第8話『母の不在』
結論を言うなら、大黒の予想は大外れだった。
茉莉花はマンションを飛び出すと、クリスマスに久しく会えた母と食事をしたレストランを目指していた。
母に会いたかったのだ。
勿論あのレストランに行ってもいないことはわかっていた。
だけど足が自然とそちらへ向かったのだ。
母はとても綺麗な女性だった。
そしてとても若い人だった。
母の顔は大黒が茉莉花のために写真を部屋に置いていてくれたので知っていた。
最初に彼女を『ママ』と呼んだのはいつだったかは覚えていない。
写真の彼女を見て、覚えていないずっと昔から、その女性を『ママ』と呼び続けていたから。
写真の彼女はお世辞にも笑っているとは言えない表情だった。
何処か困り顔で、だけどカメラを向けられたから仕方なく笑みを作ろうとしているような、そんな顔だった。
何故そんな表情だったのか、なんて毎日見ていたせいで不思議にも思っていなかった。
だけど、それはいつのことだったか。
いつかの茉莉花の誕生日だった。
祖母に祖母に可愛いワンピースを誕生日祝いに貰い、茉莉花はすぐにそれを着た。
大黒も、宮も、茉莉花の新しいワンピース姿に大絶賛だった。
可愛い、まるでお姫様みたいだ、など女児を褒め倒す言葉を絞り尽くした。
二人がそういうものだから、茉莉花も嬉しくなってその夜の母との食事会はこれで行くと宣言した。
きっと母も褒めてくれる。
『こんなに可愛いお姫様みたいな茉莉花のそばにずっといたい』
そう思ってくれるはずだ!
茉莉花は早く母に会いたいと思いながら夜を待った。
夜になって、宮に見送られ大黒に連れられ、いつものレストランにたどり着く。
入口には既に母の姿があり、茉莉花はこんなにも可愛い自分を褒めて欲しくて「ママ!」と叫びながら急いで駆け寄る。
だけど……。
「茉莉花……今晩和」
母からまず出てきたのは他人行儀な挨拶と、写真で見るよりも濃い困り顔だった。
駆け寄る茉莉花を抱擁で迎えることもなく、ただ戸惑い気味にそう言った。
彼女は、茉莉花を褒めてはくれなかった。
それどころか『ママ』と呼ぶ度に何処か困ったように視線を下げるのだ。
「ねえ、あすかくん、ママはまつりかのママがいやなの?」
レストランの帰りに茉莉花が大黒に問うと、大黒は戸惑う。
「ママになるには、時間が必要なんだ」
「いますぐじゃダメなの? まつりかのママなのに?」
「そうなんだ」
「むずかしいよ」
「そうだね、大変だけど待ってあげて欲しいな」
そう言われて茉莉花は黙るしかできなかった。だけど大黒の言葉を飲み込むことはできなかった。
おかしいよ。
ママはまつりかのママなのに。
そう思うけれど、大黒を困らせたくなかったから、茉莉花は飲み込んだ振りをしたのだ。
だけど、到底飲み込めることはできなかったのだ。
歳を重ねて、誕生日やクリスマスに母に会えても、彼女は相変わらず困った様子で笑うばかりだった。
ママ、と呼んでも何処か気まずそうにするだけ。
どうして?
そう聞きたいけれど、聞いたらもう会ってくれなくなるような気がして聞けなかった。
でも小学生になって、同じ年の人たちの中で、やっぱり自分の住む環境が『普通』じゃないことを知る。
お父さんいないの?
ママはいるのに一緒に住んでないの?
どうしてお父さんお母さんじゃない人と一緒に住んでるの?
変だよね。
家族の話をされる度に、心の中に黒くもやもやしたものが沈んでいった。
それが今回のことで溢れ出したのだ。
母に会いたい。
彼女こそが母であると、彼女の口から断言して欲しかった。
それだけなのに。
茉莉花は暫く走っていたが、ついに失速し遂には足が縺れて盛大に転んでしまう。
きっと地面がフローリングだったら、びたん、と大きな音が出ていたかもしれない。
思い切り地面に倒れ込んだ茉莉花だったけれど、いつもだったら自分が転けても大黒や宮がそばにいればすぐに声をかけてくれる。心配してくれ、手も貸してくれただろう。
だけど今は一人だ。
手を貸してくれる優しい大黒たちはいないし、抱き起こしてくれる母の姿もない。
自分で起き上がるしかないのだ。
そのことを思い知りながらも茉莉花はゆっくりと両手で地面を押して上半身を起こす。その瞬間、襲い来る虚しさと寂しさ。
どうして此処に母がいないんだ。一度だけでも良いから、私のところに来て私に手を差し出してくれたって良いじゃないか。そう思わずにはいられないのだ。
茉莉花はもう数ヶ月顔を見ていない母の姿を思い出して涙を零す。
「ママ……」
泣きながら母を呼ぶ。
だけど彼女がこの場に来るはないのだ。だって母は茉莉花が個々で泣いていることなんて知るはずもないのだろうから。
誰も来ない。
誰も、だ。
茉莉花は自分を襲う孤独感に涙をこぼしてただ母を呼んだ。
でも孤独感が自分の中で大きくなればなるほど、思い浮かべるのはいつも自分のそばにいてくれる大黒の顔なのだ。
きっと彼が誰より茉莉花をわかってくれているはずなのだ。
父親じゃあないのに……。
それでも誰よりも誠実に茉莉花に接してくれている大切な人だ。
「あすか君……」
茉莉花は彼の名前を呼んで、帰らないと、と焦りだす。きっと大黒だけではなく、宮も心配してくれているはずだ。
帰らないと。
茉莉花はゆっくりと立ち上がるけれど、その際膝に触った時、妙な感触がして茉莉花は慌てて膝を見る。
転けた時にまずは右膝を地面にぶつけたのか、右膝から血が垂れていた。
「あ」
ツーと落ちる血が、茉莉花の靴下に染み込む。
これは二年生になったお祝いに、母は春に贈ってくれたレースがあしらわれた白い靴下が、口ゴム付近から赤くなっていく。
怪我をしたこととりも、折角母に貰った靴下が汚れてしまったことに茉莉花はショックを受ける。
それを見て、早く帰って靴下を洗わないといけないと思い来た道を振り返る。
その時、茉莉花の少し後ろに若い男性が立っていた。
大黒はない。宮でもない。
ただの通行人だった。
コンビニかスーパーで買い物をしてきたのか買い物袋を持っていた。
男性は少し離れたところから茉莉花を見ていた。
はじめはこんな時間に小学生くらいの女児が座り込んでいることを訝しんでいたのかもしれない。だけど振り返った茉莉花を見て明白に驚いてみせる。
茉莉花は、そんなにひどい怪我だったのかと思わず自分の足を見る。
だけど足を見ようと俯きかけたとき、男性のか細い声が聞こえてきた。
「姉さん」
そう呟かれて茉莉花は顔を上げる。
男性は茉莉花をまっすぐに見つめていた。
誰か他に人がいるのかと思い茉莉花はきょろきょろと周囲を確認するが、どう見てもこの場にいるのは自分と男性だけ。
男性と茉莉花の間には近くもなく遠くもない、何とも言えない距離があった。
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