追加シナリオ 星の海(2)

 響き渡っていた子供たちの甲高い声がようやく収まって、奥の部屋にようやく静けさが訪れる。そっと子供部屋を覗いたシンは、やがて、ほっとした顔で戻ってきた。その表情からして、子供たちは無事、眠りに就いたようだ。

 「相変わらず、ここは賑やかですね」

 「ああ。眠ってる時は静かなもんだがな」

シンは、床に敷いたヤシの葉の敷物の上に腰を下ろしながら、入れ替わりに立ち上がるロードのほうを見る。

 「長のところへ行くのか」

 「ええ、約束したんで。」

 「――そうか。ゆっくりな」

何か含むように言って、男は、腕を枕にごろりと横になった。

 シンの小屋を出ると、波の音だけが聴覚を支配した。町と違って人工の灯りの一切ない岩礁地帯では、人々は日暮れとともに眠りについている。空は既に、無数の星々の輝きに埋め尽くされている。月の無い新月の夜でも、足元がうっすらと青白く輝いて見えるような気がするほどに。

 小舟で昼間の小島に乗り付けると、ヤシの木陰に腰を下ろしていた人影が立ち上がった

 「やあ。待ってたよ」

 「すごい星空だな。」

空を見上げながら言うと、ハルは小さく首を振って足元を指差す。

 「そっちじゃなくて、こっち」

言いながら、海に見えていた暗い空間に向かって足を踏み出す。

 「え、…そこ歩くのか」

 「浅瀬なんだ。見えづらいけど、下は砂地だから大丈夫。ついてきて」

そう言って、ハルはロードの手をとった。恐る恐る水に足を踏み出すと、確かに足の裏には砂の感触がある。足を一歩踏み出すたび水紋が広がって、水の表面が揺れる。

 歩いているうち、ロードにも、彼が何を見せようとしているのかが分かってきた。


 ――岩礁と岩礁に挟まれた、ほとんど波のない浅い潮溜まりはまるで鏡のようで、満天の星空を写しこんでいる。


 空の只中に立っているような感覚。ほんの数歩、水の中に歩き出しただけで世界は一変した。自らの立てた波が消えた後には、完全な静寂とともに、足元にも頭上にも、無限の夜空が広がっている。

 これが、普段ハルの見ている世界なのだろうか。

 「…なんだか、自分が何処に居るのか分からなくなってきた」

 「ふふ、皆そう言う。」

小さく笑って、ハルは空を振り仰いだ。

 「ほら、あれが北極星。船乗りたちの星だから、きっとロードはもう知ってるよね?」

 「一応は。けど、こんなに星があったら探すのは苦労しそうだ」

 「普段は見えない暗い星も、今日は見えるからね。そうだ、知ってるかい。地上に生きる人たちと、あの空に輝く星たちは、どれかひとつずつ対になって繋がっているそうだよ。この空のどこかにある、自分の"星"を見つけること――それが、"海の賢者"になる条件なんだ」

 「ふうん…こんな沢山な中から見つけるのは、大変そうだな。どうやって自分の星だって分かるんだ?」

 「なんとなく、かな。人生の目的みたいなものだよ。見つければ、すぐにそれと分かる。見つけられる人はすぐ見つかるらしいんだけどね」

その口調は、自分は見つけるのに苦労した、と言っているような気がした。

 「…意外と沢山あったんだな、星って」

言いながらロードは、ハルは普段からこれだけの星を見ているんだろうなと思った。或いは、人の眼には新月の晩でさえ見えないような星でも。頭上にも、足元にも、無限に広がる星の海の中で、気が付けば自分の居場所さえ判らなくなってしまいそうだ。

 「僕の前の代の"海の賢者"は、変わった人でね。ほとんど人と話もしなかった。」

ぽつり、ぽつりと話しながら、ハルはゆっくりと星の海の中へ歩き出していく。

 「僕が"賢者"を継いだのは、たまたまさ。代替わりする時、他に丁度いい年齢で魔法の素養のある若者がいなかったからなんだ。ちょうど今のロードくらいの年だったかなあ…。四百年勤めた先代は、何をすればいいのかもほとんど教えてくれなかった。――足りない知識は、後からランドルフに教わったんだよ。ちょうど今のフィオみたいだね。でも、僕にはフィオみたいな覚悟も意志もなかったから…」

いつの間にかロードは星空ではなく、それを見上げるハルの後姿を見ていた。頭上にも足元にも無限に広がる星の海の中で、それだけが彼の知っているものだったからだ。

 「マーシアが来てくれるまでは、ずっと一人だった。」

足を止めて、そう言った。

 「僕を一人の人間として見てくれる人は初めてだった。一緒に居られなくても、世界のどこかにいるってことだけで嬉しかった。無意味に思えたこの世界が、初めて意味を持って視えるようになった気がして…」

 「だからあの時、長生きして良かったなんて言ったのか?」

 「だめかな」

 「いや、だめじゃないけど…」

言葉に詰まっていると、背を向けたままハルが笑う。

 「そういう顔も、マーシアにそっくりだ。ロードは優しいねえ」

 「……。」

足元の水面に映る星空が、僅かに揺れる。

 二十年前、二人が出会った時も、きっとこんな風に一緒に星を眺めていたのだろう。無意識のうちに彼は、目の前に立っている男の後姿の側に、かつての、居間に飾られた昔の写真のままの母の姿を重ね見ていた。


 あの日の涙の意味も、今なら分かる。

 あの時の言葉の意味も、今なら…。


 「そろそろ帰ろう。」

近づいて、ロードはハルの腕をとった。ハルが、驚いたような顔をする。

 「遠くばっかり見てると、自分が立ってる場所が分からなくなる。」

 「…そうだね」

足元で水面が乱れて、映りこんだ星空が消える。底の見えない無限の星の海は、ただの暗い夜の海に戻っていく。ヤシの木立の下まで戻ってきて手を離した時、ハルは言った。

 「またおいでよ」

 「ああ」

頷いて降り返ったロードの肩に手を伸ばし、ハルは、ほんの一瞬だけ不器用に、彼を抱きしめた。それから、照れたような顔をそむけて、何も言わずに波間へ消えていった。

 遠くの波間を、鯨の黒い背が泳ぎ去っていく。

 一人になったロードは、もう一度、ヤシの葉ごしに星空を見上げた。


 この夜空のどこかに自分と繋がっている星があると言われても、とても探し出せる気がしない。それほど星の数は多すぎて、空は、途方に暮れてしまうほどに広い。

 けれど、この果てしなく広がる空のどこかに、自分を思ってくれる星が一つはあると思うだけで、確かに、不思議なほどに孤独が薄れてゆくのだった。





星の海/了.

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