捨てた過去

 私たちの出会いは偶然なのだろうか。


 この疑問に対する由香里の答えはアッサリしたものだった。

「偶然だよ! カオリちゃんに会って、生きて行く勇気が湧いたよ。都会にもいい人いるんだね。ゴメンね。調子に乗ってワガママ言って…本当にありがとう」

 由香里は、出会った日と同じように深々と頭を下げた。

 旅行の目的は果たせたと言って、笑って手を振っていた。

 そんな由香里を追及することなどできなかった。

 由香里も何も言わないだろう。


 私は急いで家に帰ると、母のジュエリーボックスを探した。

 果たしてその中にあった。

 あのペンダント。

 幼い由香里が首につけていたものと同じもの。

 幼かった頃、何度かこれが欲しいと言って泣いたことがある。

 しかし、母は決して首を縦には振らなかった。

 少し大きくなってペンダントへの興味を無くすと、今度は母がなぜ、あんなおもちゃのペンダントに固執するのか不思議でならなかった。

 しかし、そんな疑問も時の流れと共に忘れ去った。


 由香里を捨てた母親が、私の母だとしたらすべてがつながる。

 なぜ、私の名前に由香里と同じ漢字が使われていることを、あれほど喜んだのか。

 母が付けたペットの名前が、幼児期の自分の呼び名であることに、なぜ涙を見せて笑ったのか。

 そして母にとって、このペンダントは由香里そのものだった。

 私は自分の鈍感さを呪った。

 メイクが落ちた由香里の顔は、母の若い頃の写真にどことなく似ていた。

 いや、メイクした顔も母そっくりではないか。

 なぜ、もっと早く気づいてあげられなかったのだろう。


 動物園、遊園地、おもちゃ屋、多分お花見も、みんな母と行きたかった場所に違いない。

 旅行の目的は果たせたと言っていた。

 それは私と過ごすことではなかったはずなのに。

 私を通して母の愛情を受け取ったとでも言いたいのか。

 あまりに切なすぎる。

 私の心には、母への憎しみだけが募っていった。


 母はキッチンで、夕食の支度にせわしなく動いていた。

 その緊張感のない緩慢な背中が、涼しい顔で自分だけ幸せを享受してきたことを具現化しているように見えた。

 私は、母の背中に乱暴に言葉を投げた。

「ママ、再婚だったの!」

 母の手が止まり、ゆっくりと振り向く。

 この子は何を言い出すのかと、余裕の笑みすら浮かべている。


 テーブルの上に、あのペンダントを置いた。

 母の笑顔に困惑の色が差す。

「椎名由香里! 知ってるでしょ! ママが捨てて来た娘だよ!」

 母の顔から血の気が引くのがわかった。

 そして、母の痙攣し始めた唇とうつろな目の動きは、疑惑が確実なものであることを証明していた。


「なんで会ってあげないの! 自分の都合で捨てて来たくせに! 会いたくないなんて言う権利、アンタにはないから!」

 私はもう、止めることができなかった。

 私はすでに、由香里と一つになっているような気さえしていた。

「私とパパのほうが大事だとでも言いたいの? ごまかさないでよ! 人をダシに使わないでよ! 結局、自分が大事なだけでしょ! 自分さえよければいいんだ! 最低! エゴイスト!」


 次の瞬間、私は大きな衝撃に倒れ込んでいた。

 何が起こったのか確かめる前に、母の叫び声が響いた。

「やめてっ!」

 同時に母の身体の重みを全身に感じた。

「この子は悪くないの。みんな、この子の言う通りだから…」

 私と母の前に、仁王立ちの父がいた。

「何もかも知っているようなことを言うな!お前は正義の味方にでもなったつもりか!」


 私は間違っていない!

 この数日、由香里と同じ時間を過ごし、由香里の心の奥深くまで染み込んだ孤独を感じていたのだから。

 自分には決して手に入らなかった母の愛情を、一身に受けて育つ妹の姿をどのような気持ちで眺めていたのだろう。

 母に撮られた写真を眺めて、かつて感じていたはずの母の愛に、どれほどの思いを馳せていただろうか。

 ここで引き下がるなんてできない!

 由香里のためにもできない!

 自分勝手な都合でしか物事を考えられない汚い大人たちに屈するわけにはいかなかった。

 それは、自分を捨てた母の愛情を信じ、その幸せを願うような由香里の清らかで美しい心を汚す行為だ!

 私は母を乱暴に押しのけ立ち上がった。

「パパもママも最低! 大っ嫌い!」

 それだけ言い捨てると、外に走り出た。



 春の夕暮れは、冬が名残を惜しんでいるように身体の芯まで冷える。

 激情にまかせて家を飛び出したものの、すぐにTシャツ1枚で飛び出してきたことを後悔した。

 あてのない家出は、結局、父母にはバレバレの行き先で幕を閉じる。

 母から連絡が来たのだろう、一人暮らしの祖母は振るえていた私を笑顔で迎え入れてくれた。


 古い公営アパートの1DKの部屋で、祖母は母を女手一つで育てた。

 野菜の煮物、ムツの照り焼き、モズクとキュウリの酢の物、大根と油揚げのお味噌汁、ナスとキャベツのお漬け物。

 そして、炊き立ての白いご飯。

 祖母の家で食事をするのは、あまり好きではなかった。

 その食卓に並ぶ彩りの少ない老人食が、自然と私の顔をゆがめさせるから。

 しかし、今日は違っていた。

 祖母の手作り料理はどれも温かく、冷えた身体を優しくなぐさめてくれた。

 一口運ぶごとに涙がこぼれ落ちる。

 その涙の意味などわからなかった。

 ただ、私をなだめようと背中をさする暖かい祖母の手が、逆に涙を溢れさせているような気がした。


 そして、私は由香里のことを考えた。

 祖父母に育てられた由香里は、不幸ではなかったのかもしれない。

 彼女の純粋で素朴な人柄は、その証しではないだろうか。

「お婆ちゃんが悪かったんだよ。ママじゃないから…ごめんね、香里ちゃん」

 祖母は、お茶を入れながら言った。

 祖母が入れる熱い緑茶は苦手だった。

 うっかり、冷まさずに飲むと必ず舌をやけどする。

 私にお茶を差し出すと、祖母は冷ますこともなくズルズルとすすった。

「あちらさんのほうが良いお家柄だったからね。裕福な家で育つほうが、由香里ちゃんのためだと思ったんだよ。あの子も母子家庭で、小さい頃から苦労ばっかりだったから…」

 ティッシュで目元を押さえ、そのまま鼻水をぬぐい、当時を思い出すように宙を見上げる。


「由香里ちゃんが連れ戻されてから、しばらくは魂が抜けたようになってね。ある時、由香里ちゃんが置いていったペンダントを見つけて泣き叫んでた… あの子だって辛かった。だけど由香里ちゃんのためと信じて耐えたんだよ」

 しばらく沈黙した後に祖母が「だけどね…」と続けた。

「ママにはこんなこと言えないけど、お婆ちゃんはね…由香里ちゃんよりもママの将来を優先させたのかも知れない。苦労させたくなくて…」

 祖母の声がか細い泣き声に変わった。

 父の言葉が脳裏によみがえった。

「お前は正義の味方か!」

 正義は一つではなかった。

 私の、母の、祖母の、違った正義が交錯していた。


 どれくらい経った頃だろうか、電話が鳴った。

 受話器を取った祖母が「わかったよ」と何度か繰り返す。

 受話器を置いた祖母は、私を見て優しく笑った。

「外にママが来てるよ。ここに泊まりたかったら泊まればいいって…30分ほど待ってるからって」

 私は立ち上がった。

 祖母は、まぶしそうに私を見上げ「ありがとう」と言う。

 それは私のセリフだ。

 私は首を左右に振った。


 祖母に見送られ外に出ると、少し離れた所に母が立っていた。

 うつむき加減に母に近づいて行くと、母は持っていたジャケットを私の背にかけてくれる。

 何を話していいのかわからない。

 ただ、歩き出した母から二、三歩遅れて付いて行く。

「ママには…」

 消え入りそうな声だった。

「ママには会う資格ないから… 香里が言う通り、捨てたんだから。嫌われたままのほうがいいの。当然のバツだと思ってるし…」

 泣くのをこらえているのか振るえるような声でとつとつと話す。


「嫌ってないよ。由香里さんはママのことを思ってる… だから会いに行ってあげて」

 私の言葉に、母は詰まったような声をもらす。

「会って、あのペンダントを見せて、ずっと愛していたこと、伝えてあげて… 由香里さんのために」

 張り詰めていた糸が切れたように母の荒い息づかいが聞こえ、声を殺して泣いているのがわかった。


 アパートの敷地から通りに出た所に人影が見えた。

 父である。

 私と母が近づいて行くのを見計らい、何も言わず、私たちの二、三歩前を歩き出した。

 暗闇の中、街路灯が桜並木を、立ち上る薄桃色の入道雲のように浮かび上がらせている。

 桜を見上げる父が、深く息をすって吐く音がした。

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