存在理由
私は、彼を見誤っていたのかもしれない。
そう、サツキは考え直していた。
だからお母さんは、あの時、彼を恨まなかったんだ……。
いつもの参謀司令室。
心なしか薄暗くて、空気が重く感じる。
さっきからトウシロウは机に突っ伏している。
右手には酒の入ったグラス。
英雄と呼ばれるには程遠い、やつれた姿だ。
救いようがないほどに精神がおかしくなっているのだと、専門家でないサツキでさえも簡単に判断できる。
一人で敵軍を能力者もろとも殲滅した事実は、圧倒的な力の差を他国に知らしめる絶好の機会となった。
トウシロウの脅威はすぐに他国を駆け巡り、それから数週間ですべての国がほぼ降伏という形の同盟を持ちかけてきた。
事実上、トウシロウ・アガヅマという男一人に、この世界が白旗を掲げたのだ。
しかし、彼は再度、力を失っている。
それを悟られないように同盟を締結した手腕だってもっと評価されてもいいはずだ。
彼の精神が崩れ、壊れ、苦しんでいる。
ある意味で、それはサツキの望み通りだったのかもしれない。
だけど今は、トウシロウから零れてくる懺悔の言葉を、サツキはこれ以上聞きたくないとおもっっている。
「報われ、ない。テツ、お前は…………」
サツキはいつの間にか耳を塞いでいた。
それでも、トウシロウの声は聞こえてくる。
「……ああ、俺は、報われない……」
この部屋から出よう。
そう思っているのに、今ここでトウシロウを一人にしたら、彼はひっそりと死を選んでしまう気がして、一人になんかできなかった。
殺したいくらい憎んでいたはずなのに。
兄の敵なのに。
今、この人に死んで欲しくない。
制裁なら、私がやらなくたって、もう十分受けたじゃないか!
「ヒサト、……すまん」
弟に謝りながら、グラスに残った酒を一気に飲み干すトウシロウ。
あの時、サツキが言った言葉のせいでトウシロウは戦場に向かった。
その結果、トウシロウは多くの人間を殺した。
戦争を終わらせた。
「兄ちゃんはもうダメみたいだ」
「ダメみたいって、どういうこと?」
サツキは、死地に向かうのと同じくらいの覚悟を持って、トウシロウに話しかけた。
トウシロウはサツキを一瞥し、また酒を煽った。
「だってそうだろ。俺は、ただの人殺しだ。みんな、死んでいく」
「私がいるじゃない!」
「……はっ?」
「私がいる意味は、今は、それなの」
父も、母も、兄も、誰一人として復讐を望んでいないことを知っていた。
なのに、サツキだけは呼吸をするみたいに自然と湧き上がる復讐心に従った。
それが、この心の痛みから救われる唯一の道だと思っていた。
そう思い込んで、トウシロウに近づいて、天罰を与えて、苦しむさまを間近で見て―――――
「何で自分で全部壊すのよ……」
苦しみは増すばかりだった。
サツキの目から涙がぽろぽろ零れ落ちて、絨毯に水玉模様が浮かびあがる。
ああ、この男は、この英雄は、どこまで行っても優しいんだ。
自分を犠牲にする道しか選べないんだ。
英雄は大勢の国民を救う正義のヒーローだが、英雄になると、英雄自身と、英雄の大切な人たちは犠牲になってしまう。
すべてを守れる人などいないのだ。
「サツキ……?」
涙するサツキを見て、トウシロウは立ち上がる。
そうだ。
そうだそれだその行動なんだ!
サツキの心に怒りが湧き上がる。
こいつは、トウシロウは、すぐに自身の気持ちを棚に上げて、他人を心配し始める。
サツキは顔を上げ、頬を赤くしながら唸るように言った。
「私が、私だけはあなたと一緒にいる。あなたを慰め続ける。トウシロウと別れるつもりはない。だって仕方ないじゃん。トウシロウはいつも、世界のために孤独になろうとするんだから!」
サツキは、英雄のすべてを見てきて、その過酷さに、カッコよさに、優しさに、どうしようもなく引かれてしまった。
「私はあなたから全てを奪うために近づいた。あなたを壊すために、苦しめるために」
サツキの言葉に面喰ったのか、トウシロウはその場で立ち止まった。
トウシロウという人間はこの世で生きるべき人間、英雄だと呼ばれるにふさわしい人間だ。
サツキはその事実を今はっきりと理解した。
兄も母親もそれを知っていたから、この英雄のせいにしなかったのだ。
英雄の純粋すぎるほどの心と、何もかもを自分のせいにしてしまう自己犠牲の心が、いやがうえにも他人の醜さを引き立たせてしまう。
「私はそのために近づいたの……私は、あなたたちに、最初から」
「何となく……知ってたよ。それくらい」
この国の英雄は笑った。
「だから俺も安らいだ。サツキが、俺のことを貶すように接してくれるし」
目の前の英雄はどこまでも人のせいにすることを知らない。
人のせいにした方が楽なのに。
そうやって生きた方が楽なのに。
彼は正真正銘のバカ真面目なのだ。
そんな人ほど損をするようにこの世界は出来ている。
バカ真面目だから、天才なのにその事実に気がつかない。
「私はあなたのことが、本当に、心の底から憎かったの。あなたといると、自分のことが嫌になるの……」
「よく言われるよそれ。お前が近くにいると、自分の才能のなさに嫌気がさすって」
「そういうことじゃない! それは違うの。みんな結局、妬んでるだけなの」
「でも俺は……多くの人の命をこの手で奪ってきた。そういう対象にならないといけない存在だから」
自分を蔑んで、すべてを自分の責任にする。
自分が悪い方に持ち込んでいく。
そうやって天才である自分を保ってきたのが、この男なのだ。
「あなたがそうやっていくら人の下に自分を位置付けようとしたって、意味ないの」
「いや……俺は実際そうだし。英雄の自分は虚像だし」
「それも自分自身なんだよ!」
サツキは、このバカ真面目な英雄を支えたいと思った。
恨みに囚われる自分から卒業したいと思った。
復習なんていう低俗なことに囚われていた事実に気付かせてくれた、目の前の哀れな英雄の、大切な人であり続けたかった。
「何でそんなことに気付かないんだよ! バカなの? あんた天才なんだろ!」
「サツキ、ちょっと落ち着け」
「落ち着いてられるか!」
サツキはトウシロウの前に仁王立ちして、トウシロウを見下ろした。
「だって、私は、私は……あなたの」
足に力が入らなくなって、膝から崩れ落ちる。
「本当に、あなたは、覚えていないの? 私のことがわからないの?」
「覚えてない……って、その、すまん。サツキが何を言ってるのか見当つかないよ」
トウシロウは首を傾げている。
当然だ。
会ったこともない。
あなたは兄の友達だったというだけ。
でも、天才なんだったら、陰で兄と遊ぶあなたのことを見ていたのだから……気が付いてくれたっていいのに。
「私は、ノゾム・キリガヤの…………妹です」
「……えっ? サツキ、が、ノゾムの妹……」
「そう! だから私は! あなたが今のままなのは許せない!」
サツキは力を振り絞って立ち上がり、英雄の両肩を掴んだ。
「ねぇ? 私の兄が死んだことはどうでもよくなったの? こんな人間じゃなくて……いつまでも兄に誇れる人間でいてよ」
「どうでもよくなるなんて、そんなわけないだろ」
「だったら! いつまでそんな惨めな姿晒すの? あなたが兄の死を、テツの死を悲しむだけなら、私が……今すぐにでも復讐のためにあなたを殺す。私が、私のために、あなたを殺すから……英雄なんだったら、親友だと思ってるなら、私に……そんなことさせないでよ。あなたを殺しちゃったら私は、死んだ父に、母に、兄に、合わせる顔がないじゃない。恨まれちゃうじゃない」
大粒の涙が止まらない。
舌を噛み切る準備もできている。
「私が、あなたの事を慰めてあげるから、私の前では泣いていいから、前を向いて生きてよ」
サツキは英雄の胸に額をこつんと添えた。
「私も、独りぼっちは……もう嫌なの」
「サツキ……?」
声音で英雄が戸惑っているのが分かった。
そんなの関係ない。
「だから、お願いします。こんな私に……ちゃんとした存在理由をください」
涙で声が滲む。
それでもちゃんと届け。
伝わって。
「お願いします……。あなたのことが好きです」
そう告げた後、図ったように沈黙が訪れる。
宇宙の呼吸を感じられるほどの静寂だ。
時間の流れに取り残されていくみたいに、長く長く感じた。
「サツキ」
名前を呼ばれて、サツキは顔を上げる。
トウシロウの綺麗な瞳に、涙でぐちゃぐちゃのサツキ・キリガヤが映っていた。
「俺にも、存在理由をくれるか」
トウシロウはサツキを優しく抱きしめた。
「……はい。よろしくお願いします」
暖かな日向に包まれているみたいに心地よい。
そう、サツキは思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます