第5話 鴉

 翌朝、ロードは日の出とともに村を出発した。昨日の村長の頼みごとを果たすためだ。丘の周辺はうっすらと朝靄に包まれ、光が乱反射している。

 「へー、なんか西のほうと森と全然ちがーう」

フィオは物珍しそうに辺りの風景を見回している。「見たことの無い花が一杯咲いてる!」

 「遠足じゃないんだから、道草はなしだぞ」

 「分かってるわよー。」

ついてこなくてもいい、と言ったのだが、彼女は。一人で待っているのは退屈だからと強引に追いかけてきたのだ。だが、フィオでなくとも心が浮き立つ気持ちは分かる。今は春の盛り、若草の香り、川べりには黄色い春の花がぽつぽつと咲いている。これが<影憑き>狩りでなければ、さぞかし楽しかっただろうとロードも思った。


 目的地は、小川に沿って歩いた先にある低い山々だ。川が流れているあたりが削れて谷になっていて、村人たちはそこから山に入っては薪や山菜、薬草などを集めている。

 普段なら誰かしらとすれ違う川沿いの獣道も、今はしんと静まり返り、鳥の声だけが響いている。村長の出した"しばらく谷に入るな"とというお触れは、守られているようだった。

 歩いているうちに、左右の山が少しずつ険しくなり、谷には光が届かなくなった。ふいにフィオがぴたりと足を止める。

 「…どうした?」

 「なんかおかしいの」

そう言って、少女は微かに眉を寄せた。「動物たちの気配がしないわ」

 「そういえば…そうだな」

谷の入り口で聞こえていた鳥の声も、今は聞こえない。川の流れる音以外せず、辺りは、不思議なほど静まり返っていた。

 谷からは、湿気を帯びた冷たい風が昇ってくる。村長の言ったことは大げさではなかったと、その時になって彼は初めて確信した。

 ロードは、それとなく腰からナイフを一本抜いた。

 「近くに<影憑き>がいるのかもしれないな。この谷は、昼間でも光が直接当たらない。」

ゆっくりと歩き出すと、フィオも後ろからついてきた。谷間を流れる水の音が、次第に大きくなってくる。

 「この先に、滝がある」

行く手に光が射している場所が見えていた。獣道の終着点だ。<影憑き>は、光のあたる場所には出てこられない。

 「あそこまで行けば――」

言いかけたロードの腕を、フィオがぎゅっと掴んで引き止めた。

 「待って」

 「何?」

 「…聞こえない?」

耳を澄ませると、静寂と水の音にまじってギチギチと奇妙な音が聞こえた。谷間に反響して、どこから聞こえてくるのか分からない。不愉快な気配。背筋に冷たいものが伝い落ちる。

 近づいて来る。

 「一体、どこ…」

言いかけたとき、直ぐ側の茂みが大きく揺れ、黒い影が飛び出してきた。

 「きゃあっ」

 「フィオ!」

ロードはとっさにナイフを投げた。灰色の毛玉がぱっとフィオを離れ、数歩飛び退る。避けようとした少女の身体が、道を大きく外れて小川のほうへ滑り落ちる。

 それは、大きな狼だった。わき腹に折れた矢が突き立ったままだ。村長の見たという<影憑き>は、これに違いない。

 「…誰かが仕留めそこなったんだな」

或いは、猟師に狙われて息絶えかけていた躯に<影>が取り憑いたのか。しかし、そんな死にかけの体とは思えないけほど、相手は素早い。油断したら喉笛を掻き切られる。

 ロードは、相手に隙を見せないよう用心深く谷間のほうに近づくと、足元の斜面を覗き込んだ。

 「フィオ! 立てるか」

 「う、うん」

フィオは、スカートを払いながら立ち上がった。牙にひっかけられた袖口が破れてはいるが、噛みつかれなかったのは幸運だった。少女は顔を真っ赤にして狼を睨みつけている。 

 「あれを倒せばいいのね?」

 「ああ、でも…」

 「いくわよ!」

叫ぶや否や、彼女は胸元に手をやり、何かを呟いた。途端に、空中で燃え上がる炎が辺りを明るく照らし出す。ギチッ、と不快な声を上げ、灰色狼の姿が闇に跳躍した。

 「おい、無茶す…」

 「いいから、狙って! 来るわ!」

はっとして、ロードは後ろを見た。驚いたことに、狼は逃げようとはしていない。茂みに半分体を沈めながら、灰色に濁った眸で獲物を狙い続けている。やがて、その姿が木立の間の藪に消えた。

 ざ、ざ、ざ。

 下草の中を移動する音が響き、やがて足音が消えた。だが遠ざかっているのではない。隙をつくため、場所を移動しているのだ。

 けれど音が消えても、ロードの眼には<影>の姿がはっきりと映っている。それは普通に見える風景とは違い、黒々とした煙のようなものが流れていくイメージとなって眼に映っていた。

 影がぴたりと止まる。

 「そこだ!」

ロードは狙いを定めてナイフを投げた。投げると同時に、腕輪を嵌めたほうの手を宙に掲げ、反発の力を加える。ナイフは宙で加速し、茂みを貫て真っ直ぐに狼のわき腹に突き刺さった。ギチギチという悲鳴。狼は一瞬よろめいたものの、やはり<影憑き>には一撃では効かない。素早く身を翻して逃げようとした。そこへ――

 「甘いわよ!」

叫んで、フィオが宙に指先で円を描いた。と、周囲の草が突然発火し、丸く囲んでゆく。赤い輝きに照らされて、狼が宙に踊りあがった。

 「火を投げつけるだけと思わないことね」

勝ち誇った笑みを浮かべる少女。続けて、ロードは二本目のナイフを狼の前足めがけて放った。逃がさないためだ。

 狼のギチッという不快な悲鳴が、辺りに響き渡る。炎の円の中に閉じ込められた狼の体は、黒い塊に見えた。肉と、毛皮とが燃える匂い。

 ――火の中で動かなくなった獣は、やがて、燃え尽きてただの炭の塊となった。


 <影>が消えてゆくのを眼で確かめて、ロードはふうと小さく息をついた。

 「やったみたいだな。」

言いながら、狼に近づいて二本のナイフを順番に引き戻す。フィオは黒い燃えカスになった狼には見向きもしない。あまり気持ちのいい光景でないのは確かだ。

 「これで終わり?」

 「そうだな、一応は。でも、あの奥までは行ってみよう」

そう言って、彼は行く手に見えている広場のほうを指差した。村長の言っていた、「谷の奥で何かが光った」という言葉も確かめなくてはならない。




 滝の音が間近に聞こえる開けた場所にたどり着いたとき、二人は、思わず言葉を失った。

 天頂へと向かう太陽の暖かな光が降り注ぐ谷間の開けた場所。そこに広がる風景は、ロードの良く知っているものではなくなっていた。

 「…何だ、これは」

地面がえぐれ、下草が吹き飛び、岩が高熱で溶けたようになっている。ただの雷などではない。山火事でも、ここまで酷いことにはならないだろう。

 「西の森とおんなじだ…」

呆然とした様子で呟いて、フィオは、一歩、広場の真ん中へ近づいた。

 「シルヴェスタでも同じことが? …けど、これ、どう見ても魔法だぞ。」

 「魔法?」

 「岩が溶けるほどの温度なんて、普通の方法じゃ無理だ。」

 「……。」

少女は、胸の魔石に手をやった。

 「誰か魔法使いが、ここで<影憑き>と戦ったのかもな。さっきのお前みたく、襲われて逆上してたのかも」

 「何よ」

むっとして口をとがらせたフィオを見て、ロードは笑った。暖かな日の光の下にいると、緊張は自然と解けてゆく。さっきまでの谷間とは雰囲気が全く違う。目の前を流れ落ちる細い滝の水しぶきには、光に照らされて小さな虹が映っている。微かに鳥の声も聞こえた。陽の射すこの辺りだけは、動物たちの気配がある。

 「…にしても、あの狼は一体どこから来たんだろうな。人間を襲う<影憑き>なんて、そうそう会えるもんじゃないと思ってたんだが」

 「あら?」

フィオが声を上げ、どこかへ駆けていく。

 「どうした?」

振り返ると、少女は茂みの中から黒っぽいなにかを拾い上げていた。

 「鴉みたい。ケガしてるけど、まだ生きてる」

フィオが抱き上げているのは、胸元の羽毛だけ白い色をした一羽の鴉だった。翼の付け根のあたりに血が滲んでいる。この辺りでは珍しい、ワタリガラスのようだ。冬になると南に渡り、夏になれば北の山脈に戻る。この辺りは渡りのルートではないし、季節からして、とっくに北に戻っているはずなのだが。迷い鳥だろうか。

 「魔法に巻き込まれたのかな。早く手当てしてあげないと」

さっきまで鬼の形相で<影憑き>相手に攻撃していたというのに、今は打って変わって、優しい表情になっている。ロードは苦笑しながら、自分のカバンを開けた。

 「…しょうがないな。ここに入れろ。村に戻るぞ」

 「うん!」

ひとまず、村長からの依頼は果たしたのだ。谷での仕事は、今はこれで十分なはずだ。




 村長への報告を終えて家に戻ってみると、台所の脇のテーブルでは、フィオが、鴉の傷を手当てしようと奮闘中だった。カバンから取り出した見たことも無い薬草を並べ、すり鉢でそれらを摺りあわせている。ツンとくる匂いが部屋一杯に漂っていた。早めに灯したランプの灯が、机の上で揺れる。

 「その荷物、やけに匂うと思ってたら、中身、薬草だったのか…」

 「旅の必需品よ! 森で採れる薬草はすごく効くんだから」

そう言って、フィオはテーブルの端の籠に寝かせた鴉の翼に包帯を巻いている。

 「どうだ、そいつ」

 「大丈夫。今は弱ってるけど、すぐ飛べるようになると思う」

彼女の手元では、濡れ羽色の翼を持つ鴉は嘴を胸の羽毛に埋めたまま、なすがままにされている。しばらくそれを眺めていたロードだったが、ふと、あることに気がついた。青白い仄かな輝き――羽根の下からだ。

 「その光…」

 「ん、何?」

胸の白い毛のあたりに、ちらちらと輝く光は見間違うはずもない。彼は、傷ついていないほうの翼を持ち上げ、鴉の胸の毛を探った。

 「魔石っぽいものが中にある…? あ、痛っ」

こっぴどく嘴でつつかれて、ロードは手をひっこめた。

 「あはは」

フィオが声を立てて笑う。

 「そんなとこ探っちゃ嫌がるわよ。残念ね」

 「ったく…ま、元気になったんならいいけどさ」

鴉はというと、不機嫌そうな顔で嘴を胸の羽毛に埋めなおしている。その胸元には、確かに光が見える。ただそれは、フィオの持っているような魔石とは違い、心臓のように明滅している。そして、小さいのにひどく強い光だ。体の中――鴉は光るものが好きだし、何か石を飲み込んだのだろうか。それにしては…

 「村長さんへの報告は終わったの?」

話しかけられて、彼はようやく我に返った。

 「ああ。でも、これで終わりじゃない気がしてる。隣町でもそうだったが、人を襲う<影憑き>ばかり頻繁に出てくるなんて、どう考えたっておかしいんだ。」

 「<影>が増えたんじゃないの?」

 「それは何故だ? そもそも<影>ってのは、何処から沸いてくるんだ」

 「…え、…うーん」

フィオは困った様子で首をかしげている。彼女も知らないのだ。当たり前だ。誰も、普段はそんなことは考えない。

 「そういう難しい話は、"賢者"にでも聞け、ってことか。…」

呟いて、ロードは日が暮れかかる窓辺から海のほうを眺めやった。


 果たして本当に、マルセリョートの先に"海の賢者"はいるのだろうか。

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