2、ふりだしに戻ったら(3)

 サイレンが落ち着いて街に静けさが戻った時、ふとどこからか声が聞こえた。


「……なんかあったのかな?」


 美沙希の声だった。


 どうやら美沙希は僕がいる踊り場より一つ上の踊り場にいたらしく、そこで同じように外を眺め救急車を見下ろしていたらしい。


 しかしこの美沙希の言葉は僕に向けられたものじゃないことはすぐにわかった。そもそも美沙希は僕が下の踊り場にいるということに気づいていない。


「どうでもよくね?」


 美沙希にこう返したのは知らない男の声だった。美沙希とそして見知らぬ男の声だけが、僕の耳に届いて来る。


「……それよりほら続き」

「嫌。誰か来たらどうするの?」

「誰も来ねえよ」

「それじゃトイレに行こ、私トイレに行くって言って出てきちゃったから」

「何が嫌、だよ。全然嫌じゃないじゃん」

「ここが嫌なだけ」


 そういうことかよ。


「悪い女。彼氏泣くぞ」

「ふふーん、泣かせとけ泣かせとけ」


 彼氏って誰だよ。平沼先輩はもう彼氏じゃないはずだろう。だったらその彼氏ってのは誰だ。


 四本の足が階段を降りて来る音が聞こえる。コツコツと乾いた音を鳴らして、二人はまた店内へと戻り、そしてトイレに向かおうとしていた。僕は何を思ったか、同じタイミングで店内に戻るフリをした。


 美沙希と男に鉢合わせる。男はあからさまにイラついた顔を見せたが、美沙希は目をまん丸くさせて驚いていた。


「あれ……いたの?」


その「いたの?」はまさか「飲み会に来ていたの?」という意味ではなかろうな。僕は首を横に振って、この踊り場には今来たばかりであると嘘を伝えた。


 すると美沙希はあからさまに安心した表情でこう言ったのだ。


「今日はあんまり話せなくてごめんね、またいつか別の日にも誘うね」


 男が半ば強引に美沙希の手を引くと、二人は店内の奥へ消えていった。


 お願いだ。もう僕を誘わないでくれ。断るのも面倒だ。救急隊員に運ばれていく上裸男を横目に、僕はあの騒ぎのあった部屋へと戻った。あれだけのことがあったのに、それを感じさせないほどの熱気がまだそこにはあった。騒々しさはないものの、飲み会自体が終わる気配はない。全員が席に座って、粛々と目の前のアルコールを胃袋に注ぎ込む。会話の量も声の大きさもさっきと比べればだいぶ控えめだ。人数も半分くらいに減っている。


 僕は部屋の片隅に置いてあった吐瀉物の溜まったバケツを持ち上げてトイレまで向かうと、美沙希の喘ぎ声が外まで響いているのを無視して、バケツの中身をトイレのドアにぶちまけた。


……前言撤回だ。


 僕は美沙希が嫌いだ。


 嫌いになれた。


 六年間でこびりついた好きという感情は、ドアを伝って流れる吐瀉物の如くドロドロと流れて消えていく。


 エレベーターに乗ってビルの下まで降りる。


 最終電車はもう既になかった。近くの漫画喫茶に入って朝まで過ごした。翌日もそのまま漫画喫茶に閉じこもって、そして二回目の朝を迎えた。


 そういえば何も口にしていない。食事はおろか水すらも飲んでいなかった。僕はただ漫画喫茶の個室の中で息をしているだけの存在だった。


 僕は一体今日までどうやって生きてきたのだろうか。何を考えて生きてきたのだろうか。何をして時間を過ごしていたのだろうか。


 わからなくなった。


 皮肉にも美沙希への失恋が僕の人生の軸になっていた。美沙希が平沼先輩を選んだという悲劇を糧に僕は生きてきた。そんな悲劇を経験してもなお、美沙希のことを忘れられない馬鹿な男が僕だった。


 今の僕は美沙希のことすら好きでない、からっぽの人間になってしまった。友人なんていない。仕事もない。住むところも。居場所も。生き甲斐も。何もありはしない。


 今までの経験を全てなかったことにして、ふりだしに戻った僕には何もなかった。時間だけが過ぎていく。どこからともなく聞こえてくる秒針の音を聞きながら、きっと僕は今日もここで一日を過ごすのだろう。


 そうして漫画喫茶を転々としながらの生活は、ついに半年が経過した。


 同じところに留まっていると店員に退店を促される。だから一つの漫画喫茶に居られる時間はだいたい一週間くらいだった。


 一張羅のスーツは縒れてしまい、もはや就活に使えるものではなくなっていた。だから半年が経った今でも無職だし、バイトすらも始めていなかった。

そんなある日のことである。漫画喫茶のドリンクバーでコーンスープを入れていると、ふと話しかけられた。


「あの……覚えてますか?」


 僕と同じ歳ほどの女の子だった。どこかで見覚えのある顔だったが思い出せない。


「だいぶ前の飲み会に……いらっしゃいましたよね? 美沙希!って叫んでた……」


 飲み会と言ったら半年前のあの飲み会しかない。美沙希と叫んでいたともあれば、それは彼女の見間違いでもなく、確実に僕のことだろう。あまり関わりたくなくて会釈だけでその場を去ろうとしたが、彼女は自ら名乗り始めたことで会話が始まってしまった。


 彼女の名前はどうやら実咲というらしく、漢字は違えど美沙希と同じ名前だった。実咲は美沙希と仲が良いらしく、飲み会のあの場では全く話さなかったが、あの中で普段一番接しているのは自分だと豪語した。しかし妙なのは彼女のしおらしさだ。あの美沙希と仲良く話せるとは到底思えない程に、彼女の話し方は大人しく謙虚だ。美沙希との共通点がまるで見つからない。しかし話を始めると止まらないタチなのかドリンクバーの前であるにも関わらず、実咲は美沙希の話を長々と話し続けていた。

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