第4話 廃墟

(なんだ、これ……)


 階段の一番上の段に出て周囲を見渡して、愕然とする。


 地下通路の壁を伝うようにしてどうにか数百メートルほど歩いてきたが、それだけですでに疲労困憊し、肩で息をしていた。

 かなり長い階段を、手すりにつかまり、重い脚をどうにか引きずるようにして最上段までやってきて――。


 夜だった。

 大きな丸い月が、空のてっぺんから少し傾いた場所で、地上を照らしている。

 地上の、廃墟を――。

 色はなかった。月以外の光も。

 夜とは、これほどまでに色のないものだったのか? 記憶にある世界は、夜だってもっと華やかでいろんな色の光に溢れていた。


 入り口の壁に手をついたまま、恐る恐る一歩踏み出す。すぐに、ブーツの足が予期した以上に沈むのを感じて慌てて足元を見る。ブーツは踝の近くまで砂に埋まっていた。


(砂……? なんで?)


 二歩。三歩。慎重に、歩を進める。足元を見ながら。

 見渡す限りの地面はすべて砂に覆われているらしいのが、月明かりの下でも分かった。


 建物から離れて改めて周囲を見渡す。正面にあるのは傾いたビル。地上から5階分の高さでぽっきりと折れたように、上部を失っている。窓にはガラスが入っておらず、壁に四角い穴がいくつも開いているのみ。

 隣の建物も、その隣も、似たような廃墟だった。


 なんの音も聞こえなかった。むろん誰の影もなく。

 人だけではない。生きているものがいる気配を感じない。


 独り、だった。


 ――世界は一度滅んだ。


 そう聞かされたって。そんなもん、想像できやしないだろ?


 そして寒さに――いや、恐怖なのかもしれない――身震いをした。


 竦んでいた足を奮い立たせ、さらに数歩進んで見回せば。月と反対側、砂の大地の続いた先に巨大なドーム型の建物が見える。


(あれが、核シェルター?)


 そこが今までいたという新宿、ここが中野坂上だとすれば、たしかに月の傾きかけている方角が西。

 そこに人が住んでいるというのか……。


 あんなわけの分からない老人の話を信じて、言いなりになるのか?


 けれど、そうでなければ、どこへ行けばいい?

 何をすれば、誰に会えばいい?


(だって、みんなは……)

 嗚咽がこみあげてくる。


(みんな、死んだ?)

(母さんは? 父さんは?)


 あの高層ビル群が、こんな状態になっているのだ。

 父と母と暮らすあの小さな一軒家なんか、もう跡形も存在しないに違いない。

 たぶん、帰るところはない。行くところも。


 しゃくり上げるように泣きながら、とぼとぼと歩いてビルの合間の広い空間に出る。

 ここが、あの高層ビル街の交差点か。

 南に行けば、大きな音楽ホールがあったはずだ。音楽好きの両親に、何度か連れてきてもらった場所。

 けれど崩れかけたビルの隙間からのぞく南の方角には、何も見えなかった。


 交差点の中心までやってきて、膝をつく。そのままぺしゃりと座り込んだ。

 いつの間にか、声を上げて泣いていた。




 再び立ち上がることができなくて、長いことそうしていたような気がする。


 風が空気を揺らすほかには一切の音もなく、動くものの気配もしなかった、そこで。

 初めて、聴覚が何かの音を捉えた。


 低いモーター音。近づいて、くる?


 ――立ち止まらずに西に向かって、廃墟を抜けるまでとにかく急げ。


 急がないと、どうなるんだっけ。

 ぼんやりと考える。


 ――そのあたりはまだ都市周辺の哨戒ロボットがうろついている。


 はっと立ち上がり――それはよろめくような足取りではあったが――広場の隅、建物のある場所まで進んでいく。


 モーターの音は、どんどん近づいてくる。続いて離れた場所から、


「――――」


 電気を介した合成音ではあるが、人の話す言葉に聞こえる音。何を言っているのかは、分からない。

 手近な建物の、ドアのなくなったそこへと身を潜めた。


「――――」


 やはり話し声らしい。けれど、言葉が聞き取れない。

 そっと身を乗り出してうかがうと。

 三輪バイクのような乗り物に乗った、人の形をしたモノが、こちらに近づいてくるのが見えた。

 人で言うなら顔のあたりに当たる場所で、赤いランプが明滅している。


「――――?」

「――――――――???」


 分からない。なにか、問いかけられている?

 恐怖に駆られて、よろめきながら後ずさっていた。


 入口から、赤いランプが姿を現す。ロボットは二本の脚で立ち、建物の中に入ってくる。その赤い光は、はっきりとこちらを捉えていた。


 奥の壁まで後ずさり、踵が壁に当たる。

 赤い光が、近づいてくる。


 ――もしも見つかって呼び止められたら


「――――――――――――????」


 ――ためらわずに撃て


 マントの内ポケット。

(あの拳銃……!)


 右手がそれを握ったた瞬間だった。

 がらんどうの空間に響く、高い音。

 腕に、焼けるような激痛。


(――!)


 赤いランプは、真っすぐにこちらを指している。


 ポケットの拳銃をようやく取り出したところで。右手がだらりとぶら下がる。トキタに渡された拳銃は、引き金を引かれることのないまま、硬い音を立てて床に落ちていた。


 左の太腿に、同じ、衝撃。

 そして脇腹に。


(いいんじゃないか? 死んだって、べつに)


 背中から地に落ちていく感覚。

 背後の、ガラスのない窓から転げ落ちるように外へと吹き飛ばされるのを、頭のどこかが辛うじて知覚した。


 ザっ―――と。

 音を立てて、砂の急斜面を背中で滑り落ちていた。

 落ちていく体を止めようと。それは本能的な動きだった。左手が、地面から突出した何かを掴んでいた。


 けれど、急斜面に突き出たその何かに掴まった手に、体の重さのすべてがかかっていて。つきつきと、痛んで。


(ダメだ……)

 指が、壊れる……。

 また。その瞳から、涙がこぼれ落ちていた。


(いいんじゃないか?)

 どうせもう、ピアノは弾けないんだろ?

(けど……)

 掴んでいた何かの突起物から、指を放す。


 重力に逆らえないままに、急斜面に体を引きずられるようにして滑り落ちる。次第に傾斜は緩やかになり、数十メートルも落ちたところで止まったようだった。


(痛てえ――)


 撃たれた場所が、熱を持ったように激しく痛む。

 起き上がれない。もう動けない。


(痛てえ)




 痛いー。


 ――チハルくん、どうしたの? おでこに絆創膏なんか貼って。


 ――ったくもう……顔面でボールを受けるヤツがあるか! 先生からも、何か言ってやってくださいよー。


 だって。手で取ったらいけないと思ったから……。


 ――えらい! チハルくん、ピアニストの鑑だね。


 ――先生えぇ。この子だけど、まだ小二ですよ? 運動だってちゃんとやらなきゃ、成長しなんだから。


 ――そうねえ……たしかに体力は必要だし。じゃあ、走りなさい!


 えー。やだよー。母さんー助けて―。




(痛てえ……痛いよ、……母さん)


 朦朧とする意識のもとで。


 知らず、指が、動いていた。

 白と黒の鍵盤が見えていた。涙だか汗だか血だかで視界はかすんで、他のものは何も見えないのに。

 あの日、見ていたあの楽譜の。その旋律をなぞって。

 いつものクセだ。


 けれど、もうこの指が鍵盤をとらえることは、ない。


(死ぬんだろうな、おれも)


 いいじゃないか、べつに。

 そもそもなんでおれは、生きている?

 これから先まで生きていくことに、なんの意味がある? みんな死んで、帰る家もないっていうのに?


 ――きみだけが助かった。だから、きみはどうにかして生き延びなくちゃならない。


 なんだよ、それ。勝手に決めんなよ。

 好きでおれ一人だけ助かったんじゃないだろ?


 父さんや母さんや、みんなと一緒が良かったよ。

 どうして……おれだけ? フジタやタカハシは……。


 ――私がきみを「起こした」。


 なんで、なんで、なんで――

 なんでおれだけ「起こした」?


 家族も友人もみんな死んで、夢も失って、変わり果てた世界を見て絶望するためか? 記憶の中じゃさっきまで一緒に笑い合っていた友達が、死んで腐ってるのを見せられて? 最後は撃たれて、恐怖と痛みの中で死んでいくために?


 そんなことの、ために?

 どうしてみんなと一緒に、眠らせたままにしておいてくれなかった?


(なんだよ、これ)

(痛いよ、母さん)

(助けて)

(死んじゃうよ)

(どうして……)


(あいつ――)


 ――きみをこの理不尽で過酷な境遇に追いやっているのは、


 あいつだ。

 あいつがみんなを。おれを。


 指が止まる。ゆっくりと拳を握りしめる。それは砂を掴んで。


(あいつ――トキタ――)

(殺してやる)


 砂を握りしめながら、意識は砂の大地に吸い込まれるように消えていった。

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