうのは、わかってる。でも、俺はなずなの傍にはいてやれない。父さんが、どんな人間か、おまならわかるだろ?俺がなずなと逃げれば追ってくる。あきらめることはない…」

「確かにな…。でも、俺が一緒に逃げたとしても、お腹の子供はあきらめないだろう。状況は変わらないと思うが」

「そうだよな…」

希道は哀しそうにため息をつく。

「…」

颯馬は、しかたないな…というように、ため息をついた。

「じゃあ、こうしよう。なずなは自分の置かれた状況のストレスから流産。失意の最中、姿を消した…と。流産の診断書は医者に偽造させる。そして、なずながいなくなった一カ月後、何もかも嫌になったという理由で、俺はおまえのボディーガードを辞める。そして、希道の代わりに子供の父親として、子供となずなを守っていく。それで、どうだ?まあ、俺が父親になるのは気に入らないだろうけど」

「いや…。そんなことはない。でも、いいのか?」

「何を今さら。自分で言っておいて」

「そうだけど」

「本当は希道にも、なずなにも幸せになってほしかったんだけどな。他に俺にできることはなさそうだからな」

「なんで、そうまでしてくれるんだ?」

「昔の話だが。おまえの母親に俺は助けられた。交通事故で家族を亡くし、親戚からも疎まれ、行き場を失くして街をさまよっていた俺を拾ってくれた。だから、今度は、あの人の子供である希道を守ろうと思ってボディーガードになった」

「颯馬…。それって」

「ああ。なずなと似てるだろう?俺の過去」

颯馬は哀しそうな笑顔で言った。

「だから、なずなには幸せになってほしくて、おまえ達に協力してたんだけどな」

「そうか…。それなら、なずなを守れるのは颯馬しかいないな。颯馬。なずなを頼む」

希道は穏やかな笑顔で言った。

「ああ。まかせとけ」

颯馬は笑顔で言う。

そして、なずなは表向きは流産し、姿を消したことになった。

その後、颯馬が子供の父親となった。

それから、慎が希道に引き取られるまで、颯馬と希道は連絡を取り合い、お腹の子供、慎を守っていた。


 それから十五年後のある日、颯馬から希道に電話がきた。

「どうした?電話してくるなんて、何かあったのか?」

希道と颯馬は、いつもSNS上でやり取りをして直接電話で話すことはなかった。

もし、電話だろうと…なずなや慎の話をしてしまえば、会いたくなってしまう。

だから、特別なことがない限り、SNSという一方的なコミュニケーション方法で、距離を置いていた。

「天の羽が、うちの家族を狙っている…」

「天の羽が…」

希道は息を飲んだ。

「わかった!すぐに迎えにいく。おまえ達家族は私が守る!」

「希道なら、そういうと思った。なずなとも話し合ったんだが、慎だけ守ってくれればいい」

「何言ってるんだ?このままじゃ、殺されるんだぞ!」

「わかってる。でも、俺たちを助ければ、おまえだって危ない。聞いたぞ。天の羽の被害者を助けていた、おまえの秘書が殺されたって」

「それは…」

「天の羽は今、政府から追い詰められてる。何をするかわからない。もし、俺たちを助けたことがわかれば、おまえごと俺たちの命を狙うだろう」

「私はそれでも構わない。おまえ達を見殺しにするくらいなら」

「俺たちは、それでもいいかもしれない。でも、慎は違う。まだ、十五年しか生きてない。そんな子供を道ずれにできるか?おまえの息子なんだぞ」

「…それは」

「だから、今度は俺の頼みを聞いてくれ。慎を守ってくれ」

颯馬は静かな声で言った。

「颯馬…」

「頼む。希道」

「…わかった」

希道は深くため息をついた。

「ありがとう。希道」

颯馬の穏やかな声が聞こえてくる。

「それはこっちのセリフだ。おまえは私の家族を守るために人生をかけてくれたんだ。そのおまえの頼みなら断れるはずがない…。ただ、なずなは本当にそれでいいのか?」

「そう言ってるが…本人に代わる。直接、話しろ。これが最後かもしれないからな…」

「…最後。そうか」

哀しそうに希道は言った。

「希道…?」

電話から聞こえてきたのは、少し変わってしまったが聞き覚えのある女性の声だ。

「…なずなか?」

希道は少し言葉に詰まりながら言った。

「そうよ。久しぶりね。元気そうで良かった」

「もう、話すことはないと思っていたのに…」

「あたしは話したかった」

なずなは寂しそうに言った。

「でも、希道に迷惑をかけたくなかった。あたしと慎を守ってくれた希道に、これ以上迷惑をかけたくなかったから」

「そんなこと…。私たちは本当の家族だ。守るのは当たり前だ」

「そう思っていてくれたのね」

電話の向こうの、なずなは嬉しそうだった。

「この十五年間、息子の慎との幸せな生活をくれて、ありがとう。あたし、幸せだった。だから、もういいの。慎さえ守れれば」

「なずな…」

「希道には大変なことを頼んでしまうけど。他に慎を頼める人がいないの」

「わかってる。慎は私が必ず守る」

「ありがとう。希道」

なずなは嬉しそうに言った。

「こんな形になってしまったが。本当は、なずなと慎と家族として暮らしたかった」

希道の目が涙に潤む。

「離れてたけど、希道は、あたしにとってはずっと家族よ。慎は、これから家族になていくしかないけど。きっと、大丈夫。だって、慎はあなたの息子だもの」

なずなの優しい声が電話ごしに聞こえてくる。

「ありがとう。なずな」

涙が溢れてくる。

こんなにも大切な人が殺されるとわかっているのに、助けることができないなんて…。

守りたいもの全てを守ることなんてできないのが、現実なのか…。

そんな、やるせない想いから、ただ、泣き崩れるしかなかった。

それから、慎を仁が迎えに行った後、天の羽が駆けつけ、なずなと颯馬は家に火を放ったという。

慎も一緒に死んだように見せかけるためだったが、天の羽へのささやかな反抗だったのだろう。

おまえ達には殺されない…という。


 その事実を知らされた慎は言葉もなく、希道の前でうついていた。

「急にこんな話をされても、信じられないかもしれない。だから、信じたくなければ信じなくていい」

希道は穏やかな口調で言った。

「ただ、これだけは信じてほしい。私も颯馬も、母さんと慎を守りたかった。生きてほしかったんだ」

「生きる…?父さんと母さんを犠牲にしてまで…?」

慎の頬に涙が零れる。

「慎…」

心配そうに見る希道と目が合うと、慎は書斎を出て行った。

書斎の前の廊下にいた仁の前に、書斎から出てきた慎が仁には目をくれず走り去る。

「慎!」

「仁…」

慎を追いかけようと書斎から出てきた希道が、仁に気づくと立ち止まる。

「何があったんです?」

「すべて話したが…。慎は両親を犠牲にして生きていることに負い目を感じているようだ」

「…そうですか。わからなくないが」

仁はため息をついた。

「それでも、生き残った者は生きていくしかない。魔女狩りの後では、誰もがそうなんだ。亡くなった者の分まで人生を生きる。それが犠牲になった者達への、せめてもの弔いだ」

そう言った仁は寂しそうだった。

その日は慎は部屋から出てこなかった。

仁が声をかけても何の反応もなく、部屋は内側から鍵がかかっていた。

それは慎が一人にしてほしい…と言っているようだった。

しかたなく仁は翌日まで慎をそっとしておくことにした。

しかし、翌朝、仁が慎の部屋へ様子を見にいくと、そこには慎の姿はなかった。


 

 スマホを見ると、まだ、朝七時だった。

慎は開館前の水族館の入り口前にあるベンチに座っていた。

開館時間は十時なので、まだ誰の姿もない。

たった一人、ベンチに座っている。

今は、この状態が心地よかった。

何も考えたくなかった。

生まれた時から父親だと思っていたのは、本当の父親ではなかった。

そして、何のつながりもないと思っていた義父が本当の父親だった。

今さら、そんなこと言われても、どうしろって…。

そんな言葉しか、頭に浮かばなかった。

慎の記憶の中にある父親と呼べる人間は確かに一人しかいない。

慎は体を丸めて、寝転んだ。

「母さん…。俺、どうしたらいい?」

慎は瞼を閉じた。

 慎は母親との思い出を思い出していた。

それは慎の小学校の入学式のことだった。

なぜか、ずっと忘れていた記憶だった。

入学式の間中、慎は後ろの席に座っている母親を何度も振り返っていたのを覚えてる。

なぜか、父親は入学式には来ていなかった。

式が終わると、教室まで母親が迎えにきた。

そして、校門に向かって歩いて行った。

その小学校は校門まで桜並木が続き、その桜並木の中ほどに一人の見知らぬ男性が立っていた。

それは入学式の来賓席にいた男だった。

母親は慎を連れて、その男の前まで行った。

「入学、おめでとう」

男は言った。

「ありがとう」

母親は嬉しそうに笑った。

男は体をかがめ、慎の視線の高さまで自分の視線を合わせて笑顔を見せた。

「もう小学生か。時間が経つのは早いな。私を覚えてるか?」

「うん。卒園式で会った人」

その男は慎の幼稚園の卒園式にも来賓として来ていた。

「…そうだな」

男は少し哀しそうに笑った。

「いつも君といることはできないが、こんな特別な時だけ君に会えるのが一番嬉しいよ」

男は微笑んで慎の頭を撫でた。

男の言ってることの意味はわからなかったが、男の手は、とても温かった。

「慎。他人を思いやれる優しい人間になりなさい。母さんのように」

そう言うと男は立ち上がった。

「もう、行くの?一緒に食事でもと思ってたんだけど」

母親が残念そうな声で言った。

「ああ、長くいれば別れが辛くなる。今度、会うのは慎の小学校の卒業式だ」

「そうね。まだ、本当のことを知るには慎は幼すぎるものね。それまでは…こうするしかないのね」

母親は寂しそうに言った。

「すぐに、その時は来るさ。それまでだよ。しかし、よく慎をここまで育ててくれたね。ありがとう」

「あたしだけの力じゃないわよ」

名残惜しそうに母親は男を見ていた。

「じゃあ、颯馬によろしく」

そう言うと男は去っていく。

「母さん、あの人誰?父さんの友達?」

「そうね…。友達。確かにそうかもしれない」

母親は曖昧に言って、寂しそうに笑った。

 半分、居眠りしながら、思い出していたのか…夢を見ていたのか、そんな曖昧な状態から慎は目を覚ました。

時間は十時を過ぎていて、すでに水族館は開館していた。

慎は起き上がると、入場料を支払って水族館に入っていく。

薄暗い水族館を歩きながら、さっき思い出したことを考えていた。

忘れてたけど、あの男、もしかして…。

考えかけて、その考えをかき消した。

その事実を認める勇気がなかった。

慎は他の水槽には目もくれず、ミズクラゲの水槽まで歩いていった。

ミズクラゲの水槽を見つけると、立ち止まる。

ミズクラゲを見ていると、なぜか気持ちが落ち着く。

なんでミズクラゲに癒されるんだろう?

なんだろう?この感覚…少し懐かしいような…

ぼんやりとミズクラゲを見ながら、そう考えていると。

頭にぼんやりと忘れていた記憶が蘇る。


 それは慎が七五三のお参りをした日のことだった。

お参りを終えた後、両親と一緒に水族館に来ていた。

七五三のお参りの後に水族館とは不自然な気もするが、この日じゃなければならなかったのだ。

その理由は思い出せずにいた。

そして、ミズクラゲの水槽の前にいた。

水族館の中は薄暗くて周りにいる人間の顔もよく見ないとわからない。

でも、慎と繋いだ手は間違いなく両親のものだった。

薄暗くても、その手の温かさに慎は自然と笑顔になっていた。

「ミズクラゲきれいね」

母親が言った。

「こんな風に私たちも自由に泳げたら…」

父親は寂しそうに笑った。

「でも、こうやって一緒にいることはできるじゃない?」

母親は明るい笑顔で言った。

「慎。おいで」

父親は幼い慎を抱きかかえると、ミズクラゲを一緒に見た。

「きれいだろ?」

父親は笑顔で言った。

「きれい」

満面の笑みで慎は言った。

「見てると癒されるだろ?だから、好きなんだ」

父親は笑って言った。

慎は癒されているという言葉の意味がわからず、父親の顔を見つめていた。

「慎。知ってるか?おまえの名前の意味。過ちや軽はずみなことをしないって意味だ。そんな人間なら、きっと他人を思いやれる優しい人間になれる。その優しさで、こんな風に関わる人を癒せるような人間になってほしい。そう思ってつけた名前だ」

穏やか笑顔の父親の顔がミズクラゲの光で照らしだされる。

それは慎の知っている父親の顔ではなかった。

若いのもあるが、まったくの別人だ。

 慎は、ハッと現実に引き戻される。

水族館で一緒にいた父親は慎の知ってる父親ではなかった。

しかし、その顔は見覚えのある顔だった。

「希道…」

慎の目に涙が滲んでいた。

それと同時は、慎は不審な気配に気づいた。

慎以外、誰もいないはずの時間にも関わらず、誰かの気配。

それは水族館の従業員のものではない。

それは、わかる。

なぜなら、殺気を感じるからだった。

慎は気づいてないフリをしながら、ミズクラゲの水槽から離れ、水族館の奥へ向かって歩いた。

ミズクラゲの水槽の先は広いスペースになっていて、小魚の泳ぐ円柱型の水槽がいくつもある場所だった。

そこなら、誰かに追いかけられとしても水槽の間を走り、逃げられるかもしれない。

慎はそう考え、円柱型の水槽のあるスペースに移動した。

そして、とある水槽の陰に隠れると、水槽の間を右に左にとランダムに走って行く。

すると、確かに誰かが追ってくる。

水槽の陰に隠れながら右に左にと逃げるが、相手は慎を見失うことなく追ってくる。

それどころか、慎の逃げるパターンに気づき、先回りを始めた。

右に行ったら左にと単純な動きなので、慎が右に行ったら次は左に行くので、そのまま慎の後を追って右に行かずに、真っすぐ行けば左に行く慎の前に先回りできる。

ついてこない相手に気づくと、慎は先回りされていることに気づき、左には行かず真っすぐ進む。

しかし、そうやって左に行く選択肢がないと、真っすぐか右しかない。

そうなると、慎は右側に追い詰められていく。

それが、相手の狙いだったのか、慎は右奥の行き止まりに追い詰められた。

目の前には路地裏で慎達を襲ってきた黒づくめの男がいた。

ナイフを抜いて、慎に襲い掛かってくる。

慎はナイフをよけながら、逃げる隙をうかがう。

しかし、男の動きは早く、逃げる隙がない。

しかも、辺りは薄暗く見渡しが悪い。

ナイフを避けながら、慎は壁に何度もぶつかる。

それで体力を消耗していった。

そして、また男のナイフを避けた時、慎は壁に頭を打ち付け気を失い、その場に倒れた。

男はとどめを刺そうとして、倒れた慎の前に立つ。

男が慎に向かってナイフを振り下ろした時、ナイフは何者かによって弾き飛ばされる。

男のナイフを弾き飛ばしたのは、光樹の撃った銃弾だった。

怯んだ男に仁が蹴りを入れる。

しかし、男は素早く後ろに下がる。

男を銃で狙う光樹、倒れた慎の前に立つ仁、もう慎の息の根を止めるのは難しかった。

そう、悟った男は逃げだした。

「あいつ…!」

光樹は男を追いかけようとした。

「待て!相手は殺しのプロだ。一人で追いかければ、相手の思うつぼだ。複数なら苦戦しても一人なら簡単に殺せる」

「…確かに、そうかもしれないな」

光樹は立ち止まる。

「慎はどうだ?」

男が逃げて行った方向を見ながら、光樹が言った。

「軽い脳震盪のうしんとうだろう。慎を背負うから手を貸してくれ」

「わかった」

光樹は銃をしまうと、慎を仁に背負わせた。

「しかし、無事でよかった」

仁はため息をついた。

「…にしても、信じられない。慎とは血がつながってなかったのか。俺たちは本当の従兄弟じゃなかったのか」

光樹は複雑な表情をする。

「慎とは父親同士が兄弟なんだったな。その父親とは血のつながりがないなら、そうなるな。でも、関係あるのか?それって?」

「そんな簡単な話じゃないだろ…」

光樹はため息をついた。

「血がつながってなかったって、慎と従兄弟として生きてきた年月は嘘じゃないだろ。そこには信頼も愛情もあったんじゃないか?」

真っすぐに見て言った仁から目をそらせない。

「そうだな…。おまえの言う通りだ。血の繋がりなんて関係ない」

光樹は少しでも動揺した自分を笑うかのように笑った。

繋がりなんて関係ない。

ただ、必要なことは、大切かどうかだけ。

だから、慎と血がつながってないと知っても助けに来たんじゃないか。

「本当、バカだな。俺」

光樹は笑った。


 慎が目を覚ますと、そこは屋敷の自分の部屋だった。

部屋にあるソファーに希道が眠っているのに気づく。

ずっと、ついててくれたのか…。

起き上がると、気配に気づいたのか希道が目を覚ます。

「慎!」

慎が目を覚ましているのに気づくと、慎の傍まで来た。

そして、慎を抱きしめた。

「良かった。本当に無事で良かった!」

慎を抱きしめる希道の声は涙声だった。

「俺、人を思いやれる人間になれたかな?」

「慎…」

希道は慎から離れる。

「思い出したよ。本当の父さんのこと」

慎は穏やかな顔で言った。

「俺の名前をつけてくれて、ありがとう。父さん」

慎はニッコリ笑った。

希道の目から涙が溢れた。

どんなに大切に想っても、その想いが伝わらないのは身を裂くように辛い日々だった。

慎を引き取ってから、ずっと、そんな状態が続いていた。

本当の父親は自分なのだと、どれだけ言いたかったか。

どれだけ大切に想っているか伝えたかったか。

しかし、両親を亡くし哀しみに暮れる慎に本当のことを話すのは酷なことだと、本当のことを言えずにいた。

そんな想いがやっと今通じた。

希道は言葉を無くして、ただ泣いていた。

今、大切なものが本当の意味で自分の手の中にあるのを感じて、涙が止まらなかった。







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