祝・第2巻発売決定! ステラエアサービス【電撃の新文芸/書籍版】/第2章まで増量試し読み

有馬桓次郎/電撃文庫

プロローグ

「管制塔、こちらステラ11ワン・ワン……」


 上ずる声を、生唾を飲んで押さえ込む。


「離陸準備すべて良し。タキシングの許可をください!」


 山梨・甲府こうふ盆地のほぼ中央にある、県営玉幡飛行場けんえいたまはたひこうじょう

 駐機場の端にまった赤い三式連絡機ステラの機内から、天羽夏海あもうなつみは本日最初の、そして商業パイロットとして初の無線交信ラジオを発した。

 格子状に組まれた窓枠とプレキシガラスで覆われた風防キヤノピーの向こう、わずかに空へもたげた機首の先端では二翅ふたしのプロペラが回り続けている。まだ前進する力に結びつかないアイドリング回転だが、すでにその姿を目に収めることは難しい。ここからだと、ぼんやりとした半透明の円盤が機首に括り付けられているように見える。

 乗降扉の隙間からうっすらと流れ込んでくる、鼻腔びこうの奥を刺すような排気煙の匂い。ガソリンと潤滑油が燃える匂いは、彼女にとって幼い頃から嗅ぎ慣れた郷愁を誘う匂いだ。

 ぷつり、と無線がつながる音。


『ステラ11、こちら管制塔タワー。タキシングを許可します。誘導路四番から滑走路三五に向かってください。滑走路進入前に申告を』


 管制塔から返ってきたのは、女性の声だった。自分が自家用、そして事業用免許を取得するまで、ずっと耳に響いてきた声。

 夏海はまだその女性に会った事がない。狭いこの飛行場の中で、不思議と夏海は彼女と会うタイミングを逃し続けてきた。

 声の調子からして、ずいぶんと若い。たぶんお姉ちゃんと殆ど変わらない位の年齢の人だろう。

 いつかは会ってお礼が言いたいな、と思う。だって、あたしがここに来るまでずっと見守ってくれた人だもの。

 スロットルをわずかに開く。

 エンジンの唸りが高まり、徐々にステラが前進を始める。タイヤがセメント舗装の継ぎ目を捉えるたびに、ゴトン、ゴトンと鈍い衝撃が腰に伝わってくる。

 駐機場の端まで移動してから、夏海は左のラダーペダルの先端を足の指先で踏み込んだ。左主脚タイヤにブレーキが掛かり、ゆっくりと機首が左方向へと振れていく。

 機体が誘導路に入ったのを確認してから、夏海は操縦席左側にあるフラップ操作盤の四つのボタンの内、離陸時に使う一五度のボタンを押し込んだ。

 途端にガラガラガラ……と物凄ものすごい音が両翼から響く。ステラのファウラーフラップは電動モーターによるチェーン駆動で、フラップを出し入れする時にはシャッターを開閉するような大きな音がするのだ。

 滑走路に向かって誘導路をタキシング中も、チェック項目は色々とある。

 姿勢指示計は左右では水平、上下はわずかに機首上げ。問題なし。

 燃料残量計、今回の飛行に必要な量を示していることを確認。

 気筒温度計ピストンテンプチヤー油温計オイルテンプチヤー油圧計オイルプレツシヤー燃圧計フユーエルプレツシヤー電圧計ボルト、いずれも異常を示す数値は見当たらず。

 位置応答装置トランスポンダ、オン。モードは高度三〇〇〇メートル以下を有視界で飛行することを示す、スコーク一二〇〇にセット。

 操縦席ドア、ロックを確認……。

 誘導路の端を示す白線が前方に見えて、夏海はスロットルを再びアイドルに戻した。慣性で前進していたステラが、白線の前でゆるゆると停止する。

 左右のラダーペダル先端を両足先で踏み込んでブレーキを掛け、スロットルをわずかに開く。ビリビリと振動する操縦席でぐるりと計器盤を見回し、もう一度だけ異常が出ていないことを確認する。最終のエンジンチェック、よし。

 パイロットも新人なら、機体もまたスクラップ同然からレストアして今回が最初の飛行だ。何処どこにどんな不具合が隠れているか判らず、夏海は念には念を入れてチェックを繰り返した。

 スロットルをアイドルに戻す。無線の通話ボタンをオン。


「こちらステラ11、誘導路四番の端に到着しました。離陸前最終確認、すべて終了。滑走路への進入許可を下さい」


『ステラ11、滑走路三五への進入を許可します。現在は北向き正面の風、風力二ノットの微風びふう


 通常、滑走路には磁北からの方位角で番号が割り振られている。

 玉幡の滑走路は、磁北から少し左に傾いた三五○度方向へ一五○○メートルの長さで伸びている。従って北向きに離着陸する場合は滑走路三五、一方で南向きへの離着陸には滑走路一七と、それぞれ呼称される。

 今日は北からの微風が吹いていて、離陸のときの揚力を得やすくするために北方向への離陸を指示されていた。冬場の甲府盆地には八ヶ岳颪やつがたけおろしと呼ばれる北北西の風が吹き下ろしてくるために、この時期の玉幡飛行場は滑走路三五を使った離着陸が一般的となるのだ。

 滑走路の端に着いた。

 前方には特殊アスファルト舗装の道がぐに伸びている。太い点線が一定の間隔で描かれ、ずっとずっと先の滑走路末端には逆向きの『17』という数字が見えた。

 遮るものの無い、大空への道。

 さっきまでの不安とは違う心地良い緊張に包まれながら、夏海は大声で告げた。


「こちらステラ11、離陸用意良し!」


『ステラ11、離陸を許可しますクリアード・フォー・テイクオフ


 ふと、視線を横に向けた。

 格納庫の前で佇んでいる二つの人影は、祖父の冬次郎とうじろうと弟子の陸生りくおだろう。一人は腕を組んで、もう一人は床に座り込んで、こちらを見つめている。

 ターミナルビル屋上の展望デッキ。手すりに身体からだを預け、長い髪を風になびかせながら見守っているのは姉の美春みはるだろうか。柔らかな笑顔を浮かべながら、こちらを見つめる姉の姿が目に浮かぶようだった。

 小さく手を振ると、屋上の人物が腕を軽く振り返してきた。


「──よしっ!」


 スロットルを全開まで開いた。

 地面を蹴りつけ、ステラが一直線に走り出す。

 対気速度計の針がぐんぐん上がっていく。滑走路の点線が次々と目前に現れては後方へと消え、やがて点線は一本の白線に繋がって見えるようになった。


「……V1ブイ・ワン


 離陸決定速度。

 腰に伝わる凹凸の衝撃が徐々に強くなり、すぐに軽くなった。尾輪が浮いたのだ。

 あわてて操縦かんを手前に引き、それ以上首を下げさせないようにして走り続ける。このまま加速を続ければ、やがて翼が十分な揚力を得て飛行機は勝手に空中へ浮き上がってくれる。


「ろっ、ローテーション!」


 機首上げ速度ローテーシヨン。ステラは尾輪式のため、この場合は機体の尾部が上がって水平姿勢で滑走を始める速度を示す。

 ──何よこれ!

 練習機の時よりも随分と早いタイミングに、夏海は驚いていた。

 この三式連絡機ステラ短距離離着陸性能STOLに優れているのは知っていたけれど、こんなにあっさりと尾輪が浮いてしまうとは。

 まるでたこみたいだ、と夏海は思う。


「……V2ブイ・ツー!」


 安全離陸速度。

 その瞬間、夏海のレシーバーに女性管制官の声が響いた。

 まるで空へと後押ししてくれるような、そんな柔らかくて力強い声だった。


『──行ってらっしゃい!』


 フッ、と身体が軽くなった。

 大地から解き放たれ、空へと昇っていく瞬間の感覚は、何物にも変えがたい快感だ。

 まるで自分の背中に羽根が生えたような浮遊感に全身が包まれ、夏海は無線機に向かって叫ぶ。


「いってきま───────す!」


 冬の柔らかな太陽の下、宇宙の底まで手が届きそうな蒼空そうくうを、赤い三式連絡機は真っ直ぐに駆け上がっていく。


 それは、大いなる夢への第一歩。

 緋色ひいろの翼が導く、はるかなる夢へのフライトの、それは最初の羽ばたきであった。

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