生徒たちの教えてくれた通りの道を辿っていくと、きっかり20分でその、

『接骨院兼道場』に到着した。

  

 今時珍しい、瓦屋根で二階建ての木造建築である。

 戦後すぐに建てられたものと推察されるが、よくまあ再開発その他の荒波を搔い潜って残り続けたものだと感心せずにはいられない、そんな佇まいの建物だった。


 門の片側には、

『鍬形接骨院』という看板があり、すぐ隣に『治療時間』が記されたプレートがあった。


 そして反対側の門柱には、

『柔道指南・鍬形道場』とあった。

 今日は誰もいないのだろうか。家の中は静まり返っている。門を潜ると、小津安二郎か成瀬巳喜男の映画に出てきたような格子戸風の玄関があり、その上に筆太の文字で『鍬形』と書かれた表札が掛っていた。

 玄関の脇にあった呼び鈴(正に呼び鈴だ。ここにも昭和が残っていた)を押す。

 家の中に響いているのは俺の耳にも届いたが、誰もいないのか、まったく気配はない。

 もう一度押してみる。

『何か御用ですか?』

 声は玄関とは見当違いの方から聞こえた。庭からである。

 そちらに顔を向けると、五分刈り、いや、今日はそれより短くなっている(恐らく五厘刈りぐらいだろう)の坊主頭に太い眉毛、丸い目に丸顔、袖まくりをしたワイシャツに黒い学生ズボン、素足に朴歯の高下駄と言うスタイルの少年が顔を覗かせた。手には竹ぼうきを握っている。

まさしく小説の挿し絵から抜け出てきた、

姿三四郎君そのものであった。

『失礼だが、君が鍬形龍之介君かい?』

『そうですが、貴方は?』

 俺は内ポケットからホルダーを取り出し、認可証ライセンスとバッジを示す。

『私立探偵の乾宗十郎いぬい・そうじゅうろうと言う者だ。今日は君に用があるんだよ』

 彼はまだ訳が分からないというような表情で俺を見ている。

 すると、庭に面した硝子障子が開きワイシャツの上に白衣を羽織り、茶色のズボンをはいた男が顔を出した。四角くいかつい顔をした、がっしりした体格をしている。

『龍之介、掃除は終ったのか?』

『いえ、まだです。』

『だったら早く済ませてしまいなさい。そこが終わったら、今度は道場の雑巾がけだ。お祖父さんが帰ってきたら私と二人で稽古をする。』

 そう言ってから、初めて俺を見て、

『失礼だが、貴方は?』と聞く。

 俺はもう一度ホルダーを出して自分の身分を名乗り、来訪の要件を話した。

『そうですか、龍之介のお客さんでしたか、それは失礼しましたな。ではなおさら早く済ませてしまいなさい。』

 龍之介は素直にはいと答え、また黙々と庭を掃き始めた。

『では、こちらにお上がりになってお待ちください。ああ、すぐに玄関の鍵をあけますから』俺は再び玄関に戻ると、さっきの男性が引き戸式になっている玄関を開けてくれ、中へと招き入れられた。

 十二畳の居間は、俺の実家と殆ど変わらなかった。

 茶箪笥、掛け時計、大きな座卓・・・・昭和はどこも同じ空気を遺している。


 しばらくするとさっきの男性が盆の上に湯呑を二つと急須を載せて戻って来た。

『すみませんな。何分今家に女手がないものですから』

 何でも今妻が病院に入院していて、この家には彼・・・・鍬形虎之介といい、龍之介の父親である・・・・と、祖父、そして龍之介の三人しかいないという。

 彼の家はこの地で代々接骨院を営んでおり、現在は彼が父である鉄之介の後を継いで院長をやっているという。


『龍之介は間もなく参ります。彼は今罰を受けておりまして・・・・というより、自らに制裁を科したという方が正しいでしょうか』

 彼はそう言ってゆっくりと茶を啜った。


 それ以上は余計な言葉を喋ろうとしなかった。静かな家である。俺も何も言わずに茶を飲む。


 柱時計が午後五時を知らせた。

『失礼します』

 襖の向こうで声がして、手ぬぐいで額の汗を拭きながら、龍之介が入って来た。

『庭と道場の掃除、終りました』

『うん、ご苦労さん、ではこれで、私はこれから診察の準備をせねばならんので』

 虎之介はそう言って頭を下げ、立ち上がって居間を出て行った。

『鍬形龍之介君。今日来たのは、俺はさっきも名乗ったように探偵だ。或る依頼を受けてここに来た。君を探して欲しいと頼まれてね』

 龍之介は大きく目を見開いて、まっすぐこっちを見ている。微動だにしない。

『ところで、さっき君の父上が、”自らに制裁を科した”とおっしゃっていたが、何か悪いことでもしたのかね?』

 俺の言葉に、彼は相変わらず全く表情を変えずに答えた。

『私闘をしてしまったからです』

『私闘?公園でチンピラを三人片付けたってアレかい?』

 俺が経緯いきさつを知っていることに少しばかり驚いたようだが、何も聞かずに黙って頷き、

『どんな理由があっても、武道を喧嘩の道具に使うのは良いことではありませんから』と答えた。

『実は、俺の依頼人というのは、その時君に助けられた女性なんだが、名前を三条奈津美さんといってね。是非もう一度君に逢って礼を言いたいんだそうだ。』

 龍之介は腕を組み、暫く考え、

『それには及びません。あの時彼女は礼を言ってくれました。それで十分です。武道を使ったのはいいことではありませんが、”義を見てせざるは勇なきなり”という言葉もありますから、僕はそれに従って、当たり前のことをしたまでです』

 まったく、タイムスリップしたみたいな気分だな。それこそ本当に姿三四郎と喋っているような錯覚に陥った。

『それだけじゃないぜ。その奈津美さんが、君に恋をしていると言ったら?』

 俺の言葉に、初めて龍之介が動揺した表情を見せた。

『恋・・・・ですか?しかしあの女性は酒に酔っていました。と言うことは』

『そう、君より年上ということになる。時に君は今何歳だね?』

『十七歳になります』

『ということは、約五歳は上と言うことになるな。君は年上の女性は嫌いか?』

 彼は目の前にあった、父親が飲み残した茶を飲み、少しむせながら、

『いえ、特には・・・・それどころか、恋などまだ一度もしたことがありません』

 顔が急に赤くなる。言葉はあくまでも落ち着いてはいるものの、その中に戸惑いの色が感じられたのを俺は読み取っていた。

『それに、先ほども申し上げました通り、僕は今自分に制裁を科している身の上です。それだけではなく、修行中でもありますから、恋などしている余裕はありません』

 なるほど、体裁だけの”姿三四郎”でもないのだな。

『その気持ちは分からないでもない。俺は探偵だから、依頼人の思いを君に伝えて、君がそういって断るなら、その通りに伝える。だが、恋する乙女に絶望を与えるのは、男としてはあまりいい趣味だとは言えないと思うがね』

 柄にもなく、余計なおせっかいを焼きたくなった。

『そうは言っても・・・・やっぱり困ります』

 彼がまた戸惑ったような表情を見せた時である。

 玄関のドアが開く音がした。

『ああ、そろそろ受付の時間です。申し訳ありませんが僕は・・・』彼は立ち上がって居間を出て行こうとした。

 仕方がない。俺はため息をつき、依頼人が絶望する顔を思い浮かべながら後について廊下を歩いて行った。

 玄関に立っていたのは、これまた昭和の映画から抜け出てきたような御仁だった。

 山高帽にステッキ。もう片方の手に黒い鞄と、紅白のだんだら帯を縛った柔道着を携えている

 丈の長い紋付に灰色の単衣、粗い縦縞の入った木綿の袴を履いた老人だった。

 その姿を認めると、龍之介は彼の前に両ひざをついて、深々と頭を下げた。

『お祖父様、お帰りなさい』

『うむ、ただいま』

 老人はそう言ってから、黒縁のロイド眼鏡越しに俺の顔を見て、

『む・・・・君は?』

 といい、暫く目を離さなかったが、

『乾・・・・乾宗十郎いぬい・そうじゅうろう君ではなかったかね?』

 俺に向かって声を掛けた。

 頭の中で、渡辺警部補の言葉が蘇る。

(お前、柔道やってたんだろ?だったら鍬形って名前くらい・・・・)

 ああ、そうか、思い出した。

『鍬形、鉄之介先生ですな・・・・お久しぶりです』




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