10


〈桜魔ヶ刻〉二階。

 ギルド長室では壁際に立つ古時計が音を鳴らして時を刻んでいた。

 フィオルブ・レントが視線をそちらにやれば、もうじき五時になろうとしている。

 午後の、ではない。朝の五時だ。

 まだ小鳥のさえずりも聞こえないような時間帯だが、フィオルブは起きていた。

 うっすらと差し込み始めている陽光、溶けかけた蝋の匂い、刻む針の音。

 ひとりであれば非常に心地よい空間だが、あいにくとテーブルの向こうには人がいた。

 だが物思いに耽っているのか、窓の外を眺めるばかりで話を聞いていない。

「……ヴィル君、聞いているかい?」

「えっ? あぁ……すみません、考え事をしていました」

 声をかけると相手は慌てて姿勢を正した。

 そうして新緑のような瞳がこちらを見据える。

 相対しているのは〈桜魔ヶ刻〉最強の冒険者――ヴィル・ガルベリアス。

 彼を見出した師匠がいなくなってから早五年。これまで単独で活動して周囲から畏怖すらされていた彼だが、最近はすっかりギルドメンバーとも打ち解けているらしい。

(……彼女のおかげだろうな)

 フィオルブの脳裏に真白の少女が浮かぶ。

 半月以上前、ある日突然ヴィルが連れてきて弟子にすると言い張ったのだ。

 初めはどうしたものかと思ったが、彼女のおかげでヴィルはパーティを組み、周囲と打ち解けることができている。ギルド全体も活気に満ちているような気さえする。

(……だが、同時に厄介な事案も持ってきてくれた)

 ギルドを活気づけてくれたのは確かだが、それと同時に『領内で〈黒の侵蝕〉に居合わせた』という気がかりな案件も持ってきた。

 そして今、まさにその案件について話している真っ最中であった。

「魔境連野にもそれらしき情報はなかったのか、と聞いているんだが」

 フィオルブは手元にある資料を手の甲で軽く叩き、もう一度当該ページをめくった。

 そこに記されているのは周辺領や魔境連野での未確認情報について。

 依頼として受理されるには至らない、ギルドではどうしても取りこぼしてしまう些細な情報をヴィルはこの三週間で独自に集めてまとめてきた。その情報についてふたりで精査しているというわけである。

 ヴィルはフィオルブの質問にゆっくりと首を振った。

「特にありません。〈園〉にいるカヴァスが心なし少ないくらいです」

 やはりというべきか、フィオルブたちの求めていた情報モノは無かった。

「現段階では、という文言付きですが【大侵蝕】が起こる可能性は極めて低いかと」

【大侵蝕】――九年前、突如王都で発生して王国全体を襲ったの厄災。黒の波濤はとう

 二度とあんな惨劇が起きてはならない、フィオルブは強くそう思う。

「これで皆に余計な不安を与えずに済むよ。短期間でこの量を集めてくるのは重労働だったろう」

「いえ、これくらいはやって当然です」

 報告と確認が終わってフィオルブは資料を卓状に置く。だがヴィルは未だ不審点がないか考え続けている様で険しい表情を崩さない。

 一心に虚空を見つめ続けるヴィルに、フィオルブは努めて優しく声をかける。

「そんなに疑心暗鬼にならなくても良いだろう。ここ五年で〈黒の侵蝕〉の発生頻度は激減しているんだ。今回のもすぐに収まったんだ。じき完全に起こらなくなるさ」

 王国の研究発表により、魔法現象災害――魔象災害である〈黒の侵蝕〉は永い時をかけて自然消滅していくという事実は民衆にも周知されている。

 それはヴィルを少しでも安堵させようと思っての発言だったが、返ってきたのは遣る瀬無い感情を含んだ視線だった。

「確かに新たな〈黒の使徒ベクター〉が現れなければ、〈黒の侵蝕〉は時が経てばいつか消えて無くなります。……でも、それはもっと先の話だ」

 視線を机の上に変えたヴィルの弁は止まらない。

「減少する速度がんです。師匠の見立てとまるで見合ってない。作為的とまで言わずとも、僕たちの知らない何かが起こっているはずなんです」

「何かというのは、具体的には?」

「〈黒の侵蝕〉を消して回っている人がいる、とか」

「まさか。誰がどうやって」

「それがわからないから困ってるんですよ。……師匠なら何か名案を思いついたかも知れませんが」

 ヴィルはそこで言葉を切り、小さく息を吐いた。

「私はそうは思わないな。シオン君なら『なんもわからん』などと笑っていそうだ」

「どうでしょうね。帰ってきてから聞いてみないと」

 まるで師匠がこの後すぐにでも戻ってくる様な物言い。

 なんと返答すべきか迷ったフィオルブの脳裏に、ふと五年前の出来事が過ぎる。

 出立する直前、〈花〉――シオン・ガルベリアスがこちらに顔も見せず言った。


『フィオ、弟子ヴィルが困ってたら助けてあげて欲しい。一回でいいからさ』


 その日を最後に“最強”は消えた。


『約束したんだよ! 師匠は絶対戻ってくるって言ったんだ!』


 そして新たな“最強”が生まれた。


「……そうだな。戻ってきたら聞いてみるといい」

 フィオルブは現実を突きつけることはせず、笑って流した。

 すでに幾度も突き付けられ、叩きつけられ、打ちのめされたのだ。

(こんな些細な会話で辛い思いをさせることもあるまいよ)

 やり場のない思いにフィオルブはゆるゆると息を吐き、壁の時計を見やった。

 同時に古時計が古めかしい音を立てる。

 鳴り終わらないうちにヴィルが杖とバックパックを手に取って立ち上がった。

「約束の時間なので僕はこれで」

「ああ、そういえば今日だったか。怪我には重々気をつけるようにね」

 一礼して扉に向かうその背に、フィオルブは「そういえば」と声をかける。

「ヒイロくんの調子はどんな具合かな。ギルドに入って今日で三週間のはずだが」

 この部屋でヴィルに対して一歩も引かなかった姿は記憶に新しい。あの時は前途多難な気しかしなかったが、果たして半月以上経った今どうなっているのか。

 純粋な興味半分、憂い半分で投げた問いだったが問われたヴィルは扉の前で立ち止まったまま答えない。

「ヴィル君?」

 フィオルブが怪訝な顔つきで再び問いかけると、フッと笑う気配がした。

「竜も堕とせますよ」

 そうして、ヴィルは部屋を後にする。

「はは、竜とはこれまた大きく出たな」

 フィオルブは卓上を見やる。

 彼の視線の先には、許可印の押された依頼書があった。


『壊滅級依頼:〈階段峡谷〉の魔境鉱山にて二体の現姿を確認されたし』


 ◇


 僕が領主様との話を終えてからギルドを出ると、空は黎明を迎えようとしていた。

 まだ薄暗い大通りに人の姿はほとんど無く、開店前に各々の店前の掃除をしている人が何人か見られるくらい。

 人の熱がないからか朝だからか、空気は涼しく澄んでいた。

 は門の前で僕を待っていたらしく、いち早く僕に気づいたヒイロが街灯の下でブンブンと手を振ってくる。 

「ししょー、遅いですよ! 大人は五分前行動が普通なんじゃないんですか!」

「悪かった。ちょっと話が長引いたんだ」

 僕も手を振り返してそちらへ行くと、ヒイロは出会った日に背負っていたあのバカでかいバックパックを足元に置いている。

「ふふーん、いいですよ! わたしは大人なので許してあげます!」

 これ以上ないってくらいのドヤ顔で、薄い金属鎧プレートメイルを張りつけた胸をフンスと張るヒイロにイラついた僕は少し反撃することにした。

「そうか、大人なら道中のオヤツにと思って買っておいたベリーパイもいらないよな」

 僕が紙袋を軽く振ってみせると、ベリーの芳醇な香りと焼けた生地の匂いが鼻をくすぐる。メリーさんがパァッと表情を輝かせた。

「いいにお〜い! それ人気店のでしょ〜? よく買えたね〜」

「昨日、朝一で買いに行ったんです。本当は予約しないとダメだったらしんですけど『キングの頼みならしゃあねぇな!』って特別に買わせてもらいました」

「いいのかそれは……まあ、以前より名が広まっていて良かったな」

 ヒューゴさんが苦笑するが、今日のためにわざわざ開店と同時に注文しに行ったのだから多めに見てほしい。

 実際ヒイロのために買ったと言っても過言ではないのだけれど、そんなことつゆ知らず、ヒイロは一瞬にしてドヤ顔から半ベソ顔になった。

「だぁぁーっ⁉︎ それはいります! わたし子ども! 最年少!」

「はは、安心しろ。最年少のお子ちゃまの分もきちんとあるから」

 お子ちゃまヒイロにパイを渡してやると、即座に自分のバックパックにしまう。それを見届けた後、少しだけ離れた位置にいる四人目に声をかけた。

「で、お前はなんでそんなとこでフード被ってんだ」

「んなもん、フィオルブ公にバレて商業組合に登録させられないために決まってんだろ」

 身の丈ほどもある斧を背負い、外套に身を包んだまま立ち尽くすそいつはフードの先を少しだけ持ち上げ、赤髪と勝気な笑みを覗かせた。

「ったく、壊滅級だなんてとんでもねーもんに呼びやがってよ」

 オーバーな動きで肩をすくめるシャリゼの腕にヒイロがギュッと抱きついた。

「でもでも、わたしはシャリゼさんが来てくれてすっごく嬉しいです! 百人力です!」

「ヒイロ嬢がそう言ってくれるのは嬉しいけど、報酬に不滅石以外のもんチラつかせられてたら確実に蹴ってたね」

「うぇっ⁉︎ 不滅石って〈階段峡谷〉にあるんですか⁉︎」

「おう。他にも色々転がってるとは思うが……採れるようになるのはだいぶ先だろーな」

「色々ってことは他にも珍しい石が採れるんですか?」

 首をかしげるヒイロに、シャリゼはフードの中で「ああ」と声を漏らす。

「ヒイロ嬢は知らねえのか。九年以上前……言っちまうと【大侵蝕】以前、ここら一帯は鉱業で成り立ってたんだよ。男どもはみーんな〈階段峡谷〉に石掘りに行って、女どもは男の帰りを待ちながら花育ててたんだと」

「え? 〈階段峡谷〉って〈園〉の向こうにある第二の〈魔境連野〉……ですよね?」

 何かの間違いではないかとヒイロが僕を見るけれど、まごうことなき真実だ。

「ああ、行って戻ってくるだけで命がけだよ。もちろん、できる限り往復を少なくするため鉱山の方に小屋を建てたりもしたらしいけど、そこにも魔獣は出るわけだし根本的な解決には至らない。そこで鉱山夫たちは用心棒を雇うことにしたんだけど――」

 僕の言葉をシャリゼが引き継ぐ。

「その用心棒こそ冒険者で〈桜魔ヶ刻〉の始まりってわけだな」

「へー……知らなかった……」

 今に至るまでの流れに、ヒイロは感心のため息をついた。

「まあ、【大侵蝕】のせいで野蛮人の巣窟が今や街全体の歯車の中心になってるんだからすごいもんだよな」

「ししょーはそのさらに中心ですもんね!」

「んん、まあ……」

 何気ない呟きにそんな笑顔と返しをされては言葉に詰まってしまう。

「……話を戻して不滅石が〈階段峡谷〉で採れる理由わけだけど、不滅石は地竜の喰らった岩石が体内で鍛錬された物なんじゃないかって言われてるからなんだ」

「へー! 竜のお宝だ!」

「喰った物の残りなんだからウンコじゃねえかとも言われてる」

「……は? ウンコ?」

「ウンコだよ。それも五千万イェル以上の価値がつく、ね」

「ごっ、ごせんまんのウンコ……」

「そう言うと意味が違って聞こえるからやめなさい。まぁ、実際には地竜の《ソーマ》だとか心臓だとかそういう説もあるけど……まあ、それを今から確かめに行くんだ」

 そう言って僕はバッグを背負った。


「さあ――――竜狩りの時間ドラゴンスレイだ」


 ◇


「何これぇ……気持ちわっる……」

 最後の依頼、壊滅級依頼に向けて半日がかりで〈園〉を抜けたヒイロたちを待っていたのは、面と角のみで構成された峡谷だった。

 目の前に広がる景色のひとつひとつを絞って見てみれば、そこにあるのは人工的にくり抜いた岩や地面であっても、それが様々な方向、角度、長さで見渡す限り砂で埋もれた地平に広がっているのだ。でたらめ極まりない。

 だが、最もでたらめなのは色。グラデーションのような地層が剥き出しになっているおかげでくすんだ虹を落とし込んだような色合いになっており、さながら風邪を引いた時に見る悪夢のような景色に仕上がっている。

〈園〉が魔獣たちの楽園という意味での魔境だとすれば、〈階段峡谷〉は見た目からして魔境だった。

「今からここに踏み込むんですか……?」

 すでにたっぷり二時間の休憩を取っていた。パイはとっくに胃袋の中である。

「そうだよ。正確には地下だけどな」

 そうして夕暮れの〈階段峡谷〉を歩き出せば、十分としないうちに拓けた台地に出た。

 他の場所がでたらめに切り取られたような造形のため、平坦なこの場所は却って不自然に見える。その所感は間違っていなかったようで、すぐ近くに大きな竪穴があった。

「ここが魔境鉱山の入り口だが……俺も入るのは久方ぶりだ。即応の姿勢は損なうな」

 松明に火を灯したヒューゴがそう言って中へ入るのに続く。

 それからヒイロたちは果てない鉱山の坑道を探索し始めた。

 湿った土の空気をかぎながら、壁に写る自分たちの影がおどろおどろしく踊るのを横目にひたすら歩く。壁面に取り付けられた魔燈篭はそのほとんどが壊れているのか灯りは点いていなかった。時折、採掘途中だったらしき孔を見つけては何かないかと覗いてみたりもしたが、魔獣には全く出くわさなかった。

 薄暗い坑道をかれこれ二時間ほど歩いていると、ふいに壁の影が消えて靴の反響音がにわかに大きくなった。どうやら開けた空間に出たらしい。

「メリー、明かりを灯せ」

「は〜い。――――《電果よ実れエレクトロベリー》」

 間の抜けた返事から、パリッと乾いた紙を破くような音が鳴り、一筋の閃光が疾る。

 頭上に伸びた閃光はそのまま天井近くで弾け、光をもたらす。

 そうして露わになった眼前の光景に、ヒイロは目を疑った。

「何、これ」

 やはりというべきか、そこは大広間とでもいうべき巨大な空間だった。

 だが、特筆すべきはその惨状。

 大きく抉られた壁。

 鋼の驟雨にでも降られたような穴だらけの地面。

 整然と敷かれていたレールや魔燈篭は破片となって無残に散らばっている。

 繊細な硝子細工のように美しかった景観は見る影も無い。

 総じて、破壊の限りが尽くされていた。

「不穏だなぁ、おい」

 笑うしかないといったようにシャリゼが苦笑する。

「こりゃすごいね〜。誰かが魔法でやったのかな〜?」

 破壊的な光景を前にして謎の感心をしているメリーにヴィルが首を振る。

「いえ、ここまでやるにはよほどの規模と出力じゃないと無理ですし、そんなの撃ったら本人も崩落に巻き込まれる可能性があります」

「やっぱそ〜だよねぇ。魔法でやりました〜、って感じでもないし」

 みんなでうんうん唸りながら考えてみるが答えは出ない。

「ここで論じていても答えは出まい、為すべきことを為すぞ」

 ヒューゴの発言によってヒイロたちは再び進み始めた。

 そうして大広間を抜けようとしたその時、ヒューゴの隣を歩いていたメリーが立ち止まって振り返った。

「な〜んか、揺れてない?」

 

 ◇

 

 それは激情していた。

 

 初めは渺乎びょうこたる手弱女たおやめが来たと、ただそれだけの認識だった。

 

 ――否。

 

 そこに在るのは、異様な異常が異業を成さんと人の形を為したモノ。


 そう気づいた時には全てが手遅れだった。

 

 異形は跡を濁さず消え、後に残るのは激甚たる痛みと茫漠ぼうばくたる喪失ばかり。

 

 其にできるのは苦悶し、狂い、怒り続けることだけ。

 

 ――我らを汚したモノに報復を。

 

 ――汚された我らに救済を。

 

 いったい其がどちらに考えていたのかは定かではない。

 

 確かめる術も今はもう、無い。

 

 けれど。

 

 泥まみれの耳朶で。


 灼き切れそうな感覚で。


 再び渺乎たる存在を知覚した時、其が取った行動は一つだった。

 

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