3、あがりが見えない(4)

 二人で住み始めてから二ヶ月くらい経つだろうか。こうして二人で出かけるのは初めてだった。学生の頃はあんなにもたくさん一緒にいたのに、今では一緒に住んでいても一緒にいないみたいだ。美沙希の心は今でも他の人の所にあって、僕はまた空っぽの美沙希と近くにいるのだ。こうして出かけたところで一体何になるというのだろうか。こういうことを積み重ねて、思い出でも増やして、それで何になる。


 僕はただ美沙希が嫌いで、美沙希の不幸を願っていて、そして美沙希を殺してやりたいだけなのに。美沙希をただ絶望の淵に立たせて、背中に蹴りを入れて落としてやりたいだけなのに。


 僕は自問自答する。本当にそうしたいのか、と。本当に美沙希に復讐がしたいのか、と。僕の心に迷いが生じた時、僕はそう自分に問う。そして答えるのだ。

ああ、したい。と。


 正直なことを言えば美沙希と過ごす時間を楽しく感じることだってある。無意識に笑っていることもある。幼児のように振る舞う美沙希のことが可愛く見えてしまうこともある。そんな時、ふと、こんな時間がずっと続けば良いのではないかと、思ってしまう。僕が学生の頃、美沙希のことが好きだったあの頃、僕がしたかったのはこういうことだったんじゃないか。今こうしてそれを叶えてしまっているのではないか。そう思ってしまう。


 でもこれは、僕の甘えだ。


 僕は決めている。もうふりだしには戻らない。今まで背負ってきたこと全てを無視することなんてできやしない。今までの僕を否定したくない。僕がこの先の人生を前に進むためには、美沙希を完全に排除してやらなくてはならない。そうでもしないと僕はいつまで経っても報われない気がした。


 隣に座る美沙希が、僕の肩に寄りかかってきた。


「ねぇねぇ嶋くん」


 これを言われるといつだって言いたくなる。嶋って誰だよ、僕は嶋じゃない。でもそこはぐっと堪えるのだ。言うべきタイミングは今じゃない。


 「嶋くんは私のこと今でも好き?」


 嫌いだ。嫌いに決まっているじゃないか。でも僕は言わない。好きとも嫌いとも。無言を貫くのだ。そうすると美沙希は決まって同じ反応をする。


「ありがとね、嶋くん」


 何が、何がありがとうなんだ。僕は美沙希から感謝をされる筋合いはない。本当に……意味のわからない奴だ。


 しばらくして、ベンチから立ち上がって公園から出ようとしている時だった。


「あ、先輩……」


 声をかけてきた人がメガネを外しているからか一瞬誰だか判断できなかった。しかしその低めの声と無愛想な表情をするのはバイト先の愛ちゃんに他ならなかった。右手にはうちのコンビニの袋を持っている。


 愛ちゃんはチラリと美沙希を一瞥すると眉をひそめてまるで睨むように僕をジッと見ていた。


「お疲れ様です。体調が優れないと聞いていましたが」


 もっと何か言いたげだったが、愛ちゃんはそのまま僕と美沙希の横を抜けて去って行った。その背中を目で追うと、愛ちゃんはすぐに踵を返して僕らにまた近づいてきた。


「これ」


 愛ちゃんは右手に持っていたコンビニの袋を僕に押し付ける。


「要らないのであげます」


 そう言い残して、愛ちゃんは早足で僕らから遠ざかっていく。袋の中を確認するとスポーツドリンクとカットフルーツのパックが入っていた。


「バイトの後輩」


 僕がそう美沙希に言うと


「別に聞いてないよ」


 そう返された。


 その日を境に愛ちゃんはよく僕に声をかけてくるようになった。客がいないで暇をしていると愛ちゃんの方から話しかけてくる。


「暇ですね」


 僕はというとそれに対して気の利いた返しは何一つとしてできなかった。それでも愛ちゃんは「雨ですね」「明日試験があるんです」「お休みの日は何をなさっているんですか?」「クラスでいじめられている子がいて」。表情こそ無愛想なのは変わらなかったが、彼女の方はまるで僕と打ち解けているかのように話すのだ。プライベートの話をすることも聞かれることもあった。話すのがあまり得意ではないせいか一生懸命言葉を紡いで話しているのが見て取れた。


 僕なんかと話をして楽しいのだろうか。それとも何か魂胆があるのだろうか。愛ちゃんが僕と話そうとしだした心境の変化はまるでわからなかったが、見た目の変化にはどれだけ鈍感な僕だって気づいていた。


 愛ちゃんは化粧を覚えて段々と小綺麗になっていった。十六歳の女の子なのだから多少色気づくのも無理はない。しかしその変化はめまぐるしいもので、愛ちゃんがアルバイトとして入ってきた時とはもはや別人だった。そうやって見た目が綺麗になっていくのと比例して、愛ちゃんは少しずつ明るくなっていった。あの死んだ目は今ではまん丸く見開いており、無愛想だった顔も笑顔でいっぱいだった。彼女が別人のようになるまでにかかった時間はたったの二ヶ月程だった。


 二ヶ月間で彼女は変わった。僕はその間、何も変わらなかった。今更変わりようもなかった。


 ある日のことだった。それは突然訪れた。もしかしたらなんて思ってはいたが、鈍感なふりをしていた。実際にはとっくに気づいていた。バイト終わり、ロッカーのある部屋で、愛ちゃんが僕に告白をしてきたのだ。


 十六歳の女の子からの告白だ、もちろん戸惑いはあった。ただその戸惑いはポジティブなものではなくネガティブなものだった。


 愛ちゃんは何か企んでいるのではないか。僕を利用したり、僕を騙そうとしたり、僕の心を弄ぼうとしてるのではないか。どうしてもそう考えてしまう。愛ちゃんが心の中で何を考えているのか、わからない。僕はとっくに、わからないものを信用できるような人間ではなくなっていた。だから僕は言った。


 どこまで本気なのか。僕のどこに好きという感情が生まれたのか。嘘はついていないか、本当のことを言っているのか。


 すると愛ちゃんは言うのだ。


「先輩は誰かに好きだと、伝えたことはないんですか?」


 誰かを好きになって、それを伝えるということがどれだけ勇気のいることで、どれだけ悩んだ末の行動なのか、先輩はそれを知らないんですか、と。


「私は先輩程長くは生きていませんし、わからないことでいっぱいです。他の人がどういう気持ちでこういう気持ちを伝えるのかはわかりません。でも、少なくとも、私の、この、気持ちは、みんなわかることなんじゃないですか。きっと共感してもらえる話なんじゃないですか。だって人を好きになるっていうのは……」


とても辛いことだから。


愛ちゃんは、そう言った。

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