第一章 曙光行路 03


 *


 太陽は中天に指しかかろうとしていた。

 整備完了の知らせに飛び出した夏海が、最初に命じられた仕事はステラを駐機場まで引き出すことである。

 格納庫の奥底からステラを引き出してくるのは一苦労だった。何しろ整備中の機材やらストックしてある部品やら正体の判らないガラクタやらで、格納庫の中は混沌の上に混沌を重ねたような有様だ。

 でも勝手に置いてある場所を変えると冬次郎が怒るので、夏海はいちいち動かす位置を冬次郎に尋ねながら、陸生と協力して格納庫の中を整理し続けた。冬次郎が構内放送で呼びかけて、途中から他の会社の手持ち無沙汰な連中が手伝ってくれたけれど、そうでなければ何時までかかっていたことか。

 ちなみに美春はいまだに書類仕事の真っ最中で、秋穂はターミナルビルへと去ったまま戻ってきてはいない。こういう時、機体の傍を離れられないパイロットは損だと思う。できれば、あと一人や二人くらい社員を増やしてくれたら嬉しいんだけど。

 そうして何とか出口まで機体が通り抜けられるスペースを開拓し、主翼を後方に折り畳んだステラが駐機場に引き出された。


「きたぞォ────ッ!!」


 その途端、ワッと周囲から歓声があがる。深く前傾して全力でステラを押していた夏海は、突然湧き起こった大勢の声にそのままズッ転けそうになってしまった。


「な、何なに!?」


 格納庫の正面が、いつの間にか数え切れないくらい大勢の人々で埋め尽くされていた。

 擦り切れたパイロットスーツを身につけた飛行士もいれば、油染みたツナギ姿の整備士もいる。老いも若きも、男も女も、押し合いへし合いしながら歓声を上げている。

 彼らに共通しているのは、いずれも飛行場の外に出たら即座に社会不適合者ならずもの烙印らくいんされそうなほどスレきっていることだ。


「いやぁ、っけぇなあオイ!」


三途さんずかわ渡る前に、もう一度あの三式連絡機を拝めるたあ思わなかったな」


「で、あいつで飛ぶ夏海ってのはどいつだ?」


「あの、ケツから押してる娘ッコだろ」


「冬ジイの孫にしちゃ細っこくねえか?」


 ヤクザのカチ込みのような図太い声を上げながら、妙にギラついた視線を送ってくる大勢の人々に、夏海は思わずウッとってしまった。


「──なんだオメェら、世間様にゃ見せられねえようなむさ苦しい雁首がんくび並べやがって。見世物じゃねえんだ、とっとと散りやがれ馬鹿野郎!」


 格納庫から出てきた冬次郎が、周囲を取り囲んだ人々に向かって怒号を放った。

 自分の方がよほど町中を歩けなさそうな顔をしていることをすっぱり無視して、手にしたスパナを威嚇するように振りかぶっている。


「その赤い三式連絡機はこの玉幡じゃカナメみたいなもんだろ、冬ジイ」


 人垣の真ん中にいた壮年の飛行士が、肩をすくめながら苦笑する。

 ボサボサ頭にビヤ樽のような体型のこの男を、夏海は何度もこの玉幡で見たことがあった。たしか鹿山運輸かやまうんゆC─46テンマの操縦桿を握っている、名は忠岡ただおかといったか。


「ずっと格納庫の裏でカビ生やしてたそいつが、芳郎の娘の手でもう一度空を飛ぶって聞いたら、甲斐賊としちゃ一目拝もうって思うもんさ」


「何がカナメだ何が。こんなスクラップから起こして適当に赤く塗っただけのもんを、有り難がって拝んでんじゃねえ」


「でもよぅ……」


「おら、もう少しで午後便の準備が始まるってのに、テメェらも仕事あるんだろうが。こんなとこで油売ってねえで、テメェの機体の機嫌でも取ってやがれってんだ。散れ散れ、邪魔だ!」


 その辺にあったエンジンオイルのペール缶をブン投げて、冬次郎は人垣を追い散らしにかかる。

 手負いの熊でも逃げ出すような怒気にも何処吹く風で、甲斐賊達は三々五々格納庫の前を去っていく。口々に「いや~良いモン見れた」だの「これで玉幡も安泰だ」だのと言い合いながら歩いていく様は、ほとんど十年に一度公開される秘仏をその目に収めた仏像マニアのそれだ。

 夏海としては、ただただ唖然あぜんとする以外に無い。


「ったく、ゴロツキどもが。ちょっとでも笑えるネタがありゃ、すーぐにサボろうとしやがる。どっから聞きつけてきやがったんだか……」


 遠くまで投げ飛ばしたペール缶を提げて戻りながら、冬次郎は舌打ちを繰り返している。


「いいか、夏海。これから甲斐賊の一員になるっつっても、あいつらみてえなゴロツキになるんじゃねえぞ。なったらなったで、ワシがケツっぺた蹴り飛ばしてでも真っ当な道に戻してやるから覚悟しとけ」


 ぶふー、という祖父の盛大な鼻息に、真っ白だった夏海の意識が引き戻された。


「じ、ジイちゃん……何でみんな、あんなにこのステラに興味津々だったの?」


「忠岡のバカが言ってたろうが。カナメみてえなもんだってな」


 節くれだった手で胴体の側面を撫でながら、冬次郎は柔らかな陽光に照らされたステラを見上げる。


「赤い機体色は、玉幡飛行場で一番初めに空輸業をはじめた機体……つまりこいつだけに許された色なんだよ」


「この機体だけに……」


「そうだ。言ってみれば、この玉幡で根を張っている連中が〝甲斐賊〟として群れ集まり、自分の有り様ってのを確かめるための旗がわりが、この赤い三式連絡機なんだ」


「自分の……有り様?」


 まるで鸚鵡おうむのように言葉を返してくる孫娘に、冬次郎は怪訝けげんそうに眉をひそめた。


「お前、一応は小学校から十年ばかり勉強してきたんだろ。今の玉幡飛行場がどうやって出来たのか、それくらいは学校で教えてもらってきたはずだ」


「一応って、そりゃ成績が良かった訳じゃないけどさ……」


 ぶっちゃけ赤点ギリギリのところを行ったり来たりしてましたけれども。友達に助けてもらいながら、何とか落第を回避してきましたけれども。

 夏海は腕を組んで、うーん、と脳みその底に仕舞い込んでいた知識を呼び覚ました。


「最初は軍用飛行場だったのが、戦争が終わってから東京への食料の輸送基地に生まれ変わって、そこから小口輸送の自営空輸業者の拠点になっていった……って感じかなあ」


「何だ、今の学校じゃその程度しか教えねえのか。地元の歴史くらい、力(リキ)入れて教えてやれってんだ……」


 冬次郎が呆れたように舌打ちする。

 いや、本当はもうちょっと教えてもらったはずだけど覚えてないんです……とは口が裂けても言えなかった。


「じゃあ、東京にどうして食料を空から運び込むことになったのかは?」


「あ、それは知ってる。東京に繋がる鉄道が軒並み空襲で潰されちゃって、唯一残されたのが空の道だったから……だよね?」


 それは、この国で義務教育を受けた人間にとっては当たり前のように学ぶ歴史の一コマだ。

 太平洋戦争末期、昭和二〇年八月からの一ヶ月間にわたって行われたアメリカ軍の鉄道攻撃は、国内の交通路を完膚無きまでに叩き潰した。

 特に、首都圏と中京・関西方面を結ぶ東西連絡路、すなわち信越本線しんえつほんせん碓氷峠うすいとうげ中央本線ちゅうおうほんせん笹子峠ささごとうげ東海道本線とうかいどうほんせん丹那たんなトンネルは、山体そのものが崩壊するほどの集中的な爆撃を受け、首都圏と地方を結ぶ陸路は完全に途絶してしまう。

 昭和二〇年九月一五日の終戦以降、陸路は閉ざされ、駿河湾するがわん以北を無数の機雷によって封鎖された首都圏に待っていたのは、深刻な食糧不足だった。昔も今も、首都圏に住む人々の胃袋は、そのほとんどを首都圏の外で生産される食料によって支えられていたのである。


 夏海の言葉に、冬次郎は小さく顎を引いて頷いた。


「ラングーンで収容所に入れられてたワシが、日本に帰ってきたのは終戦から半年くれえ経った頃だ。銚子ちょうしで復員船を降りて、何とか歩いて東京に辿たどいてみたら、焼け野っ原の中をガリガリに痩せてる幽霊みてえな連中がフラフラ歩いててよ。一時は東京だけで四〇万人が餓死するんじゃねえかって予測すら出てたっけな」


「四〇万人……」


 その数字がもたらす悲劇の大きさに、夏海は暗澹あんたんたる気分になる。

 これも社会科の授業で習ったことだけれど、確か今の山梨の人口が八〇万人と少しだった気がする。その半数にあたる住民が飢えによって命を失うかもしれなかったとは、一体どれほどの地獄が当時の首都圏では展開されていたのだろう。


「陸も海も駄目なら、残るのは空しかねえ。首都圏へ空から救援物資を運び込むために、進駐軍GHQが接収してた陸海軍機を民間に放出しはじめたのはワシが復員してきたのと同じ頃だ。色々あって三式連絡機を手に入れたワシは、仲間と一緒に荒れ地になり果ててた玉幡飛行場へ移って、首都圏への食料の運び屋を始めたんだよ」


「それが、今の個人業者中心の玉幡飛行場が生まれたきっかけ?」


「そうだ。ワシらが玉幡に根を張ったあと、戦争中に搭乗員として空を飛んでた連中が噂を聞きつけて集まり始めてな。そうして航空団として一気にデカくなったのさ」


 赤い翼を見上げながら、冬次郎は懐かしそうに眼を細めた。


「戦闘機乗り、爆撃機乗り、ベテランもいれば特攻崩れもいる。色んな境遇の人間が集まって、殴り合いの喧嘩なんか日常茶飯事でな。とりあえず、そんな連中を一つにまとめるにゃ旗が必要だってんで、代わりにワシの三式連絡機が赤備えに塗られちまってよ。やたら目立つもんだから、食料を運んでいった先じゃ何処でも色んな意味で大歓迎だったぜ……そうして玉幡に巣くったゴロツキどもに、東京を空から救援する空の義賊としてついたアダ名が、甲斐賊だ」


 冬次郎は、胸ポケットから取り出した煙草を咥えて火を付けた。

 宇宙の底まで手が届きそうな深い青空に向かって、複雑な渦を描きながら立ち昇っていく紫煙を見ながら、冬次郎は言葉を続ける。


「……半年後。笹子峠の鉄道線が復旧して首都圏への食料輸送が終わり、多くの連中が玉幡を離れて日本のあちこちへ散っていった。ワシを初め、残された連中で立ち上げたのが全国規模での小口配送を専門とする空の輸送基地──つまり、今の玉幡飛行場の原点ってことになる」


「は~~~~~」


 夏海は深々と溜息ためいきをついた。

 いつも何気なく過ごしていたこの玉幡飛行場に、そんな過去があったとは。これからはこの飛行場や、ここで働く人々を違う視点で見ることができそう。


「人にも場所にも歴史ありってとこだね……」


「何を柄にも無え小生意気なこと言ってやがる。お前ェはこれから、そんな甲斐賊の一員になるんだよ」


 ぶしゅーっ、と唇の端から蒸気機関車のように煙を吐き出して、冬次郎はのほほんとした孫娘を睨む。


「甲斐賊ってなぁ、やさぐれちゃいても東京を救った歴史に誇りを持ってる連中だ。そこに芳郎の娘たるお前ェが、甲斐賊の旗たる赤い三式連絡機で乗り込んでくんだ。例えド素人の新人飛行士でも、気の抜けた飛び方しやがったら一気にそっぽ向かれちまうぞ。気合い入れてけ、気合いを」

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