40話 下がって上がって

 マンションから見える街並みは次第に明るさを増し、新しい一日の始まりに高揚感を覚える。


 ガチャガチャ


「おじゃましま〜す」


 返事があっても困るのだけど、礼儀として言葉にしている。


 長年の憂いがなくなり、ゆうくんとの甘い生活を思い描いていたせいで一睡もすることなく朝を迎えてしまった。


 眠気? いまの私にはそんなものは感じている暇もない。なぜならこれからの人生プランを思い描くには寝る間も惜しんでいる場合ではないからだ。


 玄関で靴を脱ぎ、廊下を進み先ずはゆうくんの部屋の扉を開ける。

 ベッドから規則正しい寝息が聞こえてくる。


「おはよう、ゆうくん♡」


 起こしてしまわないようにゆっくりと扉を閉めてキッチンに向かった。


 スポーツマンである彼は朝からきっちり食べる人。だから本当ならフルコースでも用意してあげたい気分だけど、愛が重すぎるような気がするので和食で気持ちを落ち着けたいと思う。


「ふんふんふんふ〜ん♪」


 あらやだ。自然と鼻歌なんて歌っちゃったりして。


「いけない、いけない。まだ大事なことを伝えられてないんだから油断は禁物だね。かと、言って朝から告白っていうのも難易度が高いなぁ。やっぱり今晩にでも改めて時間作ってもらおうかな?」


 今日は練習後にバイトに行くはずのゆうくん。晩ご飯はいらないから私がこれるような理由が欲しい。


「正直に話があるからって言わなきゃね。ゆうくんも鈍感なところがあるからストレートに言わなくちゃ」


 かちゃかちゃとボールの中のタマゴをかき混ぜながら決意を新たにした。


♢♢♢♢♢


「ゆうくん。朝ですよ〜」


 甘ったるいひなの声で目を覚ました俺は、思いがけない光景に頭を抱えそうになる。


「まじか〜」


 そんな俺に、ひなは首を傾げた。


「ゆうくん?」


「ああ。まずはおはよう」


「うん。おはよう」


 屈託のない笑顔。清々しいというか、憑き物が取れたというか。心底俺の戸惑いがわからないと言った様子だ。


「あ〜、朝メシ作りにきてくれたのか?」


「うん! 今朝は和食にしてみました。ほらほら。遅くなるといけないから早く準備してよ」


 ベッドから軽い足取りで降りたひなは、ご機嫌な様子で俺の手を引っ張った。


「いやいや。あのな、ひな」


 どこまでが素のひななのかわからないが、どこかで無理をしていることは明白だ。


「ん? どうしたの?」


「毎回言ってるけどな、俺のお世話はしなくても大丈夫だぞ? もう罪悪感なんて持たなくてもいいし、勘違いされたくないだろ?」


「勘違い? 誰が何を勘違いするの? 私とゆうくんは幼馴染だよ? えっ、と。今は、まだ、ね?」


 ポッと頬を赤らめながら何故か照れ臭そうに身じろぎする、ひな。


「いや、お前。他のやつが知ったらお前が浮気してると思われてもおかしくない状況だからな? 俺だってまりあに勘違いさせたくないし」


 まだ付き合っていないとはいえ、お互いの気持ちは確認済み。状況は把握してくれてはいても、いい気分ではないだろう。


「浮気? あ、あのね、ゆうくん。その話なんだけど、こうくんとはね、その……別れたって言うのか、その……」


「……は? 別れた?」


 俺の目から見ても2人は仲の良いカップルだった。それが突然別れたってことは何か特別な理由があるはずだ。


「う、うん。ホントは昨日、話そうと思ってたんだけどね? その……実は、ずっとゆうくんのことが、す、好きだったの。だから、こうくんとはその……」


「はぁ? な、何言ってるんだよ! 俺のこと……。で、でもそれならなんで光輝と付き合ってるんだよ。そんなのは不誠実だろ? 光輝に対して失礼じゃないか? それに俺のことを好きって、お前……、しばらく俺のこと、避けてたじゃないか」


 ひなの突然の告白に狼狽するよりも微かな怒りを感じている。


 俺のことを好きだと思いながらも光輝と付き合っていた? それって浮気じゃないのか? いや、それよりも俺のことを好きっていうこと自体が俄に信じ難い。


 今でこそ普通に話せているが、ひなとは一時期疎遠になっていた。それが思春期による特有のものだったかもしれない。それでも、他の女子。例えばみっちゃんなんかとは昔から変わらず仲良くさせてもらっている。


「避けていたわけじゃないもん! それに、こうくんとは元々付き合ってたわけじゃないの。その、お互いに思惑があったというか、私には、ゆうくんを好きになる資格なんてないと思ってたから……、だから、忘れようと思ってたの。でも、でもね? やっぱり無理だったの。ゆうくん以外の人を好きになんて———」


 付き合ってなかった? いや、付き合うことになったってお前の口から聞いたんだけど? 

 すでにひなの言っていることが理解できなくなってきていた。


「待ってくれ! 朝から色々言われても訳わかんねぇよ。とりあえず帰ってくんねぇか? 頭の整理がつかない」


 ただでさえ寝起きで冴えない頭に、意味不明のひなの告白。すでにキャパオーバーで軽くパニック状態だ。


「……うん。ごめんね」


 ひなは目元を手で覆いながら部屋を出て行った。


♢♢♢♢♢


「頭いてぇ」


 連日のひなの告白に頭が追いつかない。


 他に好きなやつがいるのに違うやつと付き合えるもんなのか? お互いに割り切ってればOKなのか? それって軽いノリで『付き合うか?』みたいな感じなのか? お互いに『好き』って気持ちがなくても付き合ってるって言えるのか? 


「まじ、訳わかんねぇ」


 俺の考えがおかしいだけなのかも知れないけど、付き合うってのは『好き』って気持ちあってこそじゃないのか?


 それに……ひなが俺を好きだって? そんなこと言われても信じられねぇよ。諦めなきゃいけないから好きでもないやつと付き合う? なんだそれ? 


「もう一度、寝ようかな」


 答えが出ない状況に、現実逃避をしたくなった。


♢♢♢♢♢


 新しいバイト仲間が加わった無双庵。


「おっ! 柏原くん上がり? お疲れ様」


 立花辰也たちばなたつやさんは20歳の大学生。


 近くの大学のサッカー部に所属しているらしく、爽やかなイケメンだ。


「お先っす。立花さんラストまでですよね? 


 若干、含みを持たせた言い方をするとたははと笑いながらホールに視線を移した。


「あ、えっと。3名様ですね? こちらのカウンター」

「若菜さん、テーブル席空きました! こちらにお通ししてください」


 ホールではまだ慣れない様子の新人さんが、まりあのサポートを受けながら接客をしている。


「ありがとう、真理亜ちゃん」


「いえいえ。私、もう上がりですので後はお願いしますね」


 こちらは近場の短大に通う若菜わかなルイさん。たしか立花さんの一つ下の19歳。

 2人は高校時代の先輩後輩にあたり、たまたま無双庵のバイトで再開したそうな。


「まっ、頑張りますよ。さ、仕事終わった人はさっさと帰る」


 右手をヒラヒラさせ、シッシッと追い出そうとする立花さんの横を、食器を下げにきた若菜さんが気まずそうに通り過ぎて行った。


「……本当に頑張ってくださいよ?」


「わかってるってば!」


 そんな様子を見た俺は、ため息混じりに声を掛けた。


♢♢♢♢♢


「あははは、仕方ないわよ。フッた相手と再会だもの。しかも立花さん、まだ諦めきれてないんでしょ? 若菜さんとしてもどう接すればいいのかわからないみたいね」


 バイトの帰り道。自然と話題は立花さんと若菜さんの話になっていた。


「フラれ方が納得出来なかったのが一番の原因みたいだな。立花さんとしては一途に若菜さんと付き合ってたみたいなんだけど、若菜さんは自分はつり合わないからって思い込んじゃったみたいだ」


 若菜さんはどちらかというと控えめなタイプ。陽キャ全開の立花さんとじゃつり合わないと思う気持ちはわからなくはない。


「ん〜? 若菜さん、年下の私から見てもとってもかわいらしいわよ?」


「あ〜、だよな。俺もそう思う」


「む〜。ちょっとゆーと? そこはそう思っても黙っておくのが正解よ。じゃないと私が全力でヤキモチ妬くわよ?」


 フンっと顔を逸らしながらも、身体はギュッと俺の腕を抱きしめてくる。


「あ、これはこれでいいかも」


「よくないわよ?」


 本気で拗ねてるわけじゃないので、かなりかわいい。


「あははは。何はともあれ、職場の環境改善のためにも早急に対処してもらいたい案件だよな」


「そうね。それともう一つ、早急に改善しないといけない案件があるわね」


「?」


 正面に回り込んだまりあは、両手で俺の顔を掴みじっと見つめてきた。


「また疲れた顔してる。何かあったのよね? そうね……いまからその、ゆーとのお宅にお邪魔しても、いいかしら?」


 時刻は午後8時ちょい前。


 大人の階段を駆け上がるにはもってこいの時間だ。

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