俺と先生を従えてホールの中に龍之介が入って来た時の反応は、開会式の時とさして変わらなかった。

 ブーイングは起こらなかったものの、失笑に近いような、そんな感じのどよめきがあちこちで起こる。

 俺はちらりと会場の一角に目をやる。

 奈津美が両手を握り合わせ、祈るようなポーズでこちらを見ていた。


 反対側の花道から相手の選手が入ってくる。

 赤い髪に鋭い目をし、肩幅が広く、胸板。腰、全てが分厚い筋肉の鎧に包まれている、典型的なロシア人闘士の大男だった。

 髪の色と同じような朱色のサンボジャケットを着て、下はレスリング用のショートタイツにレスリングシューズに似た靴を履いている。


 俺達二人と龍之介がリングに入ると、向こうは明らかにこっちを見下したような視線を投げかけてきた。

”なんだこんなチビか”

 恐らくそんな言葉を発したいんだろう。

 レフリーに中央に呼ばれ、英語と日本語で注意を受ける。

 相手(このイワンなんとかは、何でも全ロシアサンボ選手権で、二年連続優勝したとかいう経歴の持ち主らしい)はその間も、こっちを冷たい目線で見下ろしている。

 龍之介は相変わらず落ち着いていた。

 プロレスやボクシングなんかで良くやるような、

『視殺戦』みたいなことはまったくやらない。

 淡々と相手を見ている。そんな感じだ。

レフリーが握手を促す。

 龍之介が黙って手を差し出すと、向こうは相変わらずの視線のまま、彼の手をはたいた。

 そのまま黙って両サイドに分かれる。

『いつも通りでやれ』

 俺が声を掛けると、彼は黙って頷いた。


 彼がくるりと振り返り、リングの対面側を見据える。

 ゴングの音が響き、場内は怒号と歓声に包まれた。

 二人はしばらくにらみ合ったまま、龍之介は時計回りに、イワン何とかはその反対に回る。

 やがてリング中央で、互いの道着の袖と襟をつかんで組みあった。


 だが、試合は驚くほど呆気なく終わった。

 龍之介が相手を思い切り揺さぶり、一瞬前屈かがみになったその時、相手の袖を握っていた手を切り、右手に絡みついたと思った時、自ら真捨身の要領で転がりながら、相手を頭越しに投げた。

 次の瞬間ロシア人の大男は苦痛に顔を歪め、マットを叩いていた。

 レフェリーが慌てて駆け寄り、腕を振って勝負の終了を告げる。

 投げた時に、龍之介の腕絡みが極まっていたのだ。

 

 これだけ書くと、随分長い時間のようだったが、実際は一分半ほどしかかからなかった。

 場内はしばらく呆然としたように、誰も声を出さなかったが、レフェリーが龍之介の腕を挙げた時、初めて観客は事が呑み込めたのだろう。

 雄たけびのような声が響き渡り、拍手が沸き起こった。

 龍之介は腕を抑えて顔を歪めているロシア人の傍にかがみ込み、一言も発せず、黙って手を差し出した。

 向こうも龍之介の顔を見て、肘を抑えたままセコンドに助けられて立ち上がると、開いている方の手で握手に応じ、頭を下げるとそのままコーナーに帰っていった。

 花道に戻る際には、もう大騒ぎである。

 それまで馬鹿にしたような顔をしていた連中が、感激したように称賛の声を浴びせてきた。

『よくやったな』

 控室に戻り、ベンチに腰を下ろした龍之介に俺は声を掛けた。

『まだ一試合終わったばかりですから』彼は短く答え、タオルで汗を拭うと、ベンチに横になる。

『しかし、あれをやるとは思わなんだ』流石の鉄之介先生も少なからず感動したようである。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 トーナメントは順調に進んでいった。

 大抵の試合はせいぜい1ラウンドも持たずに終わったので、30人もいた選手たちも次々に振いに掛けられるのに、おおよそ2時間もかからなかった。

 そしてベスト8にまでたどり着く。

 当り前だがその中の一人に、龍之介がいたのは言うまでもない。

 彼はそのすべての試合を、投げ技と関節技のコンビネーションで仕留め、大抵を1ラウンド終了5分のゴングを待たずに終了させた。

 観客たちは飛びぬけて背の小さい、ましてや高校生の彼には誰も期待していなかったのだから、場内は”これはひょっとしたら”という、異様な熱気に包まれていたのは確かである。

 ベスト8に残ったのは以下の通りである。

・元プロボクシングライトヘビー級世界チャンピオン(米)

・某有名プロレス団体チャンピオン(日)

・キックボクシング現役ミドル級チャンピオン(仏)

・元総合格闘技世界チャンピオン(米)

・元柔道欧州王者にしてオリンピック90キロ級銀メダリスト(英)

・元大相撲関脇力士(日)

・元柔術世界チャンピオン(ブラジル)

 そして八番目が、鍬形龍之介というわけだ。

 

 彼の相手は総合格闘技の世界チャンピオンだった米国の黒人選手と当たった。

『誰と当たろうと関係ありません。僕は僕の柔道をするだけです』

 龍之介はまったく疲れの色を見せず、むしろ落ち着いた顔で俺に言った。


『よう、姿三四郎君、大活躍だな』

 禁煙の筈の控室に葉巻の匂いがする。

 子分を二人従えて入って来て、俺達に声を掛けたのは、あの興行師プロモーターである、磯貝のおっさんだった。

『坊や、なかなかいい活躍を見せてくれたな。だが、そろそろ終わりにしてくれないか?』

 龍之介は完全に聞かぬふりをして、壁に手を当てて打ち込みの動作を繰り返している。

『話なら俺が聞こうじゃないか。で、終わりにしようとはどういうことかね?ボス』

 俺の言葉に子分二人がちょっと嫌な顔をする。

 磯貝氏は”いいんだ”とでもいうように二人を制し、

『あんたらがあの坊やの何なのかは知らんが・・・・世の中には”大人の事情”って奴があるんだ。』

『どういう意味かね?ますます意味が分からん。それにここは禁煙だぞ。幾ら金に目がくらんでおったからとて、あの張り紙が見えんわけでもなかろう』

 そう言ったのは鉄之介先生だ。

 磯貝氏が嫌な顔をして葉巻を子分に手渡す。

『・・・・次に当たる総合の選手は、俺が今度新しく作るリングに上がって貰う男だ。いってみりゃドル箱だ。そいつが坊やにあっさり負けたんじゃ、これからのビジネスに差し支えるんだよ。ここまで言えば分かるだろう?』

『要は負けてくれとこういう訳か?』

『勿論ただ、とはいわねぇ。高校生の小遣いにしちゃ大きいもんも用意しようじゃねぇか。場合によっちゃ、こっちのリングに上げてやらんでもない。どうだ?』

『一つ聞いておきたいんだがな。磯貝さんとやら、あんたが今言った言葉は、後にいらっしゃるスポンサー氏、つまりは杉野社長の意志と思って間違いはないんだな?』

『だったらどうした?』奴は目をひんむいて答えた。

『どうもせんよ。ちょっと確認しておきたかったんでね』

 俺は彼の目の前でシナモンスティックを咥え、わざと大袈裟に齧って、辺りにあのほろ苦い香りを振りまいてやった。

『リングに上げてやっただけでも有難いと思って欲しいところなんだがな・・・・じゃ、仕方がない。しかしガチでやっても、あの総合の選手に勝てるかどうかわからんぜ。何しろ奴は試合で二人も相手を殺してるんだからな』

『脅してるつもりかの?悪いが儂の孫はそう簡単に殺されやせんし、負けもせんよ。その位の稽古は毎日させとる』

『じじい・・・・減らず口を・・・・』

『済まないがもうじき試合なんでね。出て行って貰おうか。ウォームアップに集中したいんだ。』

 磯貝氏は苦々しい顔をして、乱暴な足音を立てて控室を出て行った。

『すみません。先生、ちょっと出てきます。彼の事はお願いします』

 先生は俺の目を見て、こっちが何を考えているか悟ったのだろう。

『いいじゃろう。しかしくれぐれも気を付けての』

 そう言って軽く微笑んで見せた。

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