第39話 興奮

 正直に言って、ほんの少しだけ気分がいい。


 地下通路の遠くのほうにハルの姿を見かけるや、


「おおぉ。心配したぞ、先月は来なかったから……」


 そんな声を上げて駆け寄ってきたトキタに、いつもと変わらず素っ気ない態度で「ああ、久しぶり」と答えたけれど。


 内心は、ちょっと浮かれている。

 トキタの後に続いて都市のドアを入り長い廊下を歩いてエレベータに乗り込みながら、ハルはつい顔がニヤけそうになってしまうのを押さえた。

 このあとハルのもたらす「報告」に、この老人がどんな顔をするか。

 想像すると、口元が緩む。

 せいぜい勿体ぶって、焦らしてやろう。「やっぱりダメだった」と言ってやろうか? いや、でも、すぐ顔に出てしまいそうだ……。


 そんなことを考えながら、エレベータの中で一度だけ顔を合わせたトキタがハルと似たような表情になっているのに気づき、なんだこいつ……と眉を寄せた。




 部屋に入ると、トキタはキッチンスペースに入らずに真っすぐ机に向かっていって、これまでになく綺麗に片付いているその机の上に積み上げられた冊子の山の上に手をぽんと載せた。


「きみのために、用意しておいたよ」


「……はあ?」

 首を傾げながら、その冊子の山に近寄って。


 それがなんなのか分かった瞬間、ハルは大きく目を見開いて、「あああああーーーっ!」と叫んでいた。


 一冊ずつ手に取る。

 ショパン。リスト、サティ! ムソルグスキーも? ベートーヴェンのピアノソナタ。シューマンの組曲……。冊子の山は、十数冊の楽譜だった。


「ああ! ジムノペティ! 英雄ポロネーズ、華麗なる大円舞曲……えっ? チャイコフスキーの四季? これ弾きたかったんだ、舟歌しか弾いたことなかったから……うわあああ、ピアノソナタ……悲愴、月光、情熱も……テンペストまで! ああぁ! すご……はっ、パガニーニ……ラ・カンパネラ、欲しかったんだー!」


 冊子の山を崩しながら、ハルは次々に楽譜を手に取ってページをめくる。


「ヤマトの村にいるルウって子がさ、あ、世話になってるうちの子なんだけど、こういう音符がいっぱいの曲が好きで……ラ・カンパネラ、聴いたらきっと気に入るよ、良かったー、細かいとこ確認したかったんだ……」


 夢中で楽譜をめくっていた。興奮していた。


「あー、やっぱここ記憶と違う。譜面あってよかった、間違って弾くとこだった……あれ、ここも。もうちょっと覚えないとダメだな……」


 譜面の上で、手が勝手に動いている。その音を覚えるべく。


 キッチンのほうから、トキタの苦笑するような声が聞こえてくる。

「そんなに喜んでもらえるとは……良かったよ、二ヶ月もあったから、ライブラリを端から端まで一生懸命あさって探してきたんだよ」


(和音ひとつ忘れてたな。うわあ、これじゃやっぱり毎日弾き込まないと手が動かない)


「上の層に行ければもっとあると思うんだが、あまり普段の行動範囲を外れてハシバに気づかれると警戒されるからね。いま見つけられたのはそのぐらいなんだがね」


(このテンポでなら……いや、でも速度をつけないとぼんやりした感じになっちゃうな)


 湯の沸く音がジャマだ。いま一生懸命ピアノの音を聴いてるのに……。


(右の薬指と小指、こんな強い音まだ出せるかな……強くて、細く、ピンと張った……繊細な音)


 昔に比べると、だいぶ練習時間は減った。鍬やスコップや馬の手綱を握っている時間が多くなった。でも、鍬で鍛えた分、腕力と握力は増している気がする。これからはもっと指を鍛えることを意識して鍬を握ることにしよう。手も少しだけ大きくなったし……帰ってすぐに弾いてみたい。


(ああ! 今すぐ弾きたい!)


 鍵盤に、指を触れたい。

 今、すぐに。


「あああああ……今……鍵盤……」


 思い余って、指を架空の鍵盤に付けたまま首をのけ反らせ中空を見上げる。

 叩きつけたい。この気持ちを。きっとピアノは受け止めてくれる。

 あのピアノで奏でるこの楽譜。それが耳に聞こえている。頭の中で反響している。


「電子楽譜があれば、もっとたくさんの楽譜が見られるんだろうがなあ」


 コーヒーの香りに載って、そんな呑気な声が耳に入ってきて、トキタの存在を思い出した。


「いや、おれは紙の楽譜のほうが好きだよ」

 ラ・カンパネラに目をやりながら、無意識に答えていた。


「液晶の楽譜さ、先生のうちにあったけど、あれ設定したペースで勝手に進むじゃん。おれはもっとこのページがゆっくり見たいのにーって思って……ほら、ページの後半でちょっと間を取りたい時とか。向こうも一応ちょっとはリットかけてくるんだけど、いまいち息が合わなくてさあ、うわぁまだ進むなよーって……紙のほうが雰囲気もあるしね。あー、この、めくる瞬間がいいんだよな。暗譜しちゃったらもうできないだろ、次どうなるんだろ、みたいなワクワク感? これ最初に楽譜を手にした時しか味わえないんだよ、それで――」


 と、そこで。トキタがすぐ横にいて、これまで見せたこともない饒舌さで語り続けるハルの顔をじっと見つめているのに気づいた。机の上にはいつの間にかマグカップが二つ置かれていて、コーヒーのいい香りを漂わせている。


「……なに?」


 我に返って。興奮してしゃべりまくっていた自分を思い出して。ちょっとバツが悪い気分になる。

 横目でトキタを睨むと、


「いや、きみのそんな顔を見るのは初めてだと思ってね……」


 大きく顔を綻ばせて、トキタはデスクチェアに腰かけた。


 とても恥ずかしい。

 平静を装いフン、と鼻を鳴らして、でも楽譜の山に手を置いたまま、ハルはトキタの向かいの椅子に腰を落とす。


「そりゃ……こんだけ楽譜があったら……ちょっと……びっくりしたから」


 一生懸命気持ちを押さえて言うが、それでも楽譜の山に興奮を抑えきれない。

 早く、全部弾きたい。

 手の下にある楽譜へとちらりと目をやったところで、トキタの覗き込むような視線に気づいた。


「だから、……なに?」


 眉を寄せて訊くと、トキタは自分のこめかみのあたりを右の人差し指でトントン、と叩いて、

「どうした? その傷は」


「……え、傷、残ってる?」

 訊かれてハルも、自分のこめかみを指で触れる。


「ああ、知らなかったのかい?」


 トキタはそう言って席を立つと、棚の引き出しから手鏡を取り出してきて、ハルに差し出した。


 手鏡を受け取って、ハルはそれを覗き込む。


「あれ? なんか……おれの顔、久しぶりに見た気がする……」

「村に鏡はないのかい?」

「あるにはあるんだけど、あんまり映らなくって。人がいるなー、くらいにしか……」


「どうだい? 一人前の、砂漠の村の男の顔をしているよ?」

「そうかぁ?」


 砂漠の村の男、と聞くとグンジやオキなど屈強な身体を持った大きな男を思い浮かべるのだが、比べればハルはまだまだ貧弱だ。記憶にあるよりは、少しは成長したかな、と思うけれど。


「きみがここを出て半年後に戻ってきた時には、あんまり様子が変わっているんでビックリしたよ」

「ええ? そうかな。服装が違ったからじゃないの?」


 言われても、そこまで違うとは思えない。けれど、


「いや。そうじゃなくて……顔かたちでもない。雰囲気がな。ああ、強くなって帰ってきてくれた――と。何しろここを出る前と言ったら、私はきみの寝顔と泣き顔しか見ていなかったわけだから……」


(クソジジイ、ぜったい殺す!)


 剣呑なことを考えているハルをよそに、トキタは呑気な声を上げた。

「いや、成長する年頃だからなあ」


 クソジジイを睨みつけて、それから示されたこめかみを確認すると、小さな傷跡があった。


「ああ……まだ残ってるんだ」

「すぐに消えるだろうが。どうした? 何か危険なことでもあったのか?」


 どうしたもこうしたも。これは全部あんたのせいだよ。


 そう思って机に両手を載せてトキタに向かい合うと、ハルはアスカの村を訪れた経緯から今日に至るまでのことの顛末を語って聞かせた。


「それでだぞ!」

 机に手をついて、わずかに身を乗り出す。

「今のところ、十四の村の協力を取り付けた! 一年あれば武器と火薬はそれで四分の三は手に入る。残りの火薬と子供らの救出に必要な人手は、これからまだ集めるし、たぶん順調に増える。良かったな、あんたの計画は実現できそうだ」


 威張るように言うと、トキタはわずかに身を引いて一瞬絶句して――。

 それから、震えるような声を上げた。


「なんと……この短期間で、それを?」


「ああ」

 驚いただろう? そういう顔をさせたかったんだよ。


「喜べよ。あんたの死ぬ時が近づいたんだ。今からすぐに、やり残したことを片付けておいたほうがいいよ」


「そう……か」

 トキタは机に両手を置き、その手を見つめるように視線を落として頷いた。


「それで。その十四の村以外のあと四分の一の火薬の確保と、それから子供らが戻ってきた時にちゃんと受け入れてもらえるように、いずれすべての村に声を掛けるわけなんだけど……」


 それは先日の会合で、グンジやオキやナギや、それから彼らが声を掛けたほかの村々の代表者が集まった席で決まったことの、報告。


「でも、時間が掛かるだろ? そうしてる間に離反者が出ないとも限らないから、ひとまずここでストップしてるわけ。そこらへんは、準備の進行状況によりだな。あんたから決行の声が掛かるまではほかの動きはするなって釘を刺してあるけど、何しろ村の人たちは早く子供を取り戻したいんだ。あんまり引っ張ると厳しくなるよ」


 それだけ説明すると、トキタは目を丸くした。


「すごいな……うん。期待以上だ。よくやってくれた。そうか……」


 半分独り言みたいに言って、老人は視線を机の上に落とす。


「ああ。きみはやってくれると思っていたが――私の目に狂いはなかったな……そうか……しかしここまでとはな。いやほんとうに……想像していた以上に……」


「はあ? 最後に残ってたのがおれだけだったんだろ?」

 ハルは目を細めて、トキタを睨みつけた。こいつがハルの前に何人も殺したことは、こないだ聞いた。あとはハルしか残っていなかったことも。


 すると、トキタは困ったように口を曲げて、

「ああ、きみが最後になった理由はこの間話した通りだが……」


 薄く笑う。


「でも、目覚めた時から、きみはちょっと違ったんだよ」

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