3、あがりが見えない(8)

 お互い身体中が真っ赤だった。こんな状態で外に出れるはずはない。一滴でも血を残したままでいるわけにはいかない。美沙希に至っては顔に巻いた包帯も赤黒く染まっている。


 狭い浴室で二人身体を洗いあった。最後に顔を洗うために、美沙希の包帯を取ってやった。パリパリと音を立てて包帯が解けていく。そういえば、美沙希の包帯を取った姿を見るのは久しぶりだ。美沙希の目が見えなくなってからは、この包帯姿しか見たことがない。包帯を最後まで取り終えると、目を閉じた美沙希が現れた。数年前見たときは少しふっくらしていたが、あれからまた痩せたのかやつれたのか、美沙希の容姿は高校の時と大して変わりはなかった。


 美沙希はゆっくりと瞼を開いた。眼球は動かない。ただ前方の一点だけを見つめている。一見すると盲目になってしまっているとはわからなかった。


 シャワーをさっさと済ませて、服に着替える。美沙希は再び綺麗な包帯を目に巻いていく。


「行こうか」


 玄関を開けると外は既に真っ暗だった。人の通りはほとんどない。目的地までほとんど人目につかずに済みそうだ。右手には愛ちゃんを入れたキャリーバック、左手には美沙希の手を引いて、僕らは三人で歩き出す。


 僕らは一度一緒に来た近所の公園にやって来た。思った通りだ。誰もいやしない。昼間には寝ていたホームレス達の姿もない。木陰に隠れて僕はキャリーバックの中に石を詰めていく。


 目の前にはあの汚い池があった。水面には苔が浮いていて、緑色と茶色をぐちゃぐちゃに混ぜたみたいに濁っているこの水の中なら、愛ちゃんの姿は見えないだろう。僕はゆっくりと愛ちゃんが入ったキャリーバックを池の中に落としていく。炭酸水みたいな小さな泡がキャリーバックから湧き出て、静かに愛ちゃんは沈んでいく。


 お願いだ。もう一生、僕が生きているうちはこの池から這い出てこないでくれ。浮いてこないでくれ。


 キャリーバックが見えなくなって、僕の前から愛ちゃんが消える。まるで最初から僕の人生に愛ちゃんなんて存在はなかったかのように、消えて、そして無くなった。

ふと、後ろを振り返るとそこには道があった。さっきまで暗闇で、もうふりだしに戻ることは許されていなかったはずが、愛ちゃんがいなくなったことでまた退路が生まれたようだ。今までの人生をなかったことにして、背負って来た全てを投げ捨てて、ふりだしに戻る。そんなことが本当はできないことはわかってる。でももしふりだしに近づけるなら、今しかない。


「……美沙希」


 後ろでただ立ちすくんでいた美沙希を抱きしめる。


「……ごめん」


 僕は無意識に美沙希に謝っていた。


 何に対して謝っているのか、何で今美沙希を抱きしめているのか、もう自分の感情ですらわからなくなっていた。


 ふりだしに戻りたいのか、戻りたくないのか。僕は一体これからどうすればいい。わからない。これではまるで盲目だ。何も見えていないのと一緒だ。


 静まり返る公園の中で、美沙希は僕の胸の中でこう言った。


なら大丈夫だよ」


 僕は帰る。美沙希と一緒にあのアパートへ。全てを背負って、僕はまた前へと歩き出す。


 その日から、僕も美沙希もあまり会話をしなくなった。二人で一緒にいる時間だけは長くなったが、まるで互いに相手を空気だとでも思っているみたいだった。


 外を出歩くと行方不明とされた愛ちゃんの顔写真をよく見かけるようになった。僕と愛ちゃんのバイト先での関係が明らかになれば、僕に容疑がかかるのも時間の問題かもしれない。そうなれば僕は終わりだ。十五才の少女を殺した殺人鬼として、世間に名前と顔が晒される。殺害動機は……僕の正体を美沙希に明かされそうになったから。これを世間の人間が聞いたらどう思うのだろうか。きっと頭の狂ったやつだと思われるのだろう。理解できないと思われるのだろう。それもそうだ。世間の奴らは僕が歩んできた人生を全く知らないのだから。そんな一部分を抜き取ったところで理解なんてできるはずがないんだ。


 先月から家賃が払えていない。水道代も光熱費もだ。僕も美沙希もいつまでこんな生活をつづけていられるのだろうか。ゴールが見えやしない。ただただ前に進んでいるだけで、何もない。先がない。


 ある日のことだった。美沙希は長いこと歯も磨いていないその汚い口をおっぴろげで、僕にこんなお願いをしてきたのだ。


「平沼先輩のお墓に連れてってよ」


 まさかその名前が出てくるとは思わなかったし、美沙希が平沼先輩の死を知っていることにも驚いた。聞くと、美沙希はテレビが壊れていないことを知っていたようだった。目覚まし時計の電池を抜いて、リモコンを復旧させていたらしい。今じゃもう平沼先輩の自殺の件をテレビで扱っている局はどこにもない。ともなると美沙希はだいぶ前からそうやって僕の目を盗んでいろんな情報を得ていたことになる。だが、それも今となってはどうでもいいことだ。


 僕はそのお願いを飲んでやることにした。ネットにある過去の記事から、平沼先輩の墓の場所を特定することができた。親族が墓に手を合わせている写真が撮られていたからだ。高校の近くにあったお寺の中だ。見覚えがある。


 二人揃って久々に服を着替えた。身支度をして、駅へと向かう。

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