第5話 新しい人生(3)

 次に牧夫は新世界に向かった。少し前まで暮らしていたあいりん地区の近くにある繁華街で、理恵と飲んだ思い出の場所だ。だが、理恵とはすでに別れた。


 動物園前駅に降り立った牧夫は新世界に向かった。昼下がり、新世界は人出が多くない。夜の賑わいがまるで嘘のようだ。だが、これから牧夫が目指す通天閣は別だ。そこから見下ろす大阪を見るために多くの人で賑わっていた。小学校の頃、牧夫は父に連れられて通天閣に行ったことがある。展望台から見る大阪の景色に興奮した。島岡鉄工所も見えた。だが、そこからはもう鉄工所は見えない。見えるのは空き地だけだ。


 牧夫は通天閣にやって来た。あの時と変わっていない。多くの人で賑わっていた。よかった。あの頃と変わっていない。


 通天閣は今日も変わらない。でも、大阪は変わりゆく。大阪球場はなんばパークスになり、日生球場はキューズモールになった。それでも通天閣は昭和31年から変わることなく大阪にそびえ立っている。そして自分は新たな旅立ちを迎えようとしている。


 夕方になってきた。牧夫はかつての自宅があった石切に向かうことにした。石切は生駒山の中腹にある石切神社の門前町だ。近鉄奈良線はこの駅から長い新生駒トンネルで一気に生駒山を超え、県境を超えて奈良県生駒市へ至る。この石切から見る夜景は美しく、生駒山の中腹を登る電車から見る車窓は近鉄奈良線で一番の見どころだ。


 牧夫は難波から奈良行きの急行に乗ることにした。全てを失う前は近鉄と南海と大阪市営地下鉄とJRが乗り入れていた。だが、阪神が西九条から難波まで延伸し、近鉄と相互乗り入れするようになった。近鉄の難波駅のホームには阪神の電車も見られるようになった。


 しばらく待っていると、この駅始発の奈良行きの急行がやって来た。大阪線との分岐駅の布施駅を出たら次は石切駅。あっという間だ。快速急行の場合、大阪環状線と接続する鶴橋駅を出ると次は奈良県の生駒駅。生駒が発展したのは奈良線の影響が大きいんだろうか。


 大阪上本町駅を出ると、急行は地上に出た。もう辺りは暗くなり始めている。次の鶴橋駅に降り立つと、焼肉のいい匂いがする。ここは焼き肉店の多い所だ。今夜はここで太郎と飲みたいな。そして、新しい旅立ちに向けて乾杯したい。


 布施駅を出ると、大阪線と別れた。ここから石切まではそこそこある。牧夫はしばらく外から見える夜景を見ていた。もう見ることができないかもしれないから、しっかりと目に焼き付けておこう。


 瓢箪山駅を出ると、電車は左にカーブし、上り坂に入った。ここから石切駅まで上り坂が続く。進む度に大阪の夜景が車窓に開けてくる。牧夫はその車窓に感動していた。社長だった頃は幾度となく見た。だが、全てを失ってからは全く見なくなった。これももう見ることができないだろう。しっかりと目に焼き付けた。


 急行は石切駅に着いた。牧夫は夜のホームに降り立った。その向こうには長い新生駒トンネルが見える。この駅では何人かの乗客が降りた。


 牧夫は駅舎を出ると、大阪の夜景がよく見える場所に向かった。この辺りに自分の家があった。毎日この夜景を見ながら生活していた。なんてぜいたくな生活だろう。だが、今ではもう思い出にしかない。時は流れ、全てを失った。


 牧夫は家のあった所にたどり着いた。大阪の夜景は今日も美しい。だが、そこにあるはずの家はない。ただの普通の一軒家に変わってしまった。自分の住んでいた家はすでに解体された。牧夫は寂しそうに見ていた。


 お父さん、お母さん、愛する妻よ、娘よ、父さんは新しい旅立ちに出る。もうここに戻ることはない。和歌山で今までの人生をやり直す。今までありがとう。


 牧夫は難波に戻ることにした。ここで太郎と再会する。それからは鶴橋で飲もう。


 牧夫は太郎に電話をした。約10秒後、太郎が電話に出た。


「もしもし」

「牧さん!」


 太郎は驚いた。牧夫が電話に出るとは思っていなかった。


「ああ。突然だけど、今日、鶴橋で飲もうかなって」

「どうしたの? 鶴橋で飲もうって」


 突然の予定で、太郎は驚いていた。まさか、鶴橋で飲もうとは。


「明日の旅立ちを祝って1杯ひっかけようかなって」

「いいじゃない! じゃあ、今から鶴橋駅に行くからね!」

「うん、突然のことで驚かせちゃって、ごめんね」


 牧夫は帰りの車内でも見ていた。この夜景を絶対に忘れない。和歌山に行っても、絶対に忘れない。


 瓢箪山駅を過ぎると、電車は高架線を走り始めた。牧夫は高架線からビルの明かりを見ていた。もうこんな風景、和歌山に行ったら見れそうにない。この景色もよく覚えておこう。




 牧夫は鶴橋駅に着いた。鶴橋駅は近鉄と大阪環状線が交わる交通の要衝で、その下にはコリアンタウンが広がる。ここは焼き肉店が多く、歩いていると焼肉のいいにおいがする。


 牧夫は鶴橋駅を出た。乗降客の割には駅舎は小さい。降りるよりも乗り換えが多いからだろうか。


「牧さん!」


 突然、声がした。太郎だ。太郎は駅舎の前で待っていた。


「太郎さん!」


 牧夫はそれに気づき、手を振った。


「突然ごめんね」

「いいよ! 新しい旅立ちを前に1杯ひっかけていくのも」


 2人は焼肉屋に向かった。もう2人で飲むのも最後になるかもしれない。でも、離れ離れになっても、ずっと友達でいよう。


 2人はすぐ近くにあった焼肉屋に入った。席は多少空いている。


「いらっしゃいませ、何名様ですか?」

「2名です」


 牧夫はVサインを出し、2人だと伝えた。


「かしこまりました。カウンター席へどうぞ」


 2人は空いていたカウンター席に座った。その隣には仕事帰りの私服の男がいる。その男は顔が少し赤い。何杯か飲んだと思われる。テーブルには小さな七輪がある。焼肉は生で出されて、自分で焼く。


 店員の女性がやって来た。その女は別れた妻に似ている。


「いらっしゃいませ。何にしますか?」

「とりあえず、生中2杯とカルビで」

「かしこまりました」


 店員は厨房に戻った。厨房では別の店員が肉を切っている。


「いよいよ明日だな」

「ああ」


 牧夫は大阪で過ごした今までの日々を思い出した。色々あったけど、明日からは新しい人生を迎える。今までの辛いことを全て忘れて、新しい日々を過ごそう。


「どうだ? 新しい生活、楽しみか?」

「期待と不安で半々や」


 だが、牧夫は不安もあった。またしてもパワハラのことで嫌な目をされて住処を追われるんじゃないか?


 別の店員がジョッキ2本の生中を持ってきた。


「生中です」


 別の店員は2人の前のテーブルに生中を置いた。


「ありがとうございます」

「新しい旅立ちに、カンパーイ!」

「カンパーイ!」


 2人はジョッキを合わせて乾杯をした。2人は生中を口に含んだ。


「まぁ、とりあえず、新しい人生、頑張れや」

「うん。もう苦しい生活になりたないな」


 しばらく経つと、店員がカルビを持ってきた。


「カルビでございます」


 牧夫はすぐにカルビを焼き始めた。じゅうじゅうと音を立てて肉が焼かれている。次第に、タレのいい匂いが広がる。


「おー、うまそうだな」


 牧夫は再び生中を口に含んだ。久々のお酒。牧夫はとても嬉しかった。


「焼肉なんて、何年ぶりだろな」


 カルビがいい具合に焼けてきた。牧夫はカルビを食べた。焼肉なんて何年ぶりだろう。和歌山に行ったら食べられるんだろうか。


「やっぱ焼肉はうまいな」


 牧夫はあっという間に生中を飲み干した。牧夫は空になったジョッキを上にあげた。


「すいません、生中おかわりで!」

「かしこまりました」


 店員は生中を注ぎ始めた。


「ビールが進むね」

「久々のお酒だもん」


 牧夫はいい気分になってきた。こんなに飲めるのは何年ぶりだろう。


「生中でございます」

「ありがとね」


 牧夫はお酒を飲みつつ、今までのことを考えていた。社長の息子として生まれ、社長を引き継ぎ、あっという間に会社も家族も失い、ここまで落ちてしまった。でも、こんなに優しい人々に出会えた。ここまで落ちなければ、太郎さんなどの優しい人々に会えなかった。なのに、どうして自殺なんかしようとしたんだろう。会社を失ったものの、あいりん地区でいろんな人々に出会えた。そう思うと、悔いのない日々だと思えてきた。




 その頃、理恵は家で考えていた。自分は本当に別れてよかったのか。いつまでも牧夫を責めていていいのか。牧夫はパワハラの後にとんでもない人生を送ってきた。そして、敦を死に追いやったという十字架を背負って生きている。


 そこに、隣の人がやって来た。空を見上げたままじっとしている理恵を見て、不思議に思っていた。


「どうしたんですか?」


 理恵は振り向いた。隣の人だ。


「本当に別れた方がよかったのかなって思って」


 もう一度会って謝りたい。やっぱりあの人と一緒に暮らしたい。そして、新しい人生を共に歩みたい。


「謝ったらどうだ?」

「そ、そうね。でも、許してくれるかな?」


 理恵は不安だった。本当に許してくれるんだろうか? もう許してくれないんじゃないか? 息子を死に追いやった男だ。


「いい人だから、大丈夫と思うよ」

「わかった」


 理恵は決意した。明日、あいりん地区に行って、牧夫に謝ろう。そして、一緒に新しい人生を切り開こう。

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