ねぇ、どうしてあなたは。

「それはこっちの台詞」


 俺の「マジかよ」という呟きを受けたアヤも、嫌悪感満載の表情で吐き捨てる。


 それから彼女は、それがさも当然かのようにその場に座った。


 背中を壁に預け、床に直接。


 ゴミ捨て場に置き去りにされた小汚い猫のように。


 ああもう腹立つなぁ!


「……なぁ?」

「何?」

「何って、何でそんな隅っこに座ってんだよ? しかも床にそのまま……。椅子なら空いてんだろ?」


 俺は椅子に座るよう促した。


 一緒に住むんだから、遠慮なんかしなくていい。

 開いているスペースなんかいくらでもあるだろ!

 

 まるで自分がいない者、この家にいてはいけない者みたいに。


「なっ……何で?」

「だからぁ! そんなとこに座るんだったら、この家にいる意味がないだろうが!」


 そう叫ぶと、アヤの肩がびくりと跳ねた。

 よくみると顔が赤い。

 まあ、さっきまで風呂に入ってたしな。


「……あんたの隣に座るのが嫌なだけよ!」


 そう言いながらもアヤはこちらに近づいてきた。

 ちょこんと、さっきまで兄ちゃんが座っていた椅子に座る。


「結局座るのかよ!」

「別にいいでしょ!」


 この女の考えることはよく分からない。

 ってかこれ以上なにを話していいかわからない。


 当然のように沈黙が訪れた。


「……なぁ?」


 次第に凝り固まっていく空気に耐えられず、俺は口を開いた。


「今度は何? 変態」


 くそ。ここで言い返せばまた喧嘩になるだけなので、グッとこらえる。

 女のわがままを許すのが男ってもんだからな。


「お前さ、どういう経緯でここに住むことになったんだよ? どうやって兄ちゃんと知り合ったんだよ?」


 言い方は悪いが、ひったくりをするような最下層に属していた人間が、英雄の兄と接点を持てるわけがない。

 サンマがヤマメに出会えないのと同じだ。

 住む場所が違うのだから。


「それは、たまたま会ったの」

「……たまたまって、そんな」

「知らないわよ! あんたから財布奪った後で、あんたの兄ちゃんからも財布取ろうとしたけど、それで、何か、成り行きで」

「……はっ?」


 いや、成り行きと言われても。

 一番大事なところをはしょらないでくれます?

 ってか、兄ちゃんからも財布をひったくろうとしてたのこいつ?


 ますます兄ちゃんの思考の推移がわからなくなる。


 それは、天才の兄の頭脳に凡人の俺がついていけないだけなのかもしれない。

 でも、兄ちゃんだってこいつに財布を奪われそうになっているらしいし、そんなやつのことを信用して一緒に住むなんて……。


 ちょっと考えが足りないのではないかと思ってしまう。


 兄の優しさを考慮すれば、それも仕方ないのかもと思うことはできるが……それでもどこか釈然としない。


「それ以上私に何も聞かないでよ。私だって分からないんだから。それに、こんな変態が弟だったなんて……最悪」

「それを言うなら俺だって……こんなひったくり犯と一緒だなんて……最悪だよ」

「ああそうですか」


 彼女の言葉は氷柱を連想させる。

 刺々しくて冷たい。

 結局また、二人の会話は終了してしまった。


 気まずいけど、今度は意地でも俺から話してやるもんか!


「……ねぇ?」


 しばらくぶりに――本来は数分くらいしか経っていないのだろうが――彼女が小さな声で話しかけてきた。

 その声には不安の色が浮かんでいる。


「何だよ?」

「どうしてあなたは、私を追い出そうとしないの?」


 アヤは上目遣いで俺を見つめている。


「はっ? 何で?」

「私はあなたからお金を盗んだ。そんなやつと一緒に暮らすなんて、危険だと思わないの?」


 語尾がわずかに震えていた。


「それは……別に兄ちゃんが決めたことだから、俺がどうこう言っても、変わらないし」


 俺は蚊の鳴くような声で呟いた。

 案の定、アヤは聞き取ることができなかったようだ。


「……えっ? 何?」

「だから! お前はそうするしかなかったんだろ? そうやって生きるしか……ない人間がいることくらい知ってる。だから……別にお前を恨んだりとか、そんなことは思ってない」


 俺は何でこんなに苛立っているのだろう。

 俺はアヤから目を逸らした。


「……そう」


 アヤはゆっくりと頷き、控えめに笑う。


「優しいのね……あなたは。こんな私に優しくするんだから。ありがとう、ヒサト」


 瞬間、アヤの顔が真っ赤になる。


「あっ、今のはお兄さんがそう呼んでたからで!」

「そう言えば! お前のせいで風呂……入ってくる」


 俺は、逃げるように風呂場へと向かった。


 服を脱ぎ捨てながら考える。

 なぜ自分がこんなにも慌てているのかよく分からない。


 だからなのかもしれないが、その理由を深く考えるために、いつもより長い間湯船に浸かっていた。


 ――長湯した理由は決して、綾が入った後の湯船だったからではないからな。

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