第二章 春霞の中で 02


          *


 先程まで窓枠を震わせていたピストンエンジンの羽音も今は収まり、ステラエアサービス社の事務所の中は微かに空調の音が響くだけになっていた。

 目を通していた経理書類から顔を上げ、美春は壁に掛けられた時計を見る。

「もう十一時か……」

 各地からやってくる到着便と全国に向かう出発便でごった返していた午前中の玉幡飛行場も、この時間を過ぎる頃には喧噪も一段落してつかの間の静けさに包まれる。

 広大な駐機場には大小様々な機体が翼を休め、その間を縫うように多くのタンクローリーや作業車が行き交っている。午後一番の出発に向け、燃料補給や整備の真っ最中なのだった。

 その間、パイロット達は飛行場前の商店街に繰り出して昼食をかき込んでいたり、場内のどこかに場所を見つけて昼寝を決め込んでいたりと、思い思いの方法で休憩を取っている。毎日多くの積荷を背負って日本中の空を飛び続けるパイロット達にとって、身体を休める時間というのは何よりも貴重なのだ。

「うーん……はぁ」

 大きく背を反らせて固まった首筋を伸ばした後、美春は溜息をついた。今日中にやっておかなきゃならない書類はまだまだある。

 積み上げられた書類の山から次の案件を抜き取ったその時、格納庫と直結している扉を開けて祖父の冬次郎が入ってきた。

「あら、お爺ちゃん。もう午前の仕事は終わり?」

 どうやら扉の脇にある小さな洗面台で、機械油にまみれた手を洗っていたらしい。タオルで両手を拭きながら、

「休憩だ休憩。ったく、整備の小僧どもが。こんなジジイにいつまで頼ってやがんだ」

 冬次郎はステラエアサービス社の会長であり、同時に玉幡飛行業組合の特別顧問という肩書きを持つ。しかし本人としては生涯現役を表明していて、今でも一整備士として組合に依頼された機体整備や点検を数多く手がけていた。

 本来なら、組合の若い整備士達の作業を監督する程度でも十分に良かったはずが、本人の性格からして自分で手がけた方が早い、と思ったのだろう。実際、大戦機の整備に関しては豊富な経験を持つ冬次郎の右に出る者はなく、整備士達が束になっても冬次郎一人の作業量にとても叶うものではなかった。

 美春は書類を机の上に置いて立ち上がった。

「じゃあ、少し早いけどお昼にしようかしら。お爺ちゃんは緑茶でいい?」

「おう、頼む」

 タオルを首に掛け、冬次郎は整備ツナギの胸ポケットから煙草を一本取り出して咥えた。

 大昔に進駐軍将校から貰ったというゴツいジッポーで火を付けながら、美春の机に積み上げられた書類の山から一枚を抜き取る。

「……お前、いつから甲斐賊共の事務屋になったんだ」

 書類に目を通しながら、冬次郎は盛大に煙を吐く。

 それは、とある玉幡の飛行業者から寄せられた財務諸表だった。かろうじて黒字を出してはいるが、銀行にそれなりの額の借金があって、内情はなかなかの火の車、といった感じだ。

「え、なに?」

「何でお前が他の会社の書類仕事を抱え込んでんだ、って言ってんだ」

「あ、それ? ウチの業務の一環で、受けることにしたのよ」

 給湯室から急須と湯呑みが乗った盆を運びながら、美春は言う。

「ウチは唯一の所属パイロットが学校通いで、平日の昼は手持ち無沙汰だったから。それで他の会社の事務仕事を代行で受けることにしたの。ウチは『空の便利屋』を看板にしてるんだから、こういうのも仕事になるでしょ?」

「つってもお前、この量は……」

 冬次郎が呆れて書類の山を見る。美春の机の上にある書類の山は、身長百七十五センチを数える冬次郎の目線とほぼ同じ高さまで積み上げられていた。

 美春が湯呑みを置きながら苦笑する。

「……まあ、ちょっと集まり過ぎちゃった感じがするけど……」

「当たり前だ。ドタマん中ぜんぶ飛行機と空の事しか考えてねえような連中にとっちゃ、大人しく机に座って書類書きするなんざぁ一番苦手な仕事なんだよ。お前、いい様に使われたな」

「そうでもないわよ。おかげで我が社の収支もいい感じにプラスになったし、これで今月と来月は何とか乗り越えられるわ。ここに本来の飛行業の依頼が来れば万々歳」

 急須から湯呑みに緑茶を注いで、美春は笑顔を浮かべる。

「それに……」

「ん?」

「これって他のライバル会社の内情をはっきりとした形で知ることができるって事じゃない。これから玉幡の航空業者として空の世界に打って出るんだから、他の会社の事情が判るってそれだけで有利にならない?」

 孫娘の言葉に、冬次郎は目を丸くする。

「我が孫ながら怖ぇ女だな、お前……」

「お褒めに預かり恐縮ですわ、会長」

 冬次郎の言葉を涼やかな顔で受け流す。

 確かにこの程度の書類なら、かつて組合で辣腕事務員として鳴らしていた美春にとって何程のことでもないだろう。しかもお代を頂きながらライバル各社の内情も知ることが出来るのだから、彼女が進んで面倒な事務仕事を請け負ったのも判る、気がする。気がするだけだが。

 冬次郎は書類を山へと戻すと、応接ソファにどっかりと腰を下ろした。

 湯呑みの茶を音立てて飲み下し、ふと伝えておこうと考えていた話を思い出す。

「そうだ、三式連絡機ステラの事なんだがな。夏海が飛んで帰ってきた後は毎日見てやってるんだが、操縦索がえらく延びてやがんな」

「操縦索? 操縦桿スティツクから補助翼エルロン昇降舵エレベーターに繋がるケーブルのこと?」

 家から持ってきた弁当を祖父の前に置きながら、美春は首を傾げる。

 冬次郎は首を振った。

「操縦桿だけじゃねえ。方向舵ラダーペダルに繋がってる索も、全部が全部だ。目で見るぶんには判らない程度だが、精密に計ってみるとはっきり延びてやがる。ひでえ時になるとセンチ単位で延びてる時もあるぞ」

「うーん……それって、どういうことだと思う?」

「あのバカが、無理な力をかけて飛ばしてやがんだ」

 美春の問いかけに、冬次郎は即答する。

「もしくは、やたらと舵を切りまくってるか、だな……あ、お前。弁当にゃ人参入れるなっつったろうが」

「昨日の晩の残り物だからね。お隣の公恵きみえおばさんから、大塚人参おおつかにんじんたくさん貰ったのよ」

「あのババアに余計なことすんなって言っとけ」

 弁当の中身を覗いて顔をしかめる祖父に、美春はくすりと笑った。

 自分の弁当箱の蓋を開き、箸を取り出して両手を合わせる。

「いただきます……でもここ一ヶ月、そんなに舵を切るような天候の日ってあったかしら?」

「無いな。少なくとも極端に気流が乱れるようなことはなかったはずだ。小雪がチラついたり雨が降るような天候の時は、そもそも飛行自体を取り止めてたろ」

 弁当の中から人参を取り出して蓋の上に除けながら、冬次郎が言う。

「それに、操縦索なんてな簡単に延びるようなもんでもねえんだ。たかだか修正舵いれたくらいで索が延びてちゃ、命がいくつあっても足りやしねえよ」

「……お爺ちゃん、お行儀悪いわよ?」

「うるせえ。老い先みじけえ爺様に毒を食わせるんじゃねえ。人参なんてな馬の食い物で、人間様が食うもんじゃねえんだ」

「美味しいのに……」

 大塚人参は玉幡の南、市川の丘陵地帯で採れる名産品である。肥沃な土壌で育った人参は牛蒡のように長く、口に含めると人参特有の香りと甘さが際立つ逸品だ。昨晩の夕食には、これに椎茸とジャガ芋、鶏肉を合わせて甘辛く煮含めたものが食卓に上っていた。

 美春としては、煮物は作ってから一晩置いて味が染みたものが一番美味しいと思う。口の中に広がる人参の甘さと香ばしい醤油の香りに満足して、ふと美春は中天を見つめて考え込む。

「……やっぱり、そうなのかしら………」

「あ? 人参なら食わねえぞ」

「お爺ちゃんが人参嫌いなのは今に始まった事じゃないでしょ」

 昔から断固として人参だけは食べない冬次郎の言葉を、ぴしゃりと制した。

 苦虫を噛み潰したような表情の祖父を横目に、箸の先で煮物を突っつきながら言う。

「実は、気になってたことがあるの。あの商業初飛行の日から、ずっとあの子には散布仕事ばかりやらせてきたけど、クライアントからの苦情が多いのよ」

「苦情って、どんな」

「撒いたところが目標の畑から大きく外れてたとか、角度が悪くてほんの少ししか撒けなかったとかね。だいたい七回に一回は向こうから電話が掛かってくるわよ」

「……多いな、そりゃ」

 平日でも一日に二回は散布仕事に飛び立つため、二、三日に一度は苦情の電話が掛かってきていることになる。

「そのことを、夏海には?」

「最初の頃は注意するように言ってたんだけどね。あんまり苦情の電話が多いもんだから、何か他の理由があるんじゃないかって思ったの。……それにあの子、失敗した時でもケロッとしてて、こっちから言うまで失敗したことに気付いてないみたい」

「なんだそりゃ。失敗したことを誤魔化してる……訳じゃねえな。あいつにそんな腹芸ができるわきゃねえ」

 我が孫ながら呆れ返るくらい、どこまでも真っ直ぐ馬鹿正直に生きている夏海のことだ。失敗したことに気付いていたのなら、黙っていても態度で判るはず。例えば、机の下で膝を抱えていたりとか。

 それにしても、どうして夏海はこれほどまでに失敗を重ねているのだろうか。

 春の甲府盆地は風の穏やかな日が多く、空気も澄んでいて視程も非常に良い。ただし周囲を高い山に囲まれているために、季節風が移り変わるこの時期には微風の吹いてくる方向が一定しないという地理的な特徴があった。

 機体が大きく振られる程の風力ではないために、風を読んで機体を操っていかなければならないパイロットの訓練には絶好の気象条件が揃っている。そのため、この時期の散布仕事はまだ経験の少ないパイロットが専任でおこなう訓練を兼ねた業務になっていた。

 逆にいうなら、風向きやその強さをしっかりと読んでいたのなら、そうそう失敗することはないはずなのだ。

 卵焼きに箸を突き刺したまま考え込む冬次郎に、美春は静かに訊ねる。

「あの子がステラで一番最初に飛んだ日のこと……あの時、離陸した直後くらいに八ヶ岳からの吹き下ろしですごく振られてたの、覚えてる?」

「ああ。でもありゃ北向きの風に対して、まだ速度が乗り切ってないのに上昇角を取り過ぎたのが原因だろ。だから翼面に風がまともに当たって振られたんだよ。発動機の推力には余裕があったから、何とか失速だけは回避できたがな」

「そもそも、何であんなに急角度の上昇をする必要があったの? 韮崎の上空二〇〇〇mを通過するって指示があったとしても、離陸直後の不安定な状態でいきなり急上昇をかけて八ヶ岳颪に煽られるよりは、玉幡の上空で旋回しながら高度を上げていった方が時間はかかるけど安全に高度をとれたはずよ」

「そりゃお前、夏海の奴がせっかちなんだろ。同じ所ぐるぐる回るよりゃ、一気に高度取って楽しようと考えたのさ」

「それに、もう一つ」

 ぴん、と箸を立てて言う。

 お前だって行儀悪ィじゃねえか、という祖父の言葉を聞き流して、美春は続けた。

「あの初飛行の時、あの子ったらステラでいろんな特殊飛行を試してたじゃない?」

「ああ。あのお転婆、犬っころみてえにはしゃぎ回りやがって。後できっちりどやしつけてやったさ」

「その時の機体の状態は?」

「二目と見れねえくらい操縦索が延びきってたぜ。ワシもこの稼業になって長ぇが、あんなの見たのは戦争中以来だったな。あとフラップの支持架も、何があったんだかガッタガタになって……」

 そこまで言ってから、冬次郎は何かに気付いたように口籠もった。

 しばらく考え込んでから、やがて意地の悪そうな笑みを浮かべる。

「……はん、判ったぜお前の考えてる事が。そういう事なのか?」

「たぶん、なんだけどね。もしかしたらと思って、あれから一ヶ月ずっと甲府盆地の中での仕事をやらせてきたけど、やっぱり正解だったかも」

 美春は肩を竦ませて苦笑する。

 夏海にはステラの飛ばし方を学んで貰おうと、近場での仕事だけ選んできたのだけど。

 あるいは予想以上に、大きな収穫があったのかも知れない。

「お爺ちゃん。書類整理が終わったら少しだけ事務所を離れるから、その間電話番をお願い。なっちゃんが学校から帰ってきたら、いつもの肥料散布に飛ばしてあげてね」

「作業の合間に電話が取れるならな。どこへ行くんだ?」

「ちょっと組合まで行ってくるわ」

 結論を出す前に、確かめておかねばならないことがあった。

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