1、ふりだしに向かう(3)

 三年間詩穂とセックスをし続けて、僕の中にいたはずの美沙希は徐々に薄れていた。詩穂がいたからなのか、それとも時間が解決したからなのかはわからないが、美沙希のことを考えることは最近ほとんどなくなっていた。


 それなのに、平沼先輩はこうしてまた僕を苦しめる。あなたは僕の前に現れてはいけない人だったはずだ。それなのに偉そうに僕に言うのだ。


「仕事が充実していると、私生活も充実するよ」と。


 そうですか。あなたの私生活はそれほどに充実しているのですか。それは羨ましい限りです。皮肉の限りを尽くしたかった。


「ところで君は彼女はいるの」そう聞かれて、僕は首を縦に振った。


「結婚は考えてる?」

「同棲は?」

「夜の営みは?」


徐々に質問は僕のプライベートに土足で入り込むようなものへと変わっていく。もはや会社のこととは何も関係がない。


「僕にも大学生の彼女がいるんだけどね、大切な人がいると仕事も頑張ろうって思えてくるんだよ」


 僕はどうだろうか。詩穂のために頑張って働こうと思えるだろうか。もしそう思えるのだったら、きっと今ごろ就活に勤しんでこの先の将来のことを案じていることだろう。そうしていないということはつまり答えは出ているのだ。


 少し詩穂のことを考えてみる。何故だか顔が思い浮かばなかった。そんなはずはない。でも薄っすらと靄がかかったみたいに詩穂の顔が出てこない。三年間一緒にいたはずだ。いくらなんでもそんなわけはない。可愛らしい顔をしていたことだけは確かだ。いや、本当にそうだっただろうか。本当に詩穂は可愛かっただろうか。もうわからない。わからなくなってしまった。詩穂の声は。髪は。好きな食べ物は。はっきりと覚えているのは乳房の形と柔さ、そして陰部の色と匂いだけだった。


 結局その日僕が平沼先輩にした質問は「その彼女さんとはどれくらいの頻度でヤるのですか」だけだった。質問の答えは「毎晩」だった。死ねばいいと思った。一週間後、僕に届いたのは不採用通知だった。僕は替えにすらなれなかった。


 大学を卒業したが就職先はなかった。学生という肩書すらなくなった僕は晴れてただの無職となった。詩穂は大手の文具メーカーに就職した。


「一緒に住もう」と詩穂から提案をされて僕は快諾した。詩穂が元より住んでいたアパートに転がり込んで、完全無欠の無職ヒモ男となってしまった。詩穂は「人事の人は見る目がないねぇ」なんて言ってくれるけど、僕は結局あれ以降一度も就活をしていない。就活をしているフリだけは上手くなっていたから、きっと詩穂も信じていたに違いない。


 僕はクズになっていた。でもあの日、平沼先輩に会ってからというもの、僕は詩穂のことをよく見るようになった。詩穂はこんな顔をしていたのか、こんな声をしていたのか、こうやって笑うのかと再認識を繰り返す。些細な変化にも気づくようになった。


気づいたら言う「あれ、髪形……」。


 どう変わったか言わなくても、それだけでも詩穂は喜んでいた。


「最近はよく気づいてくれるね」


そう言って詩穂は笑う。


 何かが変わっていくのを感じた。僕は気づくと詩穂のことを考えていた。今日は何を言ったら喜ぶだろう。何をしたら笑ってくれるだろう。そんなことばかりを考えていた。


 無職のヒモになって半年が経過したある日思った。


 僕が就職先を見つけたら、詩穂は喜んでくれるんじゃないか。そう思ったら居ても立ってもいられなかった。就活をしているというフリをしていた手前、就活を始めた素振りを見せるわけにはいかなかった。あくまで今までもやっていたが、調子が出てきたということにする他なかった。


 僕にはたいした経歴はなかったし、人当たりが良いわけでもない。本気を出したところで就職が難しいことに変わりはなかった。それでも徐々に就活というものに慣れてきて、一次面接を通過することも増えていった。確実に前進はしていた。詩穂の笑顔が見たい。それが僕の足を動かして、僕のやる気に火をつける。面接時間が夜しかない企業でも積極的に行くようになった。面接の一回一回が練習にもなるのだ。とにかく数をこなそう。下手な鉄砲だって数を撃てば当たるはずだ。


 そうして二か月。何とか採用までこぎ着けた。僕は二駅先にある学習塾の事務員として、来年の四月から働くことになった。採用通知は最終面接のその日、その場でもらえた。


 僕はそれを詩穂に伝えるため、軽快な足取りで帰路に就いた。アパートの階段を上がって、詩穂の待つ部屋へ。


「……詩穂!」


 玄関の扉を開けてすぐに詩穂の名前を呼ぶ。しかし部屋は真っ暗だった。電気をつけると暗闇の中から詩穂が現れた。振り返った詩穂は目を真っ赤にして泣いていた。笑顔にしようと思ったその日、彼女は今まで僕に見せたことのないくらい不細工な顔で泣きじゃくっていたのだ。


「……どこ行ってたの?」


 鼻をすすりながら詩穂は言った。


「働こうともしてないのに、どこに用があるの?」


 詩穂の言葉が突き刺さる。違う、僕は働こうとしていた。確かに少し前までは働く気なんてなかった。でも今は違う。僕は詩穂のために働きたい。


「私わかってたよ、就活してるフリしてたの」


 詩穂はゆっくりと立ち上がった。ふと視線を床に落とすと会社で使っていた資料のようなものがビリビリに破れて散乱していた。


「会社ね……辞めてきた。もう私無理だよ……」


 僕には詩穂に何があったのか、全くわからなかった。笑顔を見たいがために就活を本気で始めて、最近は詩穂と話す時間も減っていた。だから詩穂の心の変化に気付くことができなかったんだ。


 詩穂にかける言葉が見つからなかった。もしかしたら詩穂を追い込んでいたのは僕なのかもしれない。働かない僕を詩穂は養っていたのだから。仕事の辛さと僕とを天秤にかけて、そして今日僕を諦めてきたのだろう。


 僕は仕事が決まったよ。そう言ったら今の詩穂ならどうなるだろう。素直に喜んではもらえないはずだ。僕は最後までクズだった。僕は詩穂に何もしてやれなかったのだ。


「もう、別れよ……」


 詩穂はそう言ってベッドの中に潜り込んだ。僕はただ立ち尽くして、頭の中で葛藤した。でも僕ができることはもう何一つとして残されていない気がして、「ごめん」とだけ残して、僕は詩穂の家を出た。


 僕はその夜、電話で学習塾の採用を断った。


 詩穂の家を出て、途方に暮れるしかなかった。季節は秋だったが気温は既に真冬のような寒さで、雪が降ってもおかしくはないくらいだった。確か六年前、美沙希に告白したのも今日のような気候だった。


 あの日、もし美沙希への告白に成功していたら、僕の人生は少しくらい違っていたのだろうか。僕はあの時みたいに、今も笑っていられたのだろうか。そんなのはわからない。「ずっと楽しくいられたら良いのにね」なんて美沙希は言っていたけれどそうも上手くいかないのが人生なのだ。

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