第11話『報せ』

 二人目は小津理奈おづりなという二十六歳の女性だった。

 一人目同様、大変な状態で発見されたらしい。

 胸に前回と同じようにナイフを突き立てられ、衣服を乱暴に暴かれ見るも無残な姿だった。


 北淀美依ほくでんみよりは昨日は遅くまで起きて、隣りで物音をするのを待っていたけれど眠気に負ける瞬間まで隣りの住人が帰ってくることはなかった。

 早朝に兄から理不尽な電話で起こされこの事件の話を聞かされていた時も、南寺静馬みなみじしずまが帰ってきている気配はなかった。


『おーい、聞いてるのか!』

「聞いてるって、今何時だと思ってんのよ」

『五時過ぎだな。いつもこれくらいに起きてるんじゃないのか?』

「あと二時間は寝てるわよ。兄さんは起きてるかもしれないけど」

『あー、俺は今日夜勤だったからこの電話終わったら寝る』

「……」

 本来の起床時間から二時間も早くにかかってきた兄・北淀露樹ほくでんつゆきからの着信をまだぼんやりしたままの頭で口答えした。

『それよりお前もニュース見ただろ?』

「今しがた兄さんの電話で起きた私がニュースなんて見てると思うの?」

『じゃあ今すぐテレビをつけろ、ニュースだぞ』

「うー」

 北淀美依はベッドの上に寝そべってまま、チェストの上に置いていたテレビのリモコンに手を伸ばし、言われた通りテレビの電源をつけニュースにチャンネルを合わせた。

 が、この時間からもニュースはいくつか流れていて、それぞれがそれぞれの報道をしていた。

「何チャンネル?」

『四!』

 言われた通りのチャンネルにすると、ぎょっと目が冴えた。

 それはこのマンションからたった数キロしか離れていない場所で、若い女性の死体が発見されたというものだった。

 発見したのは、夜の散歩を日課にしていた老人で、女性のあまりの惨状に腰を抜かして立ち上がれなくなったそうだ。

 小津理奈という女性は昨日の夜、残業を切り上げて会社を後にする姿を最後に消息がわからなくなったらしい。

 一緒に暮らしていた両親は、マメに連絡を入れてくる娘が、日を跨いでも何の連絡も寄越さないことを心配し、娘のスマートフォンを鳴らすこと数十回。しかしそれが娘に繋がることはなかったため、朝になるのを待って警察に通報した。

 だがその数時間前には既に娘の無残な姿で発見されていたというのだから、居た堪れない話である。

 小津理奈は、先日見つかった久々知咲くくちさき同様、胸にナイフを突き立てられ暴行された様子であった。

 あまりに類似点が多かったため、警察はこの二件を同一人物による犯行であると断定したのだという。


『母さんが凄く心配してる。一旦実家に帰ってこいってさ。会社まで通えない距離じゃないだろ?』

「母さんが言ってるんじゃなくて、兄さんが言ってるんでしょ? このシスコン」

『俺も確かに思ってるけど、今回は母さんも同意した。俺だけの意見じゃない』

 スマートフォンの向こうで兄が得意満面にふんぞり返るのがわかり、北淀美依は無言で通話を叩き切ってやりたい衝動に駆られたのは無理からぬことだが、こんなやりとりは日常茶飯事のことでいちいち真に受けてやるのも癪だった。

 北淀露樹は自他共に認めるシスコンである。

 母曰く、幼い頃から『お兄ちゃん』という響きに痛々しいほど心酔していたのだという。

 当時は近所のチビッ子たちの『お兄ちゃん』的な存在であり、弟分妹分の相手をし、可愛がり、遊び相手を努め、時に叱りつけ、一緒に泣き、寄り添ってきた。

 だけど『守る』ということはしてこなかった。近所のチビッ子たちを守るのはいつだって彼らの両親であり、露樹自身幼いながらもそれを理解し自分の分を弁えていた。なんという子供だ。

 そんな彼に転機が訪れたのは、彼が六歳のときだった。

 母が女の子を出産したのだ。

 露樹にとって正真正銘『妹』が誕生した瞬間だった。

 年の離れた兄妹は仲が良いという話をよく聞くが、彼もその例に漏れず、輪をかけて妹を可愛がった。

 妹の相手をし、可愛がり、遊び相手を努め、時に叱りつけ、一緒に泣き、寄り添い、そして守った。

 妹が泣かされようものなら、殴り合いの喧嘩も辞さなかったほどに。

 露樹は妹を溺愛し、それは現在進行形でかなり拗らせていた。もうつける薬も飲ませる薬もこの世に存在しないと悟ってから、北淀美依はこの兄の発言と行動を軽く受け流すことが最善の策だと思い知った。


「いやよ、面倒臭い。実家からだと、それこそ毎日五時起きになるじゃない。睡眠時間を優先したいの」

『じゃあ会社まで送ってやるよ、社用車で。なんなら着くまで寝てても良い』

「私、兄さんの運転する車には死んでも乗らないって大学の時に誓ったの。兄さんの運転する車に乗るくらいなら、どんなに高くてもタクシーを使うわ」

『はぁ、こんなに安全運転な運転手はいないだろ?』

「そういうことを言ってるんじゃないの」

『冗談はさておき本当に一旦帰ってこいって。俺も母さんも心配してるんだぜ? この事件もそうだけど、俺はお前の隣人のことも信用してない!』

「……」

 隣人。

 言うまでもなく南寺静馬のことだ。

 北淀露樹は出会ったその瞬間南寺静馬を毛嫌いした。

 高校時代、北淀美依とたまたま一緒にいた南寺静馬と鉢合わせした瞬間、露樹は南寺静馬に対して舌打ちを一つお見舞いした上、胡散くせぇ男だな、と本人に吐き捨てたのだ。

 今現在に比べれば、未熟だった南寺静馬もこのときばかりは微笑みを顔に貼り付けたまま固まっていた。

 目の前でこのやり取りを見ていた北淀美依は驚き慄き、後日やってくるだろう南寺静馬からの嫌がらせの数々が呼吸するより早く想像できたけれど、それ以上に久しく兄上への賞賛と尊敬を思い出した瞬間でもあった。

 同性からも厚く支持されていたのを知っていたけれど、まさかこんな身近にヤツの洗脳にかからない強者がいたとは。

 露樹にとって溺愛している妹にまとわりつく男は須らく害虫であり、完璧超人であるはずの南寺静馬もその例外ではなかったのだろう。

 だがしかし、今になって思えば、露樹は南寺静馬の本性を嗅ぎ取ったのかもしれない。

 北淀美依にとって馬鹿で心配性で妹のことになると何処かずれたことをする兄貴であるが、恐ろしく勘が働くのだ。

 それは南寺静馬とのファーストコンタクトの時からその片鱗は現れていたのかもしれない。

 そしてその恐ろしく勘が働く兄が、南寺静馬のことを話題に出した。

 もう嫌な予感しかしない。


『俺は事件以上に南寺の方が危険だと思ってる』

「何を根拠に。大体、新入社員も入ってきたし、新しい企画の立上げもしないダメだからこれからもっと忙しくなるのっ! 実家から通ってる時間なんてないのっ!」

『じゃあ暫く俺がそっちに泊まりこんで』

「結構ですっ!」

 北淀美依は通話を切るとケータイをベッドに転がした。あの兄なら本当に泊まり込みに来かねない。後で母にメールをして釘を刺しておいてもらわないと……。

 テレビではまだ延々と事件のことを流れている。

 どうやら現場近くまでレポーターが出張って生中継しているようだった。レポーターの後ろにはよく見る青いビニールシートが狭い通りの入口周辺を埋めていた。

 現場が此処から近いらしいが、見たことのない場所だった。

 北淀美依自身がマンションと駅との間の道の行き来しかしてないので、見たこともないのも当然だった。

 イマイチ実感がない。

 北淀美依はテレビの電源を消すと、スマートフォンと同じようにリモコンもベッドに転がした。重々しい溜息をつくと、ずるずると立ち上がり壁に耳を押し付けた。


 壁の向こうは、南寺静馬の部屋だ。


 特別薄いというわけではないけれど、耳をくっつければ音が少し聞こえる程度の厚さだった。だけど今は当然何も聞こえるはずもない。

「帰って来なかった……」

 北淀美依は寝起きのフラフラとした足取りで玄関に向かった。

 玄関には春先の冷たい空気が滞留していて寝巻き姿の彼女の素足を冷やした。

 北淀美依はゆっくり玄関のチェーンと鍵を外すと、ゆっくりと扉をあけ南寺静馬の部屋の方を見た。

 扉を開けた瞬間、玄関に留まっていたものよりも更に冷たい空気が彼女の身体を冷やした。

 四階の共同通路の電気は消えているが、日の出が近いせいか通路の奥にある窓からは薄らとした明るさが廊下にも入ってきていたため、視界に不自由はなかった。

 北淀美依は裸足のまま外に出ると、そのままぺたぺたとコンクリートの廊下を歩き、南寺静馬の部屋の扉の前に立った。やはり人の気配なんてしない。


 北淀美依は扉に手を置いた。

 今日の事件も、前回と同一犯であるという見解。

 そして犯人ではないかと疑っていた南寺静馬がこんな日に限って帰ってきていない。状況証拠でしかないが、そんな考えに辿りついてしまう彼女自身の思考が、そしてこの推測を有り得ないと笑い飛ばせず疑えてしまう南寺静馬の人間性が、北淀美依には恐ろしかった。

「(私には、絶対、『あいつがそんなことするはずない』と言い切れないから)」

 きっと何も知らない人たちの方が、南寺静馬を信じているのだ。

 でも彼の近くで、南寺静馬という男のあり方を見ていたからこそ、北淀美依には信じるなんてことができなかった。

「どうして……よりによって今日なんだ」

 南寺静馬が帰ってこなかったこと。

 そして二件目の犯行が起こったこと。

 これが重ならなければ、きっと北淀美依はこんなにも頭の痛い思いをしなくても良かったかもしれない。


「何やってるんだよ」

「?!」

 不意に、不本意ながら聞き知った声が北淀美依の鼓膜を揺らした。

 彼女が反射的にエレベーターホールの方を見ると、そこには昨日の服装のままの南寺静馬が呆れた顔で立っていた。

「し、静馬っ!?」

「シー。五月蝿いから、声のトーン落として」

 南寺静馬が人差指を口元に立て、控えめのトーンで呟くのを見て、北淀美依はまだ今が早朝五時過ぎであることを思い出した。

「で、人の部屋の前で何やってんの」

「何って……家庭訪問?」

「こんな時間にか」

 南寺静馬は呆れ切った顔で重々しい溜息をこれみよがしに漏らした。

 流石に今のが苦しい言い訳であることくらい北淀美依もわかっていたが……。

 北淀美依は、盛大に滑る瞬間を衆目に晒してしまったにもかかわらず、誰も笑いもせず何のフォローもなく放置されたような恥ずかしさに顔を赤くした。

「それで? 人の部屋の前で何やってんだよ、ストーカーかお前」

「変態のお前に言われたくない」

 ストーカーとか、南寺静馬には言われたくない。

 北淀美依は苦々しいを通り過ぎて禍々しいほどのしかめっ面をお見舞いすると南寺静馬の部屋の前から退く。

 南寺静馬は心外だと言いたげに、彼女と同じように顔をしかめたが、その顔には機嫌の悪さよりも疲れが現れていた。

 いつもきっちりと背広を着こなす南寺静馬だけれど、今はそうではなかった。

 ネクタイは緩められ、上着は着ておらず通勤カバンと一緒に右手にくたっと握られていた。

 いつも整えられていた髪も風に煽られたかのようにぼさぼさで、目元にはうっすら隈まで出来ていた。

 本当に腹立たしいが、物事を常にそつなくこなしてきていた南寺静馬は高校の宿題や考査、大学のレポート、会社での仕事が終わらず夜眠れないなんてことは一度だってなかった。

 精神衛生は取り返しがつかないほど乱れていても、日常生活のリズムはいつだって規則正しかった。高校の学期末試験で北淀美依が徹夜で勉強してきたときも、彼女の青白く不健康な顔を見て、日頃から勉強をしてたら徹夜なんてしなくても良いはずだけどな、と鼻で笑いやがった顔は朝日の眩しさ以上に憎らしいものだった。

 あのときは本当に腹が立った。

 そう宣った南寺静馬がまさか徹夜?

「アンタ、寝てないの?」

「……ちっ」

 北淀美依が直感的にそう尋ねると、南寺静馬は苛立ちを含ませた視線で彼女を刺した。

 だけど北淀美依にはそんな視線今更痛くも痒くもなく、彼女は更に彼の内情に踏み込もうとした。

「大体飲み会が終わって何処に行ってたのよ。久郷先輩はアンタが久住さんを送って先に帰ったって言ってたけど」

「……」

 南寺静馬はきっと、余計なこと言ってんじゃねーよあの野郎、なんてことを考えているだろう、そんな顔だった。

 このくらいの機微なら十年の付き合いから容易にわかる。

 そして、これ以上追及してくるな、そういうことも考えているのも北淀美依にはわかった。

「二時間寝るから、起きてなかったら起こしてくれ」

 南寺静馬はそろそろ眠気が限界だと言いたげにうんざりと呟くと、北淀美依を無視してさっさと部屋に入ってしまう。

 残された北淀美依は呆気に取られながらも、喉元まで出かかっていた疑いの言葉を出せずに代わりに大きく溜息をついて項垂れた。

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