第7話 音色

 それからの食事は、常に吐き気との戦いになった。食べなければ動けるようにはならない。トキタが「吐いてもまた食べろ」と言っていたのは、これを見越してのことだったのだろうか。


 なるべく何も考えないようにして。味も感じないように。少しだけでも、ただ食べて。

 リサはどうにか食べられるものをと様々な工夫を凝らしてくれているようで、そのことも申し訳なく思うけれど。


(このまま食べなければ、死ねるのかな……)


 その誘惑は甘いものだったが、ルウたちの前で死んではいけないと思った。

 自力で歩けるようになって、この村を出て、どこか遠く、見つからない場所に行こう。そこで、死のう。


 だけど、その前に――。


(あいつ)


 みんなを眠らせ、死なせ、自分だけ叩き起こして外の世界に放り出したあいつを、許せなかった。

 唇を噛む。


(殺してやる)


 そう思った。廃墟で撃たれてから、何度も。


 半年後にあの場所に戻れば、会えるのだろうか。説明させる。みんなが死ななければならなかった理由を。自分の置かれている、この状況と、この時代に起こされた理由。そして――死ぬ前に、あいつを殺して――。


 そう思う一方で、

(やっぱり無理だ――)

 心の底ではいく度も首を横に振る。


 眠っている間に死んでしまった人たちが、ずっと頭の中で、「どうしておまえだけ生きているんだ」って責めるんだ。生きてる方が地獄なのにな。眠っている間に、知らない間に死んでいたら良かったじゃないか。

 そりゃ、コンサートに出られないのは悔しいけれど、死んでしまえば悔しさだって感じなかっただろ?


(どうして、起こしたんだよ)


 怒りよりも、困惑と孤独に押しつぶされそうになる。

 あと半年、このわけの分からない状況で、死んでいった者たちに責められながら生きていろって?


(いやだよ、もう)





 杖――と言ってもそれはただの棒きれなのだが――に頼ってゆっくりと歩いて建物の外に出てみた。


 そこはたしかにあの夜の廃墟から繋がっているのだと考えられる、砂の大地だった。人の営みがあるせいでかなり違った雰囲気を持ってはいるが、見える限りの建物の、コンクリートの外壁はくすんでひび割れ、窓はなく、上部や一部が崩れているものもある。

 視界に入るすべてのものに、色らしい色が感じられない。


 ただ空は真っ青で、日差しが眩しかった。


 通りの向こうの方から、人の声が聞こえてきた。子供たちが鬼ごっこでもしているような、はしゃいだ声。

 遠くで馬のいななきのような音。向かいの建物の、いくつかの部屋の窓に掛けられているカーテンが風に微かに揺れている。


 あの廃墟まで、行ってみようか。

 半年を待たずに。まともに歩けるようになったら。


 どうにかして忍び込んで、トキタを探し出す? いや、核爆弾に耐えたシェルターだぞ? やみくもに行ったところで外部の人間が簡単に入れるようなところではない。

 そもそもシェルター周辺にはあのロボットがいて、近づくことすらできないだろう。


(まあ、あいつに会えなくても、あのロボットに見つかって殺してもらえれば早いか)


 今度はちゃんと。でもあの時この村の人に助けられたのだとしたら、また見つかってしまうだろうか。

 あの場所は、ここから近いのか遠いのか。

 ここはどこなのか。


 言葉を覚えて、誰かに聞いてみるしかないか?


 死ぬために、食べて、ケガを治して、言葉を覚える――? 恐ろしく滑稽で、虚しい。


 いや、それを言ったら、これまでの短い人生だって、一生懸命レッスンを続けてきたことだってコンクールで優勝したことだって、全部が無駄でしかなかったのだ。いずれこんなことになるのだったら――。


(こんなことになるなら――?)


 あんなに必死にピアノに没頭せずに、ゲームでもテレビでも好きな遊びをしていたかな。友達と遊んでさ。みんな楽しそうだったな。

 中学に上がってからは、周りもみんな音楽だとかスポーツだとかそればっかりやっている連中だらけになったけれど、小学校のころは友達の誘いを断るのは結構大変だったんだ。全然知らない、楽しそうな世界がそこにあって。


(いや――)


 それらはたしかに魅力的な誘惑ではあったけれど、何をやったってピアノを弾いている時よりも楽しい時間なんかなかったから、やっぱりずっと弾いていたかな。


 これからだって、ずっと――


「ハルっ!」


 気づいたらすぐ近くにルウが立っていた。


 この世界には、学校というものはないのだろうか。

 ルウは昼でも夜でも好きな時間に部屋を訪ねてくるし、部屋にいない時の彼女が何をしているのかは知らないが、一日のうちの決められた時間に決められた予定があるような風でもない。

 友達と待ち合わせしたり遊んだりしている様子もない。同じ年頃の子が、村にいないのか――?


 そんなことをぼんやりと考えていると、すぐ目の前まで歩いてきて見下ろすように立ったルウに、膝の上に置いていた手を指さされた。続けてルウは、ピアノを弾くような仕草で指を動かしながら首を傾げる。

「ああ」と気づく。

 また膝の上で指が動いてたんだ。いつものクセだ。ずうっと指を動かしていたから。


 眠る? ジェスチャー。指さし。お前? 首を傾げて――それはなんだ?


(眠ってる間もやってたって言ってるのかな)


 内心で苦笑する。それどころじゃないってのに、体はピアノを弾くことを片時も忘れないんだ。


 その動きはなんだ? とルウは尋ねているんだろう。


「これは、ピアノ」


 膝の上で、バイエルくらいにゆっくり指を動かして見せながら、その言葉を口にする。


「ピアノ?」

「うん。ピアノ」

「ピ、ア、ノ」

「大好きなんだ」


 ルウはその言葉を覚えようとするように、「ピアノ、ピアノ」と唱えている。

 やっぱりここには、ピアノはないんだ。分かっていても、落胆する。

 トキタは「どこかにはある」と言っていたが、どこかにはある、程度では、きっと探し出すことはできないだろう。


「弾きたいなあ……」


 死ぬ前に、もう一回。

 その音を聞くだけでもいい。

 だけど、それじゃ死ねなくなりそうだ。




 なんとなく寝付けなくて、夜になってまた表へと出てみた。


(さんざん寝たもんな)


 そろそろ歩く訓練もしなくては。少し体を動かして腹が減れば、多少は食べることも楽になるかもしれない。そんなことを考えながら、杖を突き建物を離れる。


 脚の傷はまだ少し痛むが、歩けなくはない。問題は、どこまで行けるかだ。どのくらい歩ければ、人のいない場所まで行ける?

 のろのろ移動していては、ルウやだれかが探しに来てしまだろうか。


(さすがに、そこまではしないかな……)


 わざわざ探し出して連れ戻すこともしないだろう。別にいたってなんの役にも立たないわけだし。

 けれど。

 少しくらいは何か、世話になった恩を返せたらいいんだけれど。


 昼間はとにかく日差しが暑かったけれど、日が落ちてみれば冷たい風が吹き抜ける。

 隣の建物まで歩くと、家並みが途切れて空がよく見えた。


 この村に来てから古めかしいランプのような灯りがあるのは見たけれど、きっと無尽蔵に使えるものではないのだろう。必要もなく夜じゅう灯りを燈している家はない。

 人工的な明かりのほとんどないこの世界の夜では、星がよく見えた。この景色だけは、昔と変わっていないんだろうなあ。空を見上げて思う。ゆっくり天体観測なんかしたことなかったから、星の名前に詳しくはないけれど。


 空のまだそれほど高くない位置に、わずかに欠けた丸い月が浮かんでいた。


(そういえば、あの夜も月が大きかったっけ)


 あれからもう、ひと月近くも経つってことか?

 今が一体何月何日で、それどころかどの季節で、自分がどこにいるのかも分からない。ため息をついて俯いたところで、耳に届いた音に、


「――!」


 ピンっと体が跳ね起きていた。


「え?」


 どこかから聞こえてくる、この音。まさか、


(ピアノの音?)


 いくつかの音がいっぺんに、断続的に鳴る。

 和音はめちゃくちゃだし弾き方もなんだかおかしいし、長らく調律されていない感じの妙な音だし、全然知らない曲だし――というか曲ですらないかもしれないけれど、けれど、間違いない。


 ピアノの音だ。


 間違えるはずがない。


(ピアノがあるのか?)


 立ち上がってあたりを見回す。いくつもの壁に阻まれてかすかに漏れ出てきたような、くぐもった小さな音。どこかの建物の中に、ピアノがあるんだろうか。

 足の痛みも忘れて、歩き出していた。音のする方向へ。

 寝起きしている建物。

 この下のほうから聞こえてくるような気がする。


 建物をぐるりと回って。音をたどって、下に繋がる階段を見つけた。

 真っ暗だった。闇に目が慣れてきてもほとんど辺りの様子は分からず、足で一段一段確かめながら降る。闇の中に吸い込まれていくことへの恐怖は感じない。

 下に続く階段がなくなるころには、ピアノの音がどんどん大きく聞こえるようになっていたからだ。


 早く、早くそこに行きたい。

 目覚めてから感じたことのなかった種類の、心臓の高鳴りだった。

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