ⅩⅢ 幻影の森(1)

「――ワン! ワン! ワン…!」


 深い森の中に、けたたましい猟犬達の吠える声が木霊する。


 時折、地面に鼻をつけ、クンクンと臭いを嗅ぎながら駆け回る四頭の猟犬の背後からは、愛用のマスケット銃を手にしたヴァンジャック・エルシンギュも愉しげに口元を歪めながらついて来ている。


 一夜明け、森が明るくなるのを待ってから、あのままどこかで野たれ死んでいるはずの〝ジュオーディンの怪物〟――即ちリュカの毛皮を回収しに再びやって来たのである。


 ちなみに昨夜は油断させて誘き寄せるために置いてきていたが、今日は逃げた人狼の臭いをたどらねばならぬので、自慢の愛犬達を連れてきている。


「フン……犬を使うまでもなかったようだな……」


 だが、不意にしゃがんでほくそ笑むヴァンジャックの独白通り、地面を覆う下草の上には点々と赤黒い血が森の奥深くへ向かって続いている……無論、それはリュカが逃げ伸びる際に流していったものである。


 即ち、それを目印にたどって行けば、自然とジョルディーヌの家へ案内してくれるというわけだ。


「しかし、こんだけ血を流してよく動けたもんだな。怪物とはいえそのしぶとさには恐れ入っただぜ……ったく、どうせくたばるのに手間かけさせやがって……」


 いまだリュカが死んでいるものと信じて疑わないヴァンジャックは、その血を追いかけて、なおも道なき道を進んでゆく……。


「……ん? 急にガスってきやがったな」


 だが、あと少しでジョルディーヌの家という所までやって来た時、俄かに白い霧が辺りに立ち込め始めた。


 その霧はみるみる内にその濃さを増してゆき、それまでの陽光に照らされていた昼間の森は、瞬く間に白い世界へと様変わりしてしまう。


「チッ…これじゃ何も見えねえ……森に住む魔女のせいで異端審判士が何人も遭難したって話だが、この霧がそいつの原因か……」


 一寸先をも見渡せぬ視界ゼロのその状況に、ヴァンジャックは犬とともに足を止めると、噂に聞いた森の魔女の話を思い出す。


 もっとも、その霧が本当に魔女の仕業かどうかはヴァンジャックとしても半信半疑なところであったが、彼のその推測は思いの外に大当たりであった――。




「――偉大なる大地の母、月と狩猟を司る女神ディアナよ! 汝のしもべ、魔女ジョルディーヌが謹んでお願い申し上げる! 汝の統べる庭、この深き森に白き霧を呼び、よこしまな心を持って足を踏み入れる者達の目を奪いたまえ!」


 それよりわずか前のこと、自宅の表の地面に魔女術で用いる黒檀の柄のナイフ――〝アセイミ〟で五芒星を内包する円を描いたジョルディーヌは、その中に立って自らが信奉する女神に祈りを捧げていた。


 その手にはいつも鍋を掻き回している長い樫の木の棒――じつは彼女の魔法杖ワンドだったりするものも握られ、一見、マルクやピエーラの行った召喚魔術に近いものがある。


 しかし、両者の間には大きな違いがあり、彼女は神霊を召還するのではなく、あまねくこの地上に存在する大地母神にそのまま語りかけているのであり、また、足下の円形図形も悪魔から身を守るためのものではなく、大地のエナジーをそこに集約するための装置なのだ。


 そうして魔女が大地の女神に祈願するやいなや、周囲にはどこからともなく白い霧が湧き起こり、ジョルディーヌも、そして彼女の小屋もその白いベールの内に包み隠してしまう……ヴァンジャックの行手を阻んだ張本人は、まさに森の魔女だったのである。




「――こいつはしばらく動かねえ方がよさそうだな。下手すりゃ森の奥深くで死ぬまで迷子だ……」


 プロの猟師としての経験則から、この右も左もわからぬ状況に、その場で待機する判断を即座にヴァンジャックは下す。


「ハン! そいつはいらねえ心配だぜ、クソ猟師! 迷子になる前にてめえはここでくたばるんだからなあ……」


 ところがその時、四方を取り囲む深い霧の中から、そんなどこか聞き憶えのある声が聞こえてくる。


「ワン! …ワン! ワン! …ワン! ワン…!」


 その声に、突如として猟犬達は前方の霧の中へ向けて、なぜか狂ったかのように一斉にけたたましく吠え始める。


「ったく、うるせえワンコロどもだなあ……てめえらも巻き添えになりたくなかったら、とっとと犬小屋ハウスへ帰りやがれってんだ」


 すると、犬達が異様な警戒心とともに牙を剥くその霧の向こう側からは、てっきり死んだものと思い込んでいたジュオーディンの怪物が――あの人狼が、ぬらりと亡霊の如く姿を現した。


「…! ……チッ…生きていやがったか……」


 リュカを見た瞬間、一瞬驚くも舌打ちをしたヴァンジャックは、素早くマスケット銃を構えてパーン…! と躊躇いなく放つ。


 だが、次の瞬間にはもう、再び霧の中へリュカの姿は消え失せており、その銃弾は当たったようにも感じられたものの、なぜか獲物の叫び声も、また倒れたような音も聞こえなかった。


「魔弾を外した…のか? ……てめえ! なんでまだ生きてやがる!? あの傷では万が一つも助かることはねえはずだ!?」


 怪訝な顔のヴァンジャックは弾と火薬を合わせた小筒を銃口から装填しつつ、周囲を忙しなく見回しながら大声を張りあげる。


「なあに、身体の頑丈さだけが俺の取柄でねえ……」


 その問いに、今度は姿を見せることなく、霧の背後から声だけでリュカがそう答える。


「この霧といい……そうか! 森の魔女に助けられたな……犬ども! ヤツの臭いを追え! この魔弾・・なら、たとえ姿が見えなくともだいたいの位置さえわかればてられる……今度こそ引導を渡してやるぜ!」


 姿の見えぬ恐ろしき獣に、ヴァンジャックはそんな推理を巡らすと猟犬達をけしかける。


 犬の鼻ならば、この霧の中でもその臭いをたどり、獲物の位置を突き止めることができるだろう。


「ワン! …ワン! ワン! ワン…!」


 案の定、その内の一匹が何かを感じ取り、そちらへ駆け寄るとよりいっそう激しく吠えかかる。


「見つけたぜ……」


 そこで、その方角にヴァンジャックが意識を集中させると、それまで白くしか見えなかった霧の中に人狼らしき人影シルエットが浮かび上がり、ガサガサと木の枝が何かに揺り動かされる音も聞こえてきた。


「フン。あばよ、怪物……」


 それを認識した刹那、ヴァンジャックはその場所に向かってマスケット銃を構え、すでに装填されていた銀の弾丸をパーン…! と放つ。


 と、その〝魔弾〟は素早く移動する人影シルエットも逃すことなく、昨夜同様に軌道を変えると、見事、その胸部へと命中する。


「ワン! ワン! ワン…!」


「やったか!?」


 そのままもんどり打って再び霧の中へ消える人狼の影を追い、吠えながら向かう猟犬とともに、ヴァンジャックも急いでその場へと駆け寄った。


「……? どこだ? 死体はどこへいった?」


 だが、銃弾に撃ち抜かれたはずの獲物の死骸は、倒れたその場所をいくら探してもまるで見当たらない。


「ハン! 効かねえなあ。そんなヘッポコ弾、いくら当たっても蚊に刺されたようなもんだぜ!」


 なんだか狐にでも抓まれたような心持ちで小首を傾げるヴァンジャックの耳に、また、どこからかそんな挑発する声が聞こえてきた。


「クソっ! どうなってやがる? 確かに手ごたえはあったはずだ……銀の弾でもヤツは死なねえっていうのか……」


 例の火薬と弾を合わせた小筒で素早く再装填をしながら、俄かに動揺を覚えながらヴァンジャックは呟く。


「ワン! …ワン! ワン…!」


「そこかっ!」


 と、その間にもまた別の猟犬が激しく吠えて獲物の場所を知らせ、狩人ハンターは再びマスケット銃を構えると、乾いた発砲音を霧に煙る森の中に響かせた。


「今度こそやったか!?」


 その魔弾も自ら標的を追尾し、樹々の隙間をガサゴソ音を立てて移動する人影シルエットに着弾するや、その肉片を吹き飛ばしながら豪快にそれを撃ち抜く。


「逃すなっ! 噛みついて捕らえろ!」


 だが、今度はそれでも油断することなく、すぐさまヴァンジャックは猟犬達に檄を飛ばし、人狼の消えた霧の向こう側へ彼らを走らせた。


「ワン! ……ワン! ワン…!」


「ワン! ワン! ワン…!」


 直後、何やら霧の中で暴れ回り、うるさく吠えまくる猟犬達にヴァンジャックも急いでそちらへと駆け寄る。


「よくやったぞ、おまえら。さあ、今度の今度こそ、逃しはしねえぜ……なっ!?」


 だが、そこで彼が見たものは、予想だにしない光景だった……。

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