第57話 選択
「あーあ。イヤになっちゃうけどさあ。大人だからね、あたしも」
苦笑交じりに、けれどもどこかあっけらかんとした声色で言って、ミッコは空を見上げた。
「死んだ人間の分まで、生きなさいって。大人は言わないとならないんだよ。たった一人で残されて途方に暮れているきみの気持ちも考えずに――いや、考えてるフリでさ。あたしもそう言ったほうがいいんだろうなと思うし、実際、それしか掛ける言葉を思い浮かばないよ、まっとうに考えたらね。ほんと、イヤになっちゃう」
投げやりに言って、ふっとハルへ目をやる。やるせなさを滲ませた笑顔。
「そんな説教されたって、少しも心に響かないもんね。だけど……ねえ、ハル」
呼びかけて。顔いっぱいに、笑みが広がる。
「あのね。ひとつだけ、心に留めておいて欲しいんだ。きみがあの時代の人たちを大切に思っているように、今の時代にきみのことを大切に思っている人間が、少なからずいるんだよ」
困って、ハルはまた顔を伏せた。
「それは……だけど……子供たちを取り返すのに、おれが必要だから……」
「はあ」
ミッコは空を見上げて大仰にため息をつく。
「本当に、バカだな、きみは」
面倒くさそうに、膝に頬杖を突きなおして、
「あのおっさんたち。あの沈着冷静を気取ったナギがあんなにうろたえているのを見るのは、あたしは初めてだったし。グンジもオキも、一晩中きみに付き添っていたんだよ? 暴れてケガしたり死んだりするのが心配なら、ベッドに縛り付けておけば良かったじゃないか。だけどそうしなかった。ちゃんと苦しんでいるきみに声を掛け続けて、付き合った。きみが守りたいと思っているヤマトの村の人たちも、きっときみを大事にしてくれているんだろう。そのことを忘れるな、少年」
「そう……だね」
(おれは……)
知らず知らずに、ハルは口元を手で押さえていた。
また、ハルのことを大事に思ってくれている人たちの前から、突然消えてしまおうとしているのだろうか――。
グンジも、オキも、ナギも。毎回村の外まで迎えに来てくれるルウのことも。綿入れを作ってくれたリサも。ハルのピアノを聞きに来てくれる、ヤマトの村の人たちも。
サヤも――。
サヤは、分からないのではなくて、分かりすぎていたのかもしれない。唐突に、ふと、思った。
ハルがすべてを投げ出して、サヤだけを選ぶことはしないと。
サヤと一緒に新宿で暮らすという選択肢だって、ハルにはあるのだ。計画が走り出してしまっていることなんか気にしなければ。背後に負った、ヤマトや近隣の村の人々のことなんか、忘れてしまえれば。
だけどハルは、サヤのためにそれを選ぶことはしない。
それとも――サヤの要求が「新宿に連れて行って」ではなくて「ヤマトに連れて行って、一緒に暮らして」だったら? ハルはもしかしたら、死ぬことをやめて、計画を遂行してその後もヤマトでサヤとともに生きる決意をしていたかもしれない。
いや、そんなのは、卑怯だ。
ヤマトで一緒に暮らさないか? と。そう、サヤに言ってあげるべきなのだ、たぶん。
受け入れてもらえるかどうかは、分からないけれど。でも、少なくともサヤは、勇気を出して伝えてきていたのだから。
だけど。そんな選択肢を思いつくには、ハルには失った人たちの存在が大きすぎて。生きていくことへの罪悪感が、重すぎて。
――オオイのミッコに、ちょっとだけモリオ・ミチコが顔を出しちゃったんだ
シンドウ・チハルの感情と、ハルの気持ち。どちらが本物なんだろう。
どっちが優先される?
あるいは――やっぱり、死んでいった者たちなのか。どれだけ楽しい思いをしても、たとえ幸せを感じることがあっても、絶対に心から離れることはない。
これから先、ずっと生きていくにしたって、彼らの亡霊を背負っていくことしかできない。
(こんなおれと一緒じゃ、やっぱり幸せにはなれないよ)
考えているハルを、ミッコはしばらくの間、黙って見守ってくれているようだったが、少しして。
「やっぱり、きみはいい男だと思うよ」
「……ええ?」
「ああー。残念だなあ!」
後ろに両手をついて、ミッコは空を見上げるように岩の上にのけ反った。
「トキタさんを急かして、きみをさっさと覚醒させてもらえば良かった!」
そうしてすぐに身を起こすと、瞳を大きく見開いて顔を寄せてくる。
「もう二十歳若かったら、行けた?」
「はあ?」
「だからぁ。十歳年上の女は、どう? 眠る前は実際そのくらいの歳の差だったと思うんだけど。さすがに今は、年増女で悪いかなって思うんだけどさあ」
「ミッコさん、今は結婚してるんだよね?」
「ええ? 結婚してなかったら、考えてくれた?」
楽し気なその顔に、からかわれているんだと気づいて、ハルは不機嫌な顔でそっぽを向いた。
「あはは、ごめんごめん。だけどみんながきみのことを好きなんだってのは、ほんとだよ。そうそう、あのね――」
ミッコは急に何か思いついたような表情になると、ポケットに手を入れて、小さな四角いハコを取り出した。
「きみにこれを渡したかったんだ」
縦五センチ、横二センチくらいの大きさの、長方形のそれは、通信機のような機械に見えた。
「……なに? これ」
受け取って、傾けたりひっくり返したりしながら、ハルは訊き返す。
「都市に出入りするときに使う通信機。哨戒ロボットに対して、都市の人間だから攻撃するなっていう信号を送るやつ。荷物の運び込みのために都市に出入りするんだったら、一台でも多くあるほうが便利だろうって思って。あそこを出る時に持ち出したっきりだから、バッテリーは切れてると思うけど、都市に出入りしてトキタさんに会うことができるんだったら充電できるでしょ? いやあ。もう使わないし、何度も捨てちゃおうって思ってたんだけどね? なんとなく捨てそびれてて。良かったねえ、取っておいて。役に立つかもしれない日が来るなんてねえ」
説明を耳に入れつつ、その四角い物体を矯めつ眇めつしながら――。
「……はあっ?」
ミッコの言葉を遅れて理解して、ハルは思わず大声を上げていた。
「そんな機械があったの?」
「ええ? きみ、何も知らなかったの?」
「はあぁ……? これ持ってたら、おれ、ロボットに攻撃されなかったじゃん」
「攻撃されたの?」
「撃たれたよ! その、シェルターから追い出された時にさ。トキタさんに拳銃を渡されたけど、おれ目が覚めたばっかでろくに歩けもしなかったし、言葉も分かんないし。銃で応戦してる間もなかったよ? それで死にかけてたところで、グンジさんたちが見つけてヤマトに連れてって助けてくれたんだ」
「はああ。きみも、なかなかのサバイバル生活を送っているね」
「本当だよ」
今度はハルが首をのけ反らせる番だった。
「おれ、ちょっとピアノが弾けるだけの、普通の高校生だったんだよ? 何度も死にかけるとか、おかしくない?」
「ハハハ、謙遜するじゃないの。まあ、たしかにその通信機を入手できるのは、都市に登録されている人間だけだからね。目を覚ましたことをハシバに秘密にしていたんだとしたら、手に入れることはできなかったかもしれない」
それにしたって、次に会った時にトキタに文句を言ってやる。
だけど。
もしも哨戒ロボットに会わずにそのまま砂漠に出ていたら。
ハルはすぐに死を選んでいたかもしれない。
倒れて意識のないままにヤマトへ連れて行ってもらって、生き延びた。
思えば――トキタを殺そうと半年待ったのも。
その間に、ヤマトの人たちのことを大事に思うようになって、死のうと決めていた心が揺れ動いているのも。
結局、全部トキタの思い通りらしい。
ミッコたち全員が都市を出て行った後も、ずっとハルたちを守り続けていた孤独な老人。
銀色の通信機を手の中で弄びながら、ハルは目を伏せた。
ミッコはまた何事か考えている様子のハルを、膝に頬杖をついてしばらく黙って見つめていたが、
「ねえ」
にっこりと笑って立ち上がりながら、
「きみのバイオリン、良かったよ。ここの楽隊の音楽も悪くないけど、やっぱり慣れ親しんだクラシックも聴きたいよねえ。また聴かせてよ」
つられてハルもちょっと笑って、立ち上がり岩を降りる。
「そうかな。ありがとう。ピアノに比べたら全然だけどね」
「うーん、ピアノを聴いたことがないからなあ。そりゃ、できたらそっちが聴きたいけどさ」
「えっ、そう? じゃあ聴きにきてよ、ヤマトへ」
「ええ? ヤマトにはピアノがあるの? なんとなんと!」
「ピアノがなかったら本当にすぐに死んでたよ」
「そっか……運命の出会いだね。やっぱりきみは、何かを引き寄せるんだよ」
「ええ?」
苦笑する。あんまり良くないものもだいぶ引き寄せた気がして。
並んで砂を踏みしめながら建物へと戻る道を歩く途中。
辻に差し掛かったところで、なんだか村の空気がざわついているような気配を感じて、ミッコと顔を見合わせた。と――、
「ああ! ハル!」
慌てた様子のナギが、向こうから駆け寄ってくる。
「良かった、いたか。ああ、ミッコも一緒だったか」
走り回った後のように軽く息を切らしながら、腹の底からホッとしたような声を上げるナギ。
ちょっと川を見に行くだけのつもりで黙って部屋を出てきて、思いがけず長話をしてしまったから、探したんだろか? しかしそれにしては、妙に切迫したようなこの雰囲気は?
「グンジ、いたぞ! ハルは無事だ!」
大声で通りの向こうに呼びかける。
「ど、どうしたの? 何かあった?」
訊くと、ナギは真剣な目をして、重く言葉を落とした。
「サヤが、いなくなった」
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