第35話 欲求

「新宿から来たの?」


 少々胸が高鳴るのをぼんやりと感じながら、サヤに問いかける。


「ううん。私は横浜のシェルターで目を覚ました」


 横浜……? 核シェルターはほかにもあり、それぞれにスリーパーがいるとトキタは言っていた。横浜にシェルターがあったのか。

 じゃあ、トキタが目覚めて間もない彼女を砂漠に放り出したわけじゃないんだな。

 少々ほっとすると同時に聞きたいことが次々と湧き出てきて、どこから掴んでいいのかハルはしばし迷う。


「あなたは新宿にいたの?」

 迷っているうちに、サヤのほうから尋ねられた。


「うん……まあ」


「新宿からここに来たの?」

「いや、今はヤマトっていう村にいて……新宿から二、三キロのところかな」

「ここは……新宿は、ここから近いの? 歩いて行ける? どのくらい時間がかかる?」

「え?」


 思いがけず強い口調で重ねて聞かれ、ちょっと驚いていると、サヤはふっと瞳を逸らした。

 そうして少しばかり声を落として。


「私は、新宿に行きたかったの」

 視線は岩の合間へと向けたまま。

「パパとママと、横浜を出て新宿を目指していた。だけど、砂嵐に巻き込まれて途中で方角を見失ってしまって――」


「えっと、ちょっと待って。家族で眠っていたってこと? それで、三人とも目覚めたの?」


 サヤを遮って、次々と頭に上ってくる疑問を順に取り出す。


「そう。私のパパとママは医者で、未来の人たちのために眠りについたの。私はまだ九歳で、一人では置いていけないから一緒に……って」


 自分の意志で冷凍睡眠を選択した専門職の大人たちは、家族と一緒に眠ることを許されたと、たしかトキタも言っていた。横浜でも同じなのだろう。


「……九歳? じゃあ、目覚めてからずいぶん経つんだな。ずっと横浜に?」

「横浜のシェルターの中で六年ちょっと暮らした。出てきてからは、時間の感覚がなくて……」


 ナギは、サヤがやってきたのは前の冬だと言っていたから、少なくとも一年。とすると、目覚めてから七年以上は経とうとしているわけだ。

 この時代では大先輩じゃないか。ついでに年齢も追い越されているような。

 「計画」への協力を求めてやってきたアスカの村で思いがけない出会い。驚いたというか、嬉しいというか、いや喜んでいいいことなのか……頭の整理が追い付かずに、ハルは大きく息を吐きだした。


「横浜にシェルターがあるってのも今初めて聞いたんだけど、そこのスリーパーは無事に覚醒できたの? 新宿は、覚醒が遅れて装置が壊れたとかで、二十人そこそこしか目を覚まさなかったって聞いたよ」


 サヤが目覚めて七年ということは、横浜のスリーパーも新宿とたいして変わずこの時代まで眠っていたということだろう。

 新宿はその長い間に装置が壊れてほとんどが眠ったまま死んでしまったというが、同じ時間を過ごした横浜ではもっと多くの者が目覚めることができたのだろうか?


 聞くと、サヤは少し考えて、


「たくさんの人が死んだって。ほかの『部屋』は全滅だったところもあるって聞いたけど」

 わずかに暗い顔をする。

「目覚めた人は……数十人だったと思う」


 ああ、じゃあ新宿とそれほど状況は変わらないか……いや、少なくとも、家族そろって目を覚ました者がいたということは、新宿より多少はマシな状況なのだろうか。


「そう……だけど、横浜のシェルターで六年も住んでたんだったら、どうして出てきたんだ? 新宿に行こうって、なんで?」


「争いが起こったの。横浜の、覚醒者たちの間で」

「争い?」

「そう。詳しい事情はよく知らない。パパとママは、お前はまだ子供だから知らなくていいって……私は出ていきたくなかった。だけどパパとママは、説明もしてくれなかったし、選ばせてもくれなかった」


 サヤはその綺麗な眉をわずかに寄せた。


(そうなんだよな)

 まだ子供だからって、大人たちは説明も選択肢も意見表明の機会も与えてくれることをせずに。勝手に振り回して、それでいて都合よく利用しようとして。

(ほんと、人のことなんだと思ってんだ)


「それで。新宿に同じようなシェルターがあるって聞いていたから、そこに入れてもらないかと考えて……」

「そう……それで、その……お父さんとお母さんは?」

「砂漠で盗賊に襲われて、殺された」


 サヤは眉を寄せたまま、さらりと言った。その冷たい口調に、ハルは背筋にぞわりと冷たいものを感じた。


「盗賊は私を連れて行こうとしたけど、途中で……あの……虫? サソリみたいな? それが出て、一人刺されて死んで……パニックになって。私はその間に逃げ出して走っていたら、ここに着いていたの」


「……そうか」

 サヤも大変な目に遭ってきたのだなと、ハルは膝に頬杖をついてひとつため息をついた。


「だけど、どうして新宿に行こうと思ったんだろう。あそこにはもう、ほとんど人がいないよ? さっきも言ったけど、新宿のスリーパーはほとんど死んでしまって、生き残った人たちもだいたい自殺するか外に出るかしたんだって。おれは最後の覚醒者らしくて、目覚めてまだ一年も経ってないからそんなに詳しくは知らないんだけどさ」


 あそこに残された前時代の文明だって、トキタの計画が実現すれば消え果るのだ。そして自分は今、そのために動いている。


「そう……なの?」


 サヤは愕然とした顔で、ハルをまじまじと見つめた。


「新宿にも横浜と同じように、都市が残っているんじゃないの? 横浜も人の数は少ないけれど、あのシェルターの中では二〇六〇年代と変わらない暮らしができた。新宿でも、できるんじゃないの?」


「いや、それは……」


 その綺麗な瞳で。真摯なまなざしで、真剣な口調で問われると、非常に答えにくいのだが。


「難しいと思う。何しろ人がいないし……」


 近々その「二〇六〇年代と変わらない暮らし」のできる環境も破壊される予定なのだ。が、それはナギや一部の計画への参画者以外には言わないほうがいいだろうな……。そう思って、言葉を濁す。


「どうしてそんなに都市に戻りたいんだ? アスカは豊かな村だし、ナギさんだって親切にしてくれてるんじゃないの? ここにいるんじゃだめなのか?」


 サヤは不満げに目を逸らして、指先を小川の水に浸した。


「こんなとこじゃ暮らしていけない。文明的なものは何もないし、言葉も通じないし、みんな何を考えているのか分からない」


 低く冷たいサヤの口調に、少々気圧される。


「……ええっと。言葉は……昔とそこまで違わないんだ。発音やアクセントやなんかが違うから、全然別の言葉に聞こえるだけでさ。慣れればすぐに話せるようになるよ……って、この時代の先輩のきみに言うのもアレだけど。簡単だから、ちょっと試してみたら?」


 ところが、


「絶対に、イヤ」


 サヤは睨みつけるような視線をハルに投げつける。


「……え」

「そんなことをしたら、私がこの時代に同化してしまう」

「ええ……?」

「この時代の、文明のない人たちと同じになる」


 思わずサヤの強い瞳を見つめ返していた。「えーっと」と頭の後ろをかきながら、


「……そんなに酷いかなあ」


 子供たちが暮らすのに、安全な都市の中よりも危険の多い砂漠の村のほうがいいのか? と、たしかにハルもトキタやオキに聞きはした。だけど自分が住むと考えれば、そこまで不便だったり何かに不足したりしている気はしないし、狭いハコの中よりは砂漠のほうがいいような気がしている。

 少なくとも、あのシェルターの中で暮らしたいとは思わない。


「砂漠でも、暮らしてみたら、我慢できないほど不便なとこは多くはないし。だいたいみんな親切にしてくれるし。アスカの村で嫌な思いをさせられてるとかそういうのじゃなかったらさ、都市に戻るよりも、二〇六〇年代のことは忘れてここで暮らしたほうがいいと思うけど?」


(くそッ、どの口が言ってるんだ……)


 失くしたものも状況も違うけれど、それを切り捨てることができないのはきっと同じ。

 忘れるなんてことがそんなに簡単にできるなら、おれだってトキタのことも都市のことも二〇六〇年代の夢だとか仲間だとかのことも全部忘れて、ヤマトの村で楽しくピアノだけ弾いて暮らしているよ。


 忘れることは、できない。簡単に手放すことだって。分かっているけれど――。

 だけど――。どちらにしたって、新宿で前時代の暮らしを続けることはできないのだ。ほかのシェルターであったって、おそらく。彼女の両親が横浜を出ようと思ったのにも、それなりの理由があるのだろう。


 と、サヤはその綺麗な顔に剣呑な色を浮かべた。


「あなたは起きて一年も経ってないって言ったけど」

「え、うん……」

「すっかりこの時代の人になってしまっているんだ」


「……え?」

 思いがけない言葉と、その冷ややかな響きに、目を見張っていた。


「低俗な文化。低俗な人たち。親切? 笑わせないで。何も持っていないくせに。私の欲しいもの、何もくれることはできないのに。危険だらけで、不便なことだらけ。どうしてあなたはここで満足できるの? 私よりも長い時間を、本物の前時代で……あの文明のある時代で過ごしていたんでしょ? どうしてこんなに変わり果てたところで暮らしていけるの?」


「それは……」

 正直、言葉を失っていた。目の前の少女が発する負の感情に圧倒されて。そんなこと、考えてみたことがなかった。


「ええと。じゃあ逆に……きみはあと、何が必要なの?」


「何って……これまであったもの、全部よ! なくなったもの、全部。起きてから毎日、本を読んで、映画を見て、音楽を聴いて、……それから……そんなことをしながら暮らしてた。すごく楽しくはなかったし、友達がいないのは寂しい時もあったけど、でもパパとママはいたし、話しかけてくれる人たちもいたし……快適で便利で、清潔で、安全で……それで不満はなかった。シェルターの暮らしが好きだった!」


 サヤは唇を噛みしめて、何かをこらえるような表情をした後で、きっとハルを睨みつける。


「だけどそれはなくなったんじゃない。都市の中にはまだある。また手に入れることができる。こんな時代は大っ嫌い。私はシェルターの中に戻りたいの!」


(あ、そうか……)


 ハルにはピアノがあれば、良かったのだ。結局のところ。

 夢だとか、大事な人々だとか、生活だとか。失ってしまったのは、もうどうしたって取り戻せないもの。だから、怒りも悔しさも感じるけれど、「もうないのだ」ということを受け入れるしかなかった。


 その喪失感に比べれば、カード一枚でなんでも買える店だとか、ボタン一つで面倒なことを全部やってくれる機械だとか、次々に娯楽を提供してくれる様々な媒体だとか、それらがないことなんて些末な問題にしか感じられなかった。

 だけど、そこにピアノだけは、あったから――。


 戻れるものだったら、ハルだって戻りたい。あの時代に。大事な人たちの中に。ピアニストになる夢を叶えに。

 だけど。そうだからと言って、欲しいものが手に入らない、家族や友人がいない、ピアニストという職業のないこの時代を憎いとは思わない。この時代が悪いと思ったことはない。むしろ――。


 すべてを奪ってハルを絶望の底へと叩き落としたのは、紛れもなく二〇六〇年代の人々と文明だったのだから。


「おれは……二〇六〇年代のほうが、おかしな時代だったって今は思うよ?」


 そうだ――。本当に復讐すべきなのは、トキタではなく二〇六〇年代の文明――?

 だから。そのために、おれはあの都市を。


「あなたの言っていることは、分からない。私の気持ちも、あなたには分からない」

 低く、少女は言う。


 サヤへと目をやる。

 不服そうに眉根を寄せて唇を尖らせ水面へと視線をやっている彼女の横顔は、やはり美しくて、


(ああ、やっぱり今すぐにピアノが弾きたい)


 とハルは思った。

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