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 乗客のまばらな午後の電車に揺られながら、彼はふとあの夜の歩道橋を思い浮かべた。思えばあの夜から、自分は音を立てて崩れ始めたのだと彼は思い当たった。そう考えるとあの歩道橋を直に確かめたくなり、彼はその駅で電車を降りた。

 商業施設とテナントビルの密集する駅周辺は変わらず人に溢れ、階段や歩道上に無数の動線ができていた。彼は冷たいビル風にマフラーを引き上げながら、動線の一つに着いて歩道橋の階段を上っていった。人の背中越しに彼の目の高さと並行になった通路が視界に入ったその瞬間、彼はあっと声を漏らした。あの女が佇んでいた付近の保護壁に、白い菊の花が一輪活けられた透明な花瓶が置いてあったからだ。

 階段半ばで足を止めた彼の傍を通行人が鬱陶しそうに次々通り過ぎたが、彼の念頭から周囲のことは消え失せていた。彼は最後に女を見た瞬間の記憶を必死に辿っていった。あの時、信号待ちだった彼が人の流れに押し出されて歩道に目を転じたまさにその瞬間、女の視線がはっきりと彼に据えられ、女の口の端に微かな笑みが浮かんだのを彼は思い出した。

 間違いなかった。あのうっそりとした微笑みの感じだと多分、女はもう死んでいた。死んだ女があの夜闊歩していた大勢の中から彼を見初め、笑いかけてきたのだ。

 彼は目の前で緞帳が下がっていくように、静かに希望が閉ざされるのを感じた。反射的に肌に粟が生じたがそれは単なる身体的な条件反射に過ぎず、彼は胸に兆す絶望を平静な気持ちで見据えていた。

 それはそれで悪くはないという思いが彼の頭を過った。世界中の全ての人間から見捨てられた今、この世にしがみ付く意味や意欲が内から湧いてこなかった。おそらく彼女がこの世で最後に見ただろう、歩道橋からの車道の流れを彼も眺めたいと思った。

 ようやく歩き出し、隅に置かれた花瓶まであと数歩のところまで来た時、彼は自分の肩を背後から引く強い力を感じた。驚いた彼が弾かれたように振り返ると、彼の肩に手をかけていたのは、彼とほぼ同年代に見える柔和そうな面立ちの女性だった。

 彼はかつてこんな顔付きをした女を幾らでも目にしてきたが、それはたいてい街頭で聖書を配ったり、人の家の玄関先で一方的に教義を説いてくるような女だった。そのような人種特有の、世間と乖離した原理崇拝者めいた温和さがこの女にも感じられて彼は咄嗟に手を振り解きかけたが、女の言葉が彼の動きを封じた。

「本当に辛かったですね。でも、これも何かのご縁ですね。もう私と会いしましたから。どうか安心なさって下さい」

 その口調に籠った心からの労わりの気配が、彼の抗う気持ちを萎ませてしまった。その言葉がすっと胸に滲みていったことに彼自身が驚いた。

「分かるんですか?」

 それでも警戒心を起こした彼が尋ねると、彼女は歩道橋の花瓶を指差した。

「あそこで女の人を見ましたね? 他の人には見えない女の人を」

 突然事実を言い当てられた驚愕が、彼の警戒心を吹き飛ばしてしまった。彼は思わず訊き返した。

「あなたにも見えるんですか?」

 彼女は頷くと、変わらず柔らかな調子で言った。

「じゃあ、行きましょうか」

「え、何処にですか?」

 彼が咄嗟に尋ねると、当然のように彼女は答えた。

「私の家です。ここから数駅ですから、そんなに遠くないですよ」

 あっさり言われて、彼は素直に彼女に身を委ねる気になった。その方がいいと身体の方が判断を下した感じだった。

 彼女は歩道でタクシーを拾うと、後部座席に彼と並んで座った。仄かに柑橘系の香水の匂いと母親のような体臭が車中に漂い、人の体温をこんな風に直に感じたのは何年ぶりだろうかと彼は考えた。彼は性欲とはまるで異なる、人に直に触れ合った時に伝わる温もりに包まれるのを感じた。

「本当に、辛かったです」

 口から自然に本心が零れたのに彼自身が驚愕した。今まで人に弱みを見せまいと、堅く自身を縛って生きてきたのだ。女は頷くと、膝に置かれた彼の手を慰めるようにぽんぽんと軽く叩いた。彼はその箇所に残った体温が胸にじんわりと滲んでゆくのを感じた。

「それがあの女の人が抱えてた気持ちです。今は傍に来てるから、引き摺られてそういう気持ちになるんです。私が綺麗に祓いますからね」

 女の家は閑静な住宅街の只中にあった。突端から植木が方々に突き出た頑丈そうなブロック塀の外壁が延々と続き、その敷地の広大さが窺えた。

 黒い鉄の門から中に入ると蛇行した石畳の道が長々と続き、庭は雑木林かと思うほど植木や下生えで鬱蒼と茂っていた。女は母屋と思われる家には彼を導かず、石畳から途中で枝分かれして茂みに伸びた、獣道じみた細い道に彼を案内した。

 女は彼を案内しながら、訊かれ慣れたような口調で自身の来歴を手短に彼に話してくれた。女は界隈の由緒ある寺の住職の次女で、寺は長女が継いだそうだ。家系の影響で当人も霊験に恵まれ、宗派伝来の調伏の修法も習得しているとのことだった。驚いた彼が拝み屋みたいなことで生計を立てているのかと尋ねると、滅相もないといった風に小声で笑って手を振った。

「家賃収入です。隣りに小さなマンションが一つありまして。それで楽隠居を気取って世間様の苦労も碌に知らず、良くないんですけどね」

 彼女が導いた、茂みに伸びた小道の先に控えていたのは、離れの小さな社めいた建物だった。

護摩堂ごまどうです。ここで祓います」

 彼は彼女が導くままに、彼は社の中に足を踏み入れた。子供の頃に近所の寺に参詣した印象を思わせる造りで、中央に巨大な護摩壇が据えてあり、奥に結跏趺坐けっかふざした金色の仏像が控えていた。

 彼女は準備があると、護摩壇の前に置かれた紫の座布団に彼を座らせて一端社を出ようとした。彼は彼女を呼び止めて尋ねた。

「一体どうして、こんな見知らぬ他人なんかの為に、わざわざ労折ってくれるんです?」

 開かれた扉の前に立つ彼女が逆光でシルエットになってよく見えなかったが、彼女が微笑んだように彼には見えた。

「それが、私に課せられた勤めだからです」

 彼女はそう言って軽く会釈すると、社を出て扉を閉じた。彼は座布団に胡坐を掻いて彼女を待ちながら、ただ身を委ねればいいと思った。外は木々の騒めきや虫の鳴き声などの命の奏でる音に満ち、都市の喧騒とはまるで異なった悠久の時が流れているかのようだった。

 次第に獣道を静かに踏み分ける人の足音が耳に届いてきて、彼は何度か深呼吸をした。軋む木の扉を開いて中に入ってきた彼女を見た彼は仰天した。

 彼女は先程まで纏っていたブティックで揃えたような垢ぬけない衣装ではなく、片手に独鈷所を持ち、白い足袋に足を包み、黒の法衣に臙脂えんじの袈裟を重ね着した姿で現れた。柔和だった顔付きも、試合前の格闘家のような覚悟の漲った表情に一変していた。目は爛々と吊り上がり、緊張に窄まった口元に只ならぬ決意が滲んでいた。唖然とした彼に、彼女は神託を告げる時のような厳かな口調で告げた。

「それでは、これから始めます」

 そう言うと彼女は社の四隅の全てに、印を組んで揃えて突き出した人差し指を角の床に向けた姿勢で真言を唱え始めた。彼にも彼女が社の四方に結界を張っているらしきことは理解できた。

 彼は護摩壇の前に彼女が座ったところまでは覚えているが、そこから先は脳天に落雷したようなすさまじい衝撃と共に、黒い濁流のような混沌に飲み込まれて必死に藻掻くうちに、ぐっと彼女に肩を揺すられて突然我に返った。

 気が付くと社に電気が付いていて、その間完全に時間を喪失していたことに呆然とした。彼は変わらぬ姿勢で座布団に座っていて、目の前の法衣姿の彼女がまた柔和な表情に戻っているのを見て、思わず涙が滲んできた。

「た、助かった?」

 彼が切れ切れの声で尋ねると、微笑んだ彼女が大きく頷いた。彼は激しい感情の波に満たされてしまった。彼は床に這って嗚咽すると、心からの感謝の言葉を何度も口にした。彼女は彼の謝辞を謙遜し続けたが、ついに釣られて指先で瞼を拭った。身を挺してくれたばかりか、共に涙まで流すのかと思った彼は胸が締め付けられるのを感じた。

「本当に。良かったです。でももう大丈夫ですから」

 彼女の言う通りだった。あれほど彼を追い詰めていた気鬱は跡形もなく消え、近眼の人間が初めて眼鏡をかけた時のように全てが鮮やかに色付いて彼の目に飛び込んできた。

 彼女がハイヤーを呼んでくれた。ハイヤーが家の前の道路に停まると、黒い門まで彼女が見送ってくれた。ハイヤーの後部座席に乗る間際に彼が背後を振り返ると、彼女はこんな言葉とともに笑顔で彼を送り出してくれた。

「今まで辛かった分、これからはどうぞ健やかにお過ごし下さい」

 彼は深々と頭を下げると、背後を振り返らずに後部座席に乗った。もう一度彼女の姿を見たら堪え切れずに泣くと思ったからだ。

 夜の煌めきが次々と過る車窓を眺めながら、彼の思いは自然と彼女に戻っていった。あんな人間が本当にいるのだと思った。謝礼も一切受け取らず、マザー・テレサみたいな人間が本当に実在して、しかも彼の側まで降りてきて共に涙を流してくれるとは、突拍子もなさ過ぎて考えすらしたこともなかった。自身が身を以て施しを受けたにも関わらず、何故彼女が他人にあれほど無償の愛を注げるのかが、彼にはどうしても理解できなかった。

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