第1話 元社長現アルバイト(中編)

 牧夫はツイッターを見ていた。コンビニでアルバイトを始めた頃からやっていた。現在のフォロー、フォロワー数は500ぐらい。多くも少なくもなかった。アイコンは週に1回通う串カツ屋の串カツだ。


 牧夫はプロフィールを開き、フォローとフォロワー数を見た。すると、フォロワーが1人増えていた。フォロワーが増えるのは1週間ぶりだった。


 牧夫は驚き、誰がフォローしたのか確認した。すると、フォローしたのは女性で、HN(ハンドルネーム)は「りえ」。同じ大阪市に住んでいるらしい。


 牧夫は同じ大阪市に住んでいる理由だけでリフォローした。そして、りえにツイートを送った。


「フォローありがとうございます。私も大阪市に住んでます。よろしくお願いします」


 するとすぐに、返信が来た。牧夫は驚いた。反応が速かったからだ。


「どうも。こちらこそよろしくお願いします。あのー、突然のことですが、できれば、明日、私と会いませんか?」


 牧夫は突然のことに驚いていた。女性と会食なんて、別れた妻以来だった。牧夫は戸惑っていた。いきなり会わないかと言われても。


「い、いいですけど、どこにお住まいですか?」


 牧夫はあわあわしていた。このまま結婚まで進んだら、この貧しい生活を抜け出せるかもしれない。そして、新しい子供に恵まれて、再び豊かな生活を送れるに違いない。


 牧夫は朝食を済ませると、新今宮から大阪環状線に沿って天王寺に向かって歩き始めた。目の前には300mの超高層ビル、あべのハルカスが見える。近鉄の大阪阿部野橋駅に立つビルで、日本一高いビルだ。


 牧夫はハルカスを見上げて、梅田のビルでの会議に参加したことを思い出した。あの時は本当に幸せだった。大阪の街を下から見下ろしていた。だが今ではビルを見上げている。まるで正反対だった。


 天王寺に向かって歩いていると、若いカップルとすれ違った。カップルは楽しそうな表情だった。牧夫は寂しそうな表情でそのカップルを後ろから見ていた。


 牧夫は別れた妻と恋人だった頃のことを思い出した。2人は大学で知り合った。違う学科だったがある講義で隣の席によく座ったのがきっかけだった。大学を卒業してすぐに結婚して、翌年に娘が生まれた。妻はどうしてるんだろう、娘は大きくなってどんな姿になったんだろう。でも牧夫はそれを知ることができなかった。


 歩いて20分ぐらい、牧夫は天王寺駅に着いた。休日ということもあってか、天王寺は人であふれかえっていた。


 牧夫は橋から天王寺駅に行き交う電車を見ていた。社長だった頃は電車に乗ってどこへでも行けたのに。今はあまり遠くへ行けなくなってしまった。あの頃が恋しい。でももう戻れない。牧夫は悲しくなった。


 牧夫は今朝のツイッターのことを考えていた。今朝のツイッターで知り合った女のことだ。あの女に会ってみるべきかどうか。牧夫は真剣に考えていた。真剣に考えるのは、仕事以外ではあんまりなかった。


 その夜、牧夫は自宅の近所の串かつ屋にいた。牧夫は週に1回この串かつ屋に通っていた。社長だった頃は明日が休みの時は必ず串かつで飲んでいたのに、現在では週に1回になってしまった。ジョッキ4杯はいっていたのに、現在はジョッキ1杯だけだった。


「牧さん、どうしたんや。嬉しそうな顔して」


 隣にいた太郎は牧夫の嬉しそうな顔を物珍しそうに見ていた。牧夫が笑顔を見せることは全くと言っていいほどなかった。太郎はこの近くのマンション澄んでいる住人で、この近くの鉄工所でアルバイトをしていた。鉄鋼の徐の社長だった牧夫を師匠のように慕っていた。


「そやな、牧さんの笑顔ってあんまり見やんね」


 串かつ屋の店主の克己(かつき)も牧夫の笑顔に反応した。牧夫の笑顔が物珍しかった。


「うん、ツイッターである女性に会って、明日会おうと言われたんだ」


 牧夫は嬉しそうな表情だった。久々に女の友達ができたからだ。


「いいじゃん! 牧さん、会ってみなよ。きっといい人だと思うよ」


 太郎は乗り気だった。いい女と巡り合えることを嬉しく思っていた。


「うん!」


 牧夫は元気を取り戻した。このまま結婚まで話が進んで、子供ができたらいいなと思っていた。


「おっと、ソースの二度漬けは禁止やで!」


 ソースの二度漬けをしようとした客を見て、克己は注意した。大阪の串カツはソースがステンレスの容器に入っていることがほとんどだ。そのソースはみんなが共用するので、衛生上の理由から一度口にした串かつをもう一度ソースに漬けるのが禁止になっている。場合によっては罰金が付く店もあるというが、この店は口頭注意のみだった。


「子ども欲しいっしょ、牧さん」


 克己もその話を喜んでいた。いい人と巡り会えるかもしれない牧夫を祝福していた。


「うん。俺の子供、どうしてんのかな?」


 牧夫は離婚した妻との娘のことを思い出していた。妻はどうしているんだろう。娘はどれだけ成長したんだろう。また会いたいな。


「別れた奥さんとあんたの子か?」


 克己は牧夫の妻や娘のことを知っていた。克己は妻や娘に会ったことがあった。別れた夜も、離婚届を提出した夜も来ていた。その時の悲しそうな表情は今も忘れられない。


「ああ」


 牧夫はいつの間にか泣いていた。豊かだったあの頃が懐かしかった。もう戻れない。全部自分が悪い。何度泣いても償えない。両親も妻も娘ももう戻ってこない。


「牧さん、あんたの涙、わかるわ。苦しいやろ。付き合って結婚して、また子供をもうけたら、また楽しい日々が戻ってくるはずだから」


 太郎は泣いている牧夫の肩を叩いた。


「あの頃はよかったなぁ。何でも食べれて、どんなとこにも行けて。今はこんなんだけど」


 牧夫はビールを飲み干して、また泣いた。


「わかるわかる。あんたの涙、わかるわ。また幸せになりたいもんな」


 結局、牧夫は1時間ぐらい泣いていた。テーブルは牧夫の涙で濡れていた。




 翌日の昼下がり、牧夫は女に会うことにした。今日は曇り。決していい天気ではなかった。だが、あまりいい服がなかった。少しボロボロだったが、仕方がなかった。牧夫にはいい服を変えるお金もなかった。社長だった頃は何でも買えたのに。あの頃に戻りたかった。


 牧夫は天王寺に向かって歩き出した。会う場所は天王寺の喫茶店だった。喫茶店なんて、何年ぶりだろう。社長の頃は、得意先との接待でよく利用したのに。


 牧夫は天王寺に着いた。今日も天王寺駅は賑やかだった。多くの乗客が行き交っていた。中には家族連れもいた。これからくろしおに乗って白浜に向かうと思われる。


 待ち合わせの喫茶店は天王寺ミオの10階にある。天王寺ミオはJRの天王寺駅に直結した複合施設だ。牧夫はその10階に向かった。


 牧夫は天王寺ミオの10階にやってきた。10階は人がまばらだった。みんな外を歩いているんだろうか。


 牧夫は喫茶店の前にいた。牧夫の他に待っている人はいなかった。牧夫は寂しくなった。でも彼女が来るまでの我慢だ。


「あ、こんにちは」


 女の声に、牧夫は反応した。牧夫は顔を上げた。話しかけてきたのは、美しいロングヘアーの女性だった。ただ、少し暗そうな表情だった。


「こんにちは」


 牧夫はお辞儀をした。


「はじめまして」


 女性は笑顔を見せた。だが、また暗い表情になった。何か不安を抱えているようだった。


「名前、何ていうんですか?」

「牧夫です」

「ふーん」


 女性は何かを考えているようなしぐさを見せた。名前に見覚えがあるようだ。


「どうしました?」


 牧夫は女の反応が気になった。牧夫という名前に何かがあるんじゃないかな?


「いや、何でもないわ。お茶、飲まない。大丈夫、お金は私が払うから」

「あ、ありがとうございます」


 牧夫はお辞儀をした。十分なお金のない私を気遣ってくれたことが嬉しかった。


 2人は店に入った。店には全く人がいなかった。店内は音楽しか聞こえなかった。


「いらっしゃいませ。ご注文は何にしましょうか?」

「ショートケーキとコーヒーでお願いします」

「チョコレートケーキとコーヒーでお願いします」


 女はショートケーキを、牧夫はチョコレートケーキを頼んだ。


「今さっきは変な表情してごめんね」


 女は謝った。牧夫という名前を聞いて嫌な顔をしたからだ。


「いいよ」


 牧夫は許した。そんなこと関係ないと思っていた。今日会えたことが何より嬉しかった。もっと仲良くなって結婚したかった。


「お待たせしました。ショートケーキとチョコレートケーキです。」

「ケーキなんて何年ぶりだろう」


 牧夫はケーキを見て考えた。豊かだった頃は休みの日はいつも食べていたし、誕生日ともなると妻がケーキを作ってくれた。自分だけでなく家族もそうだ。なのに今は、誕生日であってもケーキが食べられない。


「何年ぶりって?」

「俺んとこ、貧乏だもんで、ケーキ食べれないんですわ」


 牧夫はケーキを口にした。何年ぶりに食べたケーキはほのかに苦かった。ビターチョコレートの苦みだった。


「そう。久々のケーキはおいしいでしょ?」


 女は笑顔を見せた。牧夫にも喜んでもらえたのが嬉しかった。


「うん!」


 牧夫は嬉しかった。人に払ってもらうとはいえ、ケーキが久々に食べることができて嬉しかった。


「よかった!」


 女は笑った。女は牧夫の笑顔が好きだった。おいしいおいしいと言って食べてくれるところが好きだった。


「来週、あなたの家に行きたいな」


 突然、女は自分の家に来ないかと持ち掛けた。女は突然言われても戸惑うだろうと思っていた。


「ええよ。ところで、君、何ていうんだい?」


 牧夫はすんなりと答えた。結婚に至らせるためのことなら、何でもしたいと思っていた。


「理恵。今日はありがとう」


 理恵は嬉しかった。また来週、牧夫に会えるからだ。今度は自分の家で。今度はどこで食べようかな?理恵は来週のことを考えていた。




 その夜、牧夫は自宅の近くの食堂で晩ごはんを食べていた。その食堂はとても安く、この周辺に住む貧しい人々にも手が届くほどだった。ここの女将はとてもやさしく、これもこの店が多くの人々から支持されている理由だった。


「牧さん、あの女、どうやった?」


 食堂には太郎もいた。今日は太郎もこの食堂にいた。


「印象良かったで」


 牧夫は笑顔だった。久々に恋に恵まれたからだ。このまま結婚して、豊かな生活になって、子供ができれば最高だと思っていた。


「おー、いい話に進展するといいじゃん」


 太郎も乗り気だった。貧しい生活から抜け出せそうな牧夫がうらやましかった。自分も結婚して貧しい生活から抜け出したいと思っていた。


「牧さん、彼女、できたんかいな?」


 女将も驚いていた。牧夫に彼女ができると思っていなかった。


「まぁね、昨日、突然できたぐらいで、まだまだやね」


 牧夫は笑顔を見せながら、定食のアジフライを口にした。


「期待しとるで、牧さん」

「ありがと」


 期待を寄せられて、牧夫の箸はますます進んだ。

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