第13話 初めてのナンパ

「バブ! バブ!」




「辞書を指差してますわ」




「……まさか」




 ザラはすっと目を細めつつも、手近にあった分厚い蔵書を棚から取り上げ、俺の前にそっと置いた。




(とりあえずは、ゲーテでいいか?)




 俺は喋る代わりに、辞書をめくって、単語を一つ一つ指差すことで、恋愛詩の名作を再現していった。




「『ザラ夫人へ。とこしえに、私はあなたにとって――。あなたは私にとって――。ああ、何というかけがえのない存在でしょう。もはや世間の道理や決まりにはくじけません。あなたと一緒にいれば、無理にでもあなたを愛してはいけないと思い、あなたから離れれば、心からあなたを深く愛していると悟る私です』――あらあら、熱烈なラブコールですわね、ザラ」




 アコニが鈴のような声で笑う。




「いっちょ前にわらわを口説きおるか! ……よもや、カチュアのいつもの親馬鹿故の戯言と思うておったが、まさか、本物の麒麟児か? ――されど、いくらなんでも、まだ一年も生きていない赤子がこのような……ありえぬ。カチュアが、『恋詩』という言葉に反射的に反応するように仕込んだ? いや、それは増してあり得ぬ」




 カチュアは驚きに目を見開き、顎に左手をあてて考え込み始めた。




「バブブブブブブ!」




 あまりやりすぎても良くないな。




 こういうのは引き際が肝心だ。




 強烈な印象だけを女の脳裏に残し、物足りないくらいの段階で離脱するのだ。




(チャージ料代わりにこいつはもらっていくぞ!)




 俺は、ベッドと一緒に運んできた毛布を風呂敷のように使って、辞書をひっかけると、部屋の外に持ち出そうとしたが――




(くっ! 重い!)




 そこは赤子の非力の悲しさ。




 俺は、分厚い辞書の重力に負け、仰向けにひっくり返って、死にかけの蝉のように手足をばたつかせた。




「やれやれ。玩具ではなく、辞書を欲する赤子か。末恐ろしいの」




 ザラは呆れたような、それでいてどこか微笑ましげな調子で言う。




 それから、パイプを机のスタンドに置くと、俺を辞書と共に、そっと抱き上げた。




 母よりは低い体温と、香木の類の、明確に『女』を意識させる匂い。




 四人を子を産んでもなお、彼女は淑女であり、妖婦である。




「ヴァレリーよ。約束の採点じゃが……ずばり、ゼロ点じゃ。血の繋がりはなくとも、近親相姦は重罪ゆえに。口説く相手はよく選べ。貴族の基本の『き』ぞ」




 俺の部屋へと足を向けつつ、ザラは容赦なくそう宣告した。




「ばぶ……」




 俺は俯く。




(これは手厳しい)




 日本では、少なくとも口説いただけで罪に問われるようなことはなかったので、これは困る。




 無論、ルールを覚えることは簡単だが、問題は俺がいい女を見つけた時に、自分の衝動を我慢できるかということだ。




「――しかし、見所はある。暇を見て手ほどきしてやろう。もし、今、妾の言うておることが理解できるならば、な」




 ザラは「赤子相手に何を言ってるんだ自分は」といった、自嘲じみた声で言った。




「あらあら、ザラにしては珍しいじゃありませんか。実の子どもに対してよりも優しいのではなくて?」




 トコトコとついてくるアコニがからかうように言う。




「子の個性を伸ばしてやるのが親の務めぞ。アレンとデレクは戦人で、サージュのやつは学者肌では仕方あるまい。あのような男共は、下手に駆け引きを学んではかえって害がある。寄ってくる有象無象の蠅を叩き潰す手管さえ知っていれば十分じゃ。まあ、奴らはメディス家の家風としてはしごく正しく育ちよったので、それはそれで良いのじゃがの」




「つまりは、ザラは、仕込み甲斐がありそうな玩具を見つけたのが嬉しいんでしょう」




「玩具になってくれれば良いがな。赤子にすら負けておると分かれば、キニエの奴も少しは発奮するであろうよ」




 そんなことを話ながら、母の部屋前までやってきたザラ。




 ドアノブに止まって、遠巻きに俺を見守っていたチクリクソ鳥が、器用に羽で扉を開けて、中に飛び込んでいく。




 そして、ドタバタ、慌ただしい音。




「も、申し訳ありません! わざわざ、ザラ様にご足労頂くなんて! 全くこの子は! いつもは大人しいのに、私が気を抜いている時に限って!」




 乱れた髪を撫でつけながら、母が部屋から飛び出てくる。




「構わぬ。それより、カチュアよ。そなたの申しておった通り、こやつは天才かもしれぬぞ」




「本当ですか!? ヴァレリーは、一角の芸術家になれますでしょうか!」




「芸術家かどうかはわからぬが、さきほど、妾を恋詩で口説いて見せた。ともすれば、『黒薔薇のジェキンズ』のように、数多の女を泣かせる色男に育つであろう」




「この子が詩を!? それは、喜んで良いのでしょうか。ジェキンズは確かに栄華を誇りましたが、その放蕩故に最期は――」




 母は複雑な顔で視線を伏せる。




「いみじくも貴族である以上、上手く言葉が使えて困ることはなかろう――ともかく、ヴァレリーは聡い子よ。絵本以外にも色々と読ませてやると良い」




 ザラはそう言うと、俺に辞書を押し付けて踵を返す。




「はい。ありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」




 母は何度も頭を下げてザラを見送ってから、ようやく部屋に引っ込む。




「もう、だめじゃない! お父様とザラ様にだけはご迷惑をかけてはいけないのよ。いつも言っているでしょう」




 母がきつめの口調で叱ってきた。




「ばぶぶー」




 俺は頬を膨らませた。




 この世に産まれ落ちた以上、責任と引き換えに、俺はどこにでも行きたい所に行く権利がある。




「それに、どうせなら、初めての詩は母さんに詠んで欲しかったわ……」




 今度は母が頬を膨らませる番だった




 不機嫌の原因はむしろこっちらしい。




「ばぶ……」




 すまないな。母よ。




 俺は女を口説く詩は持っていても、家族への感謝の言葉は、これから学ばなければならないのだ。

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